韓国との歴史認識の共有は可能かを探る
by 699yabuhebi
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カテゴリ:中世・近世史( 10 )

実際に朝鮮通信使が見た日本


http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1805893
★第11回の朝鮮通信使(1763〜1764)の一員、金仁謙の旅行記「日東壮遊歌」より抜粋。

※翻訳の為、言葉を平易にしました。
※写真は1860〜1880年頃の撮影です。







大阪



↓↓↓ CLICK! ↓↓↓
http://japanese.joins.com/transboard/upfile/osaka7.jpg

中国の伝説に出てくる楽園とは、本当は大阪の事だった。
ソウルの繁華街の10000倍の発展と言ってよい。
北京を見た通訳が通信使にいるが、「北京の繁栄も大阪には負ける」と言っている。







名古屋


自然の美しさ、人口の多さ、土地の豊かさ、家屋の贅沢さ・・・この旅で一番である。
中原(中国の中心地)にも無い風景だ。
朝鮮の中心地も立派であるが、名古屋に比べれば、とても寂しい。







江戸


↓↓↓ CLICK! ↓↓↓
http://www.mid-tokyo.com/18/photos/07.html

屋敷の贅沢さ、人々の賑わい、男女の華やかさ、城郭の素晴らしさ、橋や船の立派さ・・・。
繁栄は大阪、京都より3倍は勝っている。







京都


悔しいのは、この豊かな楽園が倭 人の所有する土地であるという事だ。
「帝」や「天皇」を自称し、子や孫にまで伝えられる事が悔しい。
この「犬と等しい倭人」を、全て掃討して、日本全体を朝鮮の国土にして、朝鮮王の徳で礼節の国にしたい。








朝鮮通信使の結論 

ソウル×10000=大阪
大阪>北京
大阪×3=江戸
   ↓
ソウル×30000=江戸

江戸>大阪≒名古屋>北京>>>∞>>>ソウル
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by 699yabuhebi | 2006-12-25 23:11 | 中世・近世史

「和寧」か「朝鮮」か

1、李氏朝鮮初代の王となった李成桂は、王位につくやすぐさま、当時誕生したばかりの明王朝に伺いを立て国号を決めて貰っている。

 この時、李成桂は、箕氏朝鮮の旧号「朝鮮」と李成桂の生地「和寧」の二つの名前を持ち出し、明の太祖の朱元璋から「朝鮮」の国号を使うことを許されている。世界史の中で様々な国が存在するが、他国に自国の国号を決めて貰った国など、後にも先にも朝鮮ただ一カ国である。
 本来ならこの一時を持って、朝鮮が中国の属国であった事を、何よりも物語っているのだが、韓国人はこれでもまだ朝鮮が中国の属国であったことを認めないのである。


2、韓国人が誇るものの中に「東方礼儀の国(邦)」とういう朝鮮を指し示す言葉がある。
 この言葉の本当の意味を知っている韓国人は少ないのだが、これは中国王朝から朝鮮へ贈られた言葉である。即ち、中華の天子へ忠実に諸侯の礼を尽くしてきた朝鮮へ中国が上記の「東方礼儀の国」という言葉を贈ったのである。
 直訳すれば「中国の属国として礼節を尽くした国」という意味なのだが、この意味を韓国人は全く理解していないのが、皮肉である。


3、中国王朝の属国における歴代朝鮮国王は、原則皇帝の臣下と見なされる。朝鮮国王は中国皇帝によって任命され、中国の朝廷は朝鮮の王妃や王太子の廃立に至るまで、その権限を振るうことが出来たのである。ちなみにこの当時、朝鮮を実質的に指揮監督していたのは、中国王朝の北洋大臣や直隷総督などである。つまり国王というのは形ばかりのものであって、決して主権国家の元首として扱われていたのではないのである。さらに朝鮮国王の中国王朝からの使節の出迎えは余りにも屈辱的である。
 満州人の使節が来ると、朝鮮国王は自ら高官を引き連れて迎恩門まで歓迎に赴いて、地面にひざまずいて使節に9回土下座をする。宴会を催し、芸を披露して接待しなければならなかった。王太子は慕華館(迎賓館)で使節に酌の礼をするのが最大の役目だった。
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by 699yabuhebi | 2006-12-23 13:34 | 中世・近世史

斥倭偽日と斥胡偽清

 朝鮮半島の歴史は何処を切り出しても悲しい。
 繰り返してはならない愚行を何度でも繰り返すからだ。
 「斥倭偽日(倭夷を斥けつつ日本を真似尽くす)」にさえ原点がある。
 18世紀初頭の「斥胡偽清(胡夷を斥けつつ清を真似尽くす)」がそれである。
 後に「朝鮮ルネッサンス」と呼ばれる事になる時代だった。
 しかし、その後には何故か悲惨な歴史が待ち受けていた。
 「どうしてそんな事に?」
 例によって例の如く韓国人と北ちんぽ朝鮮ちんぽ人だけが真相を知らされてない。
 だけど日本人なら、この程度のことなどすぐに調べ上げてしまう。

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『朝鮮小説史(金台俊)』より
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 英祖(1724~1776年)から正祖(1776~1800年)にかけての時代は、その前後とは比較にならないくらい文化的実績が上がった時代だった。その原因として以下が挙げられる。

1. 英祖も正祖も学問と文芸の愛好者であった。
2. 壬辰、丙子両乱による傷跡がある程度回復してきて余力が生まれた。
3. 清朝考証学派の「実事求是」に影響されて経済復興が課題とされた。
4. 党派間の論議が鎮まり、綱紀が粛清されて文化制度の一新が望まれた。

こういった気風から新しい動きが次々と起こった。

1. 孝宗から顕宗の時代を振り返る『磻渓随録(柳馨遠:26巻)』上梓。その中でり経済改革の必要が訴えられる。
2. 北学派(朴趾源を師と仰ぐ李徳懋、柳得恭、朴斉家、李書九らが構成した実学派の一支流)の台頭。「朝鮮を救済するには経済振興が欠かせず、それには外国(この時代だと清国)の現実の生活から長所(この時代だと貿易と交通)を学び取らねばならぬ」と訴えた。
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 しかし問題が一つあった。この国には、当時なお『丙子の乱』で国土を蹂躪した清国への激しい怨念が渦巻いていたのである。
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 李朝の明国への慕化の念は極めて強かった。
 だから朱子学を信奉し、国教と定めてその埒外に出る事を決して許さなかった。
 愛親覚羅氏が清朝の王室として天下に君臨したのはそんな折りである。
 朝鮮半島と満州の関係はたちまち緊張したものになった。
 彼らは不倶戴天の敵であるだけでなく、北虜(北の蛮族)朝廷であったからである。
 しかし、後先顧みず抵抗を続けたせいで討伐を受け、属国として組み込まれてしまった。
 李朝はそれから後も秘かに清国を恨み、蔑み続けた。
 しかし康煕帝、乾隆帝の時代が生み出した高水準の文化と驚愕の学風には圧倒されるしかなかった。
 そして当時の李氏朝鮮はそれを秘かに、しかし夢中になって模倣し始めたのである。
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 その矛盾が文学、特に小説の分野で爆発する。
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 実学派はそれを表面上は攻撃しながら愛読し、翻訳し、また自らも創作も行っていった。
 『軟文学など、この高貴な社会に受け入れられる事はない』
 そう主張する儒者自身が裏ではこぞってそれに読み耽った。
 最新作が出れば必ず誰かが北京まで買い求めに走るのが習いとなった。
 国内にそれを紹介する時には『これは明代の作品です』と釈明するのが常だった。
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そして遂に、超えてはならない最後の一線を越えてしまう。
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1783年(正祖治世7年目)。
 李承薫が歳貢使として北京を訪れた際の事である。

 彼はポルトガル宣教師アレキサンダー・ド・クーペアから洗礼を受ける事になった。
 さらに天主教に関する書籍などを多数入手して帰国した。
 李徳祚、尹促魯、周文謨らが伝道活動を行う様になると、これも爆発的な流行を見る。

* オランダ人ハメル他15名が朝鮮半島に漂着し、幽閉された後でそのうち8名が日本に向けて脱出した。江戸幕府は、彼らが「カソリック」でない事を確認すると残り8名についても引き渡しを要求し、そのうち7名までの引き渡しを受けた。それ以前に、同じくオランダ人ペルテブレについても問い合わせを受けていたが「カソリック」でないという確証がなかったので引き取りを拒絶した。江戸幕府がそこまで「カソリック」を否定したのは、彼らが「カソリック以外の全ての宗教を拒絶し、カソリック教徒でない王に支配されそうになると徹底抗戦する事」を身をもって知っていたからである。しかし李氏朝鮮は結局、その教訓を自国の統治に生かす事はなかった。
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 治世15年目の1791年。
 正祖は遂に稗官雑書、唐本文集をも含む一切の書物の輸入を禁止する。
 しかし、その時には既に何もかも手遅れになってしまっていた。
 国内の小説家、読み手、カソリック信者はその後も破竹の勢いで増え続ける一方だったのである。
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 そして結局、カソリックは弾圧するしかなくなった。
 当然、それは列強を刺激した。
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1801年、辛酉迫害
「王化徹底」の名目に従ってカトリック教徒の弾圧を強化。清国人宣教師周文謨はじめ300余名を処刑し、信者と巻き込まれた者を合わせて数万人を犠牲に。カトリックへの弾圧はこの後も1815年、1827年、1838年など、断続的に行われる。
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1839年、己亥教獄
アンベールらフランス人宣教師三人をはじめ200余人を処刑。
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1846年、丙午教獄
金大建ら20余人を処刑。
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1845年 ついに列強が本気で介入を考え始める
イギリス軍艦が済州島の海域に侵入。「キリスト教徒弾圧への抗議」だったかは不明。
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1846年 まずはフランスが様子を見に行く
フランス海軍がカトリック弾圧に対する抗議の名目で軍事行動を起こす。
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1866年-1872年、丙寅邪獄 当てつけの様にフランス人神父虐殺
ブルマーはじめフランス人宣教師9人と南鐘三ら数千人のカソリック教徒を逮捕、処刑。さらに8000余人の信徒を殺害。
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同年、丙寅洋擾 フランスは、当然激怒
フランスが丙寅邪獄の報復として軍船7隻1500名を派遣して江華島を40日間占領し、宝物・史庫図書など略奪する。
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同年、ジェネラル・シャーマン号事件 ここでアメリカのならず者が乱入。
アメリカの武装商船(大砲2門設置)ゼネラル=シャーマン号が、交易を求めて大同江に侵入し撃滅される。国内カソリック教徒は湧き返ったが、その目的は密輸と掠奪だけだったとも言われている。
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1868年 勢いに任せて余計な相手まで侮辱
攘夷戦争勝利で強気になっていた朝鮮王朝執政大院君は、明治維新を迎えた日本からの使者を侮辱して追い返す。この為日本で後に『制韓論』が台頭する事になる。
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1871年、辛未洋擾 ヤクザの様な強引なやり方でアメリカが介入
軍船5隻を率いて交渉に赴いたアメリカ軍は朝鮮側の奇襲攻撃で撃退されると江華島を占領して通商を迫ったが、大院君の強硬な開国拒絶に遭って1ヶ月余で交渉を断念して撤退。
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1873年 ついに攘夷戦争を続ける国力がなくなる。
閔妃一派による宮中クーデター成功。国土を疲弊させた大院君が追放される。
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1876年(明治8年)、日朝修好条規(江華島条約) 強面が来たらいきなり事大
清国でも沿岸に拠点を置く事しか出来てなかった台湾を1874年の出兵で完全討伐した日本の到来に「追い返したら台湾の二の舞になる」と清国さえも腰が引けた結果。当然李氏王朝にそれを単体撃退する自信などなかった。
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1882年、壬午軍乱 
内乱を制圧する為、政権側とクーデター側が同時に清国の軍隊を呼び寄せる。「恐れるに足らず」と判断した清国軍は、全てを制圧下に置いて内政まで牛耳った。この時点で名実共に『清国の属国』にされ、1995年の下関条約締結までその状態が続く事になる。

*ここで一つ質問。「政権側とクーデター側が同時に同じ国に救援を求めた例」は世界史上にどれくらいあると思う? そんな大ボケさえかまさなければ、清国がここまで強気に出る事もなかったとは思わない?
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それでは、ここで起こった事をまとめてみましょう。
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1. 『手に入れてはいけない』と言われるとかえって欲しくなる。
そして『何故そう言われたのか』熟考する事なしに本当に手に入れてしまう。
2. 絶対挑発してはならない相手を、絶対挑発してはならないタイミングで次々と挑発。
どんどん取り返しのつかない事態になっていくのに、本人だけが一切気にしない。
3. そして対応を間違え続け、勝手に疲れ果て降伏する/蹂躙される/滅ぶ。



あらあら、いつも同じ事の繰り返しですね。
これ「自滅主義」と言ってよいのではないでしょうか。

「過去を正しく反省しない者は
未来においても同じ愚行を何度でも繰り返す」

毎回、本人だけが気づきません。
哀しい話ですが、それを本人に伝える術もありません。

ところで、韓国の歴史教科書では、この『歴史の転回期』は一体どう紹介されてるのでしょうか?


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韓国国定歴史教科書(1996年版)『世界の教科書シリーズ① 新版韓国の歴史
国定韓国高等学校歴史教科書』 明石書店 2000年
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Ⅵ.近代社会の胎動 2.4.対外関係の変化 清との関係

 胡乱以後、朝鮮の清に対する敵傭心は長い間残っていた。清から受けた恥辱を晴らそうとして北伐政策が推進されたこともあった。しかし表面的には使臣がしばしば往来し外交的関係は持続した。

 ところで、清は17世紀米から18世紀にいたる時期に国力が大きく伸長し、文物が栄えた。朝鮮の使臣一行は清を訪問した後に、紀行文や報告書をとおしてこのような事情を伝え、様々な新しい文物を紹介した。このとき千里鏡、自鳴鐘、火砲、万国地図などが伝えられた。こうして朝鮮の学者のなかには.清を排斥するだけでなく、わが国に役立つものは受け人れようという北学論を唱える学者もいた。
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これじゃ何の教訓も学べなくて当然ですね。
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by 699yabuhebi | 2006-12-23 13:20 | 中世・近世史

明清間の戦争

 明と清が戦争状態にあったころ、中国に来てその戦争のありさまを記した神父マルチニ(1614〜61年)の『タタール戦記』に、
「明の君主の救援にはせ参じた司令官のうちに、1人の英雄的な婦人がいた。その人はたしかにシナのアマゾンあるいはペンテシレイア(ギリシアの伝説に見える女人国の戦士)とよばれるに値するほど勇敢な女性であった。彼女は3000の兵をつれてはるか四川からやってきた。彼女は心のみか、立ち居ふるまいも男勝りで、多くの男がもつ官爵を身につけていた。この気高く心の広い婦人はただタタール(満州人)に対してのみでなく、のちになって君主や皇帝に反抗した謀反人たちに対しても、彼女の勇気と胆力とをしめした。」
と述べています。
 このように当時評判の女傑は、武人の最高官職である総兵官の肩書きをもつ、「秦良玉」とよばれる四川、湖南の山岳地帯に住むミャオ(苗)族の女酋長でした。苗族は元来、中国人ではありませんでした。
 明と清の交戦にあたって、明では多くの外人部隊を編成したとき、朝鮮、モンゴル、ツングースの各民族が参加しましたが、この精悍な山の民もまた、はるか満州の野で戦ったのでした。 
 彼女の兄のひきいる苗軍団はなだれをうって敗走する明軍をしりめに、無敵の満州軍に突入し、華々しい戦闘ののち全員玉砕しました。


 その一方、「世界一優秀な民族」と自画自賛する数万の朝鮮部隊は、明の督戦武官を谷底になげころして一矢もまじえずに満州軍に降参したそうです。これは、日本でも中国でもたいへん有名な話です。

 その後、清の尖兵として明の民間人を虐殺して、清の将軍すら怒らせています。



 韓国の歴史教科書では、やはり、この卑劣な戦いぶりは賞賛されているのでしょうか。
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by 699yabuhebi | 2006-12-23 00:36 | 中世・近世史

島原の乱

島原の乱は、1637年に九州・島原でおこった農民反乱である。
 長崎県の一地方である島原で、
・藩主のキリスト教に対する対する弾圧
・過酷な納税
に対しておきた農民反乱である。

 旧藩主・有馬家や小西家の浪人も加わり大規模で組織化され、原城に立て篭もり
篭城戦を行う。農民軍の兵力17、000。

 鎮圧の為に動員されたのは、秀吉が朝鮮征伐に派遣した軍隊とほぼ同じ兵力の
126、000

 しかも
・朝鮮征伐と違い補給の心配の無い精鋭
・朝鮮には持ち込まなかった大量の大砲
・オランダ艦隊による艦砲射撃
・兵粮攻め

 農民たちは約4ヶ月の戦いの後、全滅した。

 この農民たちにくらべれば朝鮮軍は、その弱兵ぶりが目立つ。
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by 699yabuhebi | 2006-12-22 23:43 | 中世・近世史

朝鮮の外交官の食べた食事

清に訪問した朝鮮外交官 1人に 1日 支給された食糧.

が鳥 1匹, ニワトリ 3匹, ゾユック 5斤, 魚 3匹, 牛乳 1本, 豆腐 3斤, 小麦粉 2斤, 黄株 6本, キムチ 3斤, 茶の派 4ニャングツング, きゅうり漬物 4ニャングツング, 塩 2ニャングツング, 醤油 6ニャングツング, みそ 8ニャングツング, 超 10ニャングツング, ごまあぶら 1ニャングツング, 胡椒 1もんめ, 燈油 3本, ミルチォ 3調子, 牛乳油 3ニャングツング, 行くパウダー 1斤半分, 生姜 5ニャングツング, ニンニク 10個, りんご 15個, 梨 15個, 磨り 15個, 乾いたナツメ 1斤, ぶどう 1斤, リンゴ 15個, 焼酒 1本, 米 2升, 薪 30斤, 三日ごとにモンゴルさん 1匹

清人々は朝鮮の人たちが来ればお金が あまりにも多く入ると不平を言ったと言います.


日本に訪問した通信社 一行 385人に 1日支給された食糧.(江戸)

米 20島, 醤油 1斗, 酢 1斗半分, みそ 5斗, 塩 3斗, 油 7斗, ニワトリ 100匹, 雁 10匹, 鳩 100匹, すずき 400匹, 鯛 20匹, いわし 50匹, サーモン 10匹, かつお 1,000匹, 転覆 200斤, 串肉 500匹, 卵 400列, パー 100段, ナムル 150束, 大根 2,000個, アルトと言う(のは) 5斗, 松茸 100個, 豆腐 200丁, からし 1斗, 罌粟 5斤, デザートでぶどう 300輪, 白砂糖 5斤, 羊市 50箱, 水あめ 20斤, 豆科者 50斤, 蒸しもち 100斤./FONT>


朝鮮通信使は日本のカステラが好んだと言います.


http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=thistory&page=6&nid=1802179
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by 699yabuhebi | 2006-12-18 00:01 | 中世・近世史

朝鮮通信社のメニュー

通信社一行 385人が江戸で一日に食べる量

米 20島, 醤油 1斗, 酢 1斗半分, みそ 5斗, 塩 3斗, 油 7斗, ニワトリ 100匹, 雁 10匹, 鳩 100匹, すずき 400匹, 鯛 20匹, いわし 50匹, サーモン 10匹, かつお 1,000匹, 転覆 200斤, 串肉 500匹, 卵 400列, パー 100段, ナムル 150束, 大根 2,000個, アルトと言う(のは) 5斗, 松茸 100個, 豆腐 200丁, からし 1斗, 罌粟 5斤, デザートでぶどう 300輪, 白砂糖 5斤, 羊市 50箱, 水あめ 20斤, 豆科者 50斤, 蒸しもち 100斤.



朝鮮人が好むこと

牛, いのしし, 鹿, 豚, ニワトリ, きじ, 鴨, たまご, 鯛, あわび, たら, 鯡, ぶり, さわら, タコ, 二世海老, 蟹, はまぐり, その他にも新しい種類の肉がとても好きだ.概して魚種類が好きだ. 塩に絶人魚や淡水肉は食べることはしても好きではない.

- 大根, ワケギ種類, せり, ゴボウ, シイタケ, サンチュ, 山芋, かぶ, 枝, 野菜, てんぷら, ふのり, わかめ, 海藻, 野菜, 干魚, 種類が好きだ.




http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=thistory&page=3&nid=1802272
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by 699yabuhebi | 2006-12-17 23:45 | 中世・近世史

朝鮮王の地位

1、李氏朝鮮初代の王となった李成桂(女真族「李・ウルスブハ」の子)は、王位につくやすぐさま、当時誕生したばかりの明王朝に伺いを立て国号を決めて貰っている。

 このとき、李成桂は、箕氏朝鮮の旧号「朝鮮」と李成桂の生地「和寧」の二つの名前を持ち出し、明の太祖の朱元璋から「朝鮮」の国号を使うことを許されている。
 世界史の中で様々な国が存在するが、他国に自国の国号を決めて貰った国など、後にも先にも朝鮮ただ1カ国である。
 本来ならこの一事を持って、朝鮮が中国の属国であったことを、何よりも物語っているのだが、韓国人はこれでもまだ朝鮮が中国の属国であったことを決して認めないのである。

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 ちなみに、2つの画像は上が中国の皇帝、下が朝鮮王である。中国皇帝が竜が九匹で黄色い官服であるのに対し、朝鮮王は竜が三匹で赤い官服である。

 赤は、「中国皇帝に忠実に仕える臣下」を示す色だそうです。

龍の数は、皇帝は九匹、それ以下一匹ずつ減り、最低ランクは一匹だそうです。赤い服を着た人は三匹ですね。
 皇族は八匹~七匹、大臣級は六匹~五匹、地方の役所の長(知事クラス)は四匹~三匹。つまり、竜が三匹というのは、中国の官制でいえば、県の長官あるいはそれ以下の位階なのである。


2、韓国人が誇るものの中に「東方礼儀の国(邦)」という朝鮮を指し示す言葉がある。
 この言葉の本当の意味を知っている韓国人は少ないのだが、これは中国王朝から朝鮮へ贈られた言葉である。
 即ち、中華の天子へ忠実に諸侯の礼を尽くしてきた朝鮮へ中国が上記の「東方礼儀の国」という言葉を贈ったのである。
 直訳すれば「中国の属国として礼節を尽くした国」という意味なのだが、皮肉なことに、この意味を韓国人は全く理解していないのである。
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 「大清国属高麗国旗」という黄色地の大極旗がみえる。その下には、黄色地の国旗の前で中国への服属を誓う盧武鉉氏の画像がある。後ろの中国の役人も嬉しそうだ。盧武鉉氏も漢字が少しでも読めれば、これほどの失態を演じずにすんだであろう。無知とは悲しいことである。


3、中国王朝の属国としての歴代朝鮮の国王は、原則的には皇帝の臣下と見なされる。

 朝鮮国王は中国皇帝によって任命され、中国の朝廷は朝鮮の王妃や王太子の廃立に至るまで、その権限を振るうことが出来たのである。ちなみにこの当時、朝鮮を実質的に指揮監督していたのは、中国王朝の北洋大臣や直隷総督などであった。つまり国王というのは形ばかりのものであって、決して主権国家の元首として扱われていたのではないのである。
 さらに朝鮮国王の中国王朝からの使節の出迎えは余りにも屈辱的である。
 満州人の使節が来ると、朝鮮国王は自ら高官を引き連れて迎恩門まで歓迎に赴いて、地面にひざまずいて使節に9回土下座をする。宴会を催し、芸を披露して接待しなければならなかった。王太子は慕華館(迎賓館)で使節に酌の礼をするのが最大の役目だった。

 ・朝鮮国王は清の皇帝によって任命される。
 ・朝鮮国内の事件は全て皇帝に報告しなければならない。
 ・朝鮮国王は清の使節をソウル城門まで出迎えなければならない。
 ・朝鮮国王の地位は、清国の廷臣よりも下。
 ・朝鮮政府には、貨幣の鋳造権すら与えられてない。
 ・朝鮮政府には清国への食糧、兵士提供の要求権もない。
 ・朝鮮は清国に細かく定められた貢品を出す以外に、毎年、牛3000頭、
  馬3000頭、各地の美女3000人を選り抜いて貢がなければならない。

 このように、朝鮮の地位とはとても低いものだったのである。
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▲中国の使いに対して土下座する朝鮮国王の碑

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▲日清戦争によって認められた朝鮮の独立を祝って1895年に建てられた「独立門」。「迎恩門」のあった場所に建てられた。

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▲1895年に独立門が建設された際に壊された「迎恩門」。こで歴代朝鮮王は中国の使節に対し、地にひざまずいて9度の土下座を捧げた。
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by 699yabuhebi | 2006-12-17 23:13 | 中世・近世史

明清帝国と朝鮮王朝との関係

<国号の選択>
 朝鮮王朝実録によれば、太祖・李成桂は使いを明に送って、国号として「朝鮮」と「和寧」という二つのうちのどちらかを採択することを請い、「朝鮮」を選んでもらった。
 国号すら自分たちで決めることが出来ず、他国に選んでもらうなど「属国」以外の何者でもない。
 なお、この「国号の選択」に関して韓国の教科書は次のように歪曲している。
「新王朝は、国号を朝鮮と定めた。「朝鮮」は、すなわち古朝鮮の伝統を受け継ぐという意味で、壇君に民族の独自性を求めるという意味が含まれている。」
 もちろん、これは事実無根の捏造であり、事実は上の通り、明に選んで貰ったのである。

<朝貢>
 朝貢については韓国の教科書もその事実はさすがに認めている。
 となれば当然、「朝貢」は臣下の礼を致すものであるから、朝鮮は中国の属国であったと言える・・・のだが、ここでもまた韓国の歴史教科書は次のように捏造している。
「明との外交は朝鮮側がより積極的であった。朝鮮は朝貢を通じて明の名分を立ててやり、使臣の往来を通して経済的・文化的実利を得た。しかし後にはいきすぎた親明政策に流れる傾向があらわれた。」
 「明の名分を立ててやり」というナンセンスな理屈を持ち出し朝貢は仕方なくやっていたもので、決して臣下の礼をとった訳ではないことを強調している。しかし、なぜ、明の名分を立ててやらなくてはならないかということの説明はない。

<人質・強制連行>
 明の後、清が中国の統一王朝となったが、この際朝鮮と戦争をし清は朝鮮に勝利している。
 清は朝鮮の王子一族他、貴族とその家族数百人を人質としており、朝鮮民衆50万人を強制連行している。
 朝鮮が清に敗北した1636年から1881年までの244年間の間に、朝鮮から清への朝貢はなんと500回を超えるに至っている。
また、清の使者が朝鮮を訪れる際には朝鮮国王は漢城郊外の迎恩門まで出向き、土下座をして恭しく使者を迎え、慕華館で勅使の接待をすることを余儀なくされていた。
 もう誰が何と言おうとこれは清の属国としての朝鮮である・・・はずなのだが、ここでまたまた韓国の歴史教科書は次のように嘘を教えている。
 「後金は勢力を強め、国の名称を清とかえ、朝鮮王朝に対しては君臣の礼を要求して再び侵入し、漢陽を占領した。そのため仁祖は臣下とともに南漢山城に移り、45日間抗戦したが、ついに清の要求を受け入れて講和を結んだ。この戦争を丙子胡乱という(1636年)。」
 そう、朝鮮は敗北したのではなく、「講和」をして、清と友好関係を結んだだけであったのだそうだ。
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by 699yabuhebi | 2006-12-17 23:08 | 中世・近世史

韓国人の先祖は倭寇だった!

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「朝鮮王朝実録」
「 世宗実録 」 の学術的で重要な箇所 

中枢府判事の李順蒙 → 世宗二十八(1446年)十月壬戌条、                                     「 倭人不過一二而本国之民仮著倭服成党作乱 」



 http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1797787

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by 699yabuhebi | 2006-12-16 23:43 | 中世・近世史