韓国との歴史認識の共有は可能かを探る
by 699yabuhebi
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カテゴリ:近現代史( 39 )

韓国とオランダを比べてみました

http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1805880


インドネシアは360年間、オランダの 植民地でした。
搾取された本当の「植民地」でした。

しかし、大東亜戦争で日本がオランダ軍をインドネシアから追い出しました。
そして インドネシアを 独立させました。

しかし、日本は敗れました。
オランダ軍はインドネシアに帰って来ましたが、インドネシアは独立の精神に燃えていました。
そして4年間の独立戦争。
残った日本兵も協力しました。


やむを得ず、オランダは インドネシアの 独立を 認めました。
しかし , オランダは インドネシアに こう 言いました。
「オランダは インドネシアに さまざまな投資をした! 独立したかったら , 独立の代金を払いなさい! 」 












インドネシアは 支払ったのでしょうか?
支払いました。

①60 億 ドルの 現金
②オランダ人の資産の保障
③Sumatra油田の開発コストの弁済

これを 「独立の 代金」としてちゃんとオランダに支払いました。  
※ソース
http://kaz1910032-hp.hp.infoseek.co.jp/120129.html












ところが…。
韓日併合は 韓国の 要請によって行われました。

■中央 日報で 引用
本心を隠したままの日本側に対して、まず合邦を打診したのは韓国側だった。
総理大臣李完用の側近である、小説「血涙」で知られるリ・インジクが密使として動いたのだ。
http://japanese.joins.com/article/article.php? aid=18651&servcode=100&code=100

■「李完用の審査と日韓併合」より 引用
現在の 朝鮮民族の 力量では、独立国家を 維持する事は 絶対にできない。
国の滅亡はほとんど決まっている。
国の滅亡を避けるためには併合以外にない。
そして併合相手は日本が望ましい。
欧米人は韓国人を豚や家畜のように思っている。
しかし日本は違う。
日本人は日本的な道徳を振りかざす。
これは気に入らないが、
しかしそれは韓国人を自分たちと同類と思っているからだ。
そして日本人は韓国人を導いて世界人類文明に参加させてくれる唯一の適任者だ。
日韓併合だけが、我々朝鮮民族が豚の境遇から脱して、人間としての幸福を享受できるようになる道だ。


そして…。
日本は韓国に大量の資金を投下して、「地獄」を「天国」にしました!

■併合 前後の 比較
↓併合前 「地獄」



↑併合後 「天国」












インドネシアに 比べて100億倍豊かな統治でした。 
ところで…。

韓国は当然、日本に「独立の代金」を支払いましたよね?













何?
日本がお金を支払った?



なぜ?
日本が払う義務はありません!



何?
身の代金?


「李承晩ライン」のために韓国に拉致されていた日本人の身代金として日本は経済協力金を支払ったの?



李承晩ラインって何?
韓国が公海(Open ocean)を侵略?


4000人が 拉致?
300隻の 漁船が奪われた?
40人が怪我?
5人が 死亡?
最大で13年間も監禁?
竹島も侵略?








立派な 犯罪です







…日本は 「平和 憲法」を アメリカに 強制されていたから , 軍事行動はできない。
だから 日本人を救助するためには身代金を払うほかに方法が無かったのだろう。
そうか。
そうだったのか…。
残念だ…。








何?
身代金が足りない?   








ふざけるな!
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by 699yabuhebi | 2006-12-25 22:44 | 近現代史

サラ・ペイン (US 海軍大学)の語る日清戦争

最初の日中戦争 (日清戦争) は日本と中国に対する外国の認識に非常に大きな衝撃を与えた。この戦争に先んじて 1885 年に上演された「ミカド」というイギリスの有名なミュージカルがあり、これは日本についての一般的な認識を表していた。ミュージカルはサムライのコーラスで始まる。「私たちが誰か知りたいか / 私たちは日本の紳士だ / たくさんの壷や瓶の上で / たくさんの舞台と観客の上で / 私たちは鮮やかな姿をしている / 私たちの振る舞いは奇妙で風変わり」そして次の節へ続く。「もし私たちが糸で動かされていると思うなら / 日本の操り人形のように / あなたたちは分っていない / これはただの宮中礼式なのだ」。これがヨーロッパの認識であった。つまり、前近代的な日本がヨーロッパ列強にかかわる重大な問題にではなく、とるにたらない自国のしきたりに夢中になっている、ということである。対照的に、中国はヴォルテールのような啓蒙主義の哲学者たちによってかなり知られるようになり、西欧の尊敬をつなぎとめていた。戦争前夜、イギリスが所有する『ノース・チャイナ・ヘラルド』紙は、中国を「世界の列強としての尊敬に真に値する、唯一のアジアの大国である」と表現している。

一年も経たないうちに、この全てが変化した。中国は莫大な人口、軍隊、資源基盤、そして戦場への近接性、優れた戦艦、数年にわたる軍事的近代化にもかかわらず、全ての戦闘を通じてひどい負け方をしたのである。その軍隊は混乱の中で軍事物資を置き去りにしたまま原野に逃れ、地元住民に損害を与えた。他方で官僚は、外国の敵を倒すのに協力するよりは、国内の競争者を犠牲にして自分たちの権力を維持することをより重視していた。中国の堕落と無能さ同様、日本の武勇と専門的技術はこの戦争に対する外国の傍観者たちの関心を引きつけた。


これらの叙述は、筆者の新刊書 The Sino-Japanese War of 1894–1895: Perceptions, Power, and Primacy, Cambridge University Press, 2002. に基づいている
1895 年に、アメリカの海軍長官ヒラリー・A・ハーバートは次のように記した。「日本はほとんど一飛びに世界のしかるべき地位へと躍進した。中国との戦争における日本の最近の功績は全世界の注目を集めてきた。そして世界は今、これまで研究者や政治家たちさえもほとんど考慮に入れていなかったこの小さな島国の王国が、他の諸国が数世紀もかけて横断した土地に数十年で進出してきたという驚くべき事実を認めている」。また、イギリスのジャーナリストでアジアの専門家でもあるヘンリー・ノーマン卿は戦争の半ばに、「中国との戦争、そして (1894 年の日本にとって法的に対等な) イギリスとの条約は、最終的に諸外国に対して今の日本を認めさせることになるだろう。日本人は素晴らしい知性とたゆまぬ行動力・熱意を持った、勇敢で誇り 高い民族である」と記している。

日本とは対照的に、ヨーロッパにおける戦後の中国認識は決して喜ばしいものではなかった。ロシア外務省の公式新聞『ジュルナール・ド・サンペテルスブール』はこう述べている。「この戦争の始まりから、中国は痛ましい光景を呈してきた。ここまで弱いとは誰も疑わなかった」。また、イギリス人のアジア専門家であるアレクシス・クラウスは中国を「中心が腐敗し、病んだ統治が行われ、団結を欠き、自衛の手段を有していない… 中国の回復力を信じることは、無駄な信念にすぎない… 政治的存在としての中国は絶望的である」と見なした。

東洋においても西洋においても人々の認識を変えたこの戦争は、極東に関与している全ての諸国の外交政策に影響を及ぼした。中国の脆弱性への認識は、より攻撃的な外国の侵入を引き起こし、「利権の奪い合い」として知られる、海外の列強が中国を勢力圏に分割する時代を招いた。逆に、日本の強さに対する認識は、日本を列強の地位へと導いた。 1902 年の日英同盟は日本の新しい地位を正式に認めるものであった。これはイギリスにとって、ナポレオン戦争の終結から第二次世界大戦までの間の、唯一の同盟だった。

新しい勢力均衡が生まれた。中国の数千年に及ぶ地域への支配が突然終焉した。日本はアジアの支配勢力となり、その地位は 20 世紀の間ずっと続くものであった。日本は政治の変容と結びついた急速な経済成長が、潜在的にグローバルな帰結に結び付くということを示してきた。そうすることで、日本は工業化が西欧の専売特許ではないということを証明してきたのである。

一方でもし戦争が日本を列強の地位に押し出したとするならば、戦争は中国を奈落の底へ沈めた。それは中国が捨て去ることの出来ない、優越性への執拗な自覚の根幹を打ち砕き、世界における中国の地位の見直しを余儀なくさせる。かつての儒教世界の構成員である日本に敗北を喫したことは、アヘン戦争を含む、かつてのいかなる西欧諸国による敗北よりもこれを決定的にする。なぜなら異なる文明による敗北ならば軽く扱われうるが、儒教秩序のかつての構成員による敗北ではそれができないからである。同様に、中国におけるいかなる政治的安定の痕跡も打ち砕かれただろう。儒教秩序から変化した構成員による勝利は、この秩序の正統性を決定的に掘り崩した。中国人にとってこの戦争は、彼らの世界を覆すものとなった。一世紀後の今なお、中国は長い間中華思想の根幹を形成してきた安定的な儒教秩序に代わる、満足のいくものをまだ見つけていない。

この戦争はロシアにも極めて大きな衝撃を与えた。それはロシアの外交政策がヨーロッパから離れアジアへ向かうという根本的な変更をもたらした。ロシアは日本が防衛の手薄なシベリア国境地帯にとって重大な脅威になると判断した。その結果、ロシア人の入植計画と満州の発展が加速化され、シベリア鉄道が現在と同じアムール川の北岸沿いではなく、バイカル湖—ウラジオストク間の連結をより短くするために北満州を横断するという運命的な決定がなされた。 1900 年、義和団の乱が鉄道路線にひどい損害を与えたとき、ロシアは満州全土を占領するために 10 万以上の軍隊で応酬した。満州におけるロシアの、このように大規模な財政的・軍事的介入が意味することは一つである。つまり、ロシアはアジア大陸への日本の侵入を最小限にとどめようとしていたのだ。ロシアと日本の野心の競争は、結果として日露戦争での衝突につながった。

日清戦争は古い儒教秩序と極東の諸関係を規定してきた朝貢システムの終焉を運命づけた。日英同盟やロシアの外交政策の変更によって示されるように、この戦争はまた、アジアの出来事がヨーロッパに直接的に影響を及ぼすというグローバルな政治の新しい時代の到来を告げるものでもあった。
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by 699yabuhebi | 2006-12-24 18:43 | 近現代史

ロシアの野心(自由主義史観)

自由主義史観側の主張(A~D)
A・ロシアの脅威
(これが主張の中核です)
ロシアは19世紀に極東にぐんぐん勢力を伸ばしてきた。

日本列島に対する朝鮮半島の配置は、日本に絶えず向けられた銃口の意味をもつ。

朝鮮は自前の独立した国家を持たない、ロシアの吹き抜けの通路である。

ロシアが義和団事件を口実に満州に居座った(これが日露戦争の直接の原因)ことは、陸続きに朝鮮半島に進出してくることを意味し、そうなれば日本は自国を防御する手段がない。

つまり、日露戦争はやられる前の先制攻撃で「祖国防衛戦争」である。

 

B・国際状況について
当時の世界は帝国主義と植民地争奪の時代

当時の国家には「文明国」になるか、その植民地になるか、二つに一つの選択しかなかった。⇒日本は「文明」のルールに従っただけ。

日英同盟は「戦略論」の面から見て最も適切であるのは次の理由による。

・当時の日本は、自力では生き残れないため、米英というアングロサクソンと組むか、ロシアと組むかという選択肢しかなかった。(外交史家の岡崎久彦氏の論に依拠して)

親露と親英の争点は「ロシアが満州に留まって朝鮮半島に出てこないように話し合いがつく可能性があるか否か」だった。そこに、小村意見書が出され、以下の主張をした。「日露条約は、ロシアの侵略主義が到底これに満足しないから、長期的な保証にはならない。日英条約を結んだ場合、ロシアの野心を制して比較的長く平和を維持できる。」この意見が認められ、日英同盟は結ばれた。
後世の史料によると、ロシアの蔵相ウィッテは遼東半島より朝鮮半島を取るつもりだったことがわかっている。よって、小村は正しい判断をしたのだった。
                   

C・世論と「平和論者」の捉え直し

事態を国難と受け取って、献身的働きをした人々が多くいた。日本国民の気概が健全なナショナリズムとしていかんなく発揮されたからである。

・内村鑑三は日露戦争の際、アジア解放の理想を述べ、それを日本が引き受けると謳っている。

社会主義者幸徳秋水は、北親事変の際は実は日本軍の北京進撃を支持したのである。
与謝野晶子は、我が子が大東亜戦争に出征する際「猛く戦え」と詠んだ。
彼ら「平和論者」と言われる人々も、戦争の延長としての戦争の必要性は感じていたのであって、単純な平和論者ではないのである。彼らは国益を追求した考えであり、それは当然のことである。今日、彼らの平和論のみを強調し、「戦争=犯罪」視する態度は見直されなければいけない。

 

D・エピソード
日本の勝利は世界の被抑圧民族の独立運動を鼓舞した。

朝鮮に独立した国家ができることを望んで(朝鮮半島に防御帯になって   欲しいから)、政府も民間も援助した。それでも1884年の甲申事変が失敗し、福沢諭吉が「脱亜論」を書かざるを得ないような状況となった。

政府は植民地に大変な予算をつぎ込んで、本国並みの水準に引き上げようとした。

日本は日清・日露を通して、朝鮮半島を中国から、二度目にはロシアから独立させ、あるいは両国の勢力から切り離すよう努めた。もしも日本が手を出さなかったら、朝鮮は欧米かロシアの草刈場となっていただろう。

日露戦争のとき、日本は戦争法規を忠実に守り、ロシアから感謝された。

義和団事件のとき、日本は列強に繰り返し要請されたために出兵。列国の兵士は略奪・暴行の限りを尽くしたが、日本兵は殆ど乱暴しなかった。

マッカーサは、朝鮮戦争の際にトゥルーマン大統領に、「満州という本拠地を爆撃しなければ朝鮮半島を確保できない」と進言し、核兵器の使用を憂慮した大統領に解任されている。彼は満州の安全が朝鮮半島の安全に直接に結びついていると気づいたのだった。また彼は日本が戦争に突っ込まざるを得なかった理由として、「安全保障の問題だった。日本は島国で資源がない。1200万の失業者の出る恐れがあったからだ。」と発言。つまり彼は近代日本の置かれた立場を追体験したのだった。(⇒A-4の論を補強)

 

反自由主義史観側の主張(A~Cに対して)
A⇔
 ・ロシアには次の史料がある。
   「もし朝鮮が自由でなくなれば我々の極東における全政略が脅かされるのだ。・・旅順からウラディオストークに至るルートは障害なくしておきたい。もし日本がこれに同意しないなら海戦・・」

  ・藤岡氏らは、「国家戦略」を前提に、「時代認識」、「地政学」の見地をている。これでは最初から結論が用意されていたことになる。つまり彼らはイデオロギーにとらわれた史観で史実を一面的に捉えようとしている。

ロシアを侵略」と「植民地」支配の主体でアジアに牙をむく脅威としてだけ問題にしている。朝鮮は国として認められてさえいない。
  ・日露戦争は、朝鮮の植民地化の起点となったという意味において日本の朝鮮侵略戦争であったし、戦利品として関東州・南満州の鉄道利権の獲得があったという意味において満州侵略戦争であった。

B⇔
 ・親露・親英とも、要は韓国を完全に日本の支配化に置くことを目的としており、後者がそのために戦争も辞さなかったと言う点でのみの相違である。
C⇔ 
・原敬の日記には以下の趣旨のことが書いてある。
「政府が七博士に露国討伐論を唱えさせたのは、ロシアを威圧し交渉を成立させるためだった、しかし意外にも開戦せざるを得ない行きがかりを作ってしまった、政府の中の主戦論を唱えるものも、国民も、真に戦争を望んではいない。」

よって、強硬論は政府が意図的に煽り立てたものであり、世論は「つくられた」開戦論に傾いた。

戦場の兵士たちの手紙の中では、天皇・国家は尊ばれていない。
民衆は政治・社会状況に対して多様に反応する。よって「素朴に国を信じ」たこと自体が研究対象であるはずだ。
 

文献
①汚辱の近現代史(藤岡信勝)徳間書店
  ②近現代史教育の改革(藤岡)明治図書

  ③国民の油断(藤岡・西尾信勝)PHP研究所

  ④教科書が教えない歴史(藤岡・自由主義史観研究会)

  ⑤教科書が教えない歴史4

  ⑥戦後歴史学と「自由主義史観」奈良歴史研究会

  ⑦「自由主義史観」の本質(井口和起)部落問題研究所

  ⑧近現代史の真実は何か(藤原彰)大月書店 
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by 699yabuhebi | 2006-12-24 18:39 | 近現代史

1940年1月1日発行「朝鮮日報」

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by 699yabuhebi | 2006-12-24 01:59 | 近現代史

日本統治下の朝鮮語映画「家なき天使」~おさるさんのブログより~

http://blog.goo.ne.jp/sarudayo/e/744a79021a16ff4fad0ae91c49dcd60f

14日鑑賞の2本目は「家なき天使」。
「軍用列車」と並んで最近、中国に残っているのが発見された4本のうちの1本。

 撮影監督金 学成(金井 成一)の足跡を追った田中 文人監督のが「2つの名前を持つ男」を製作中、ちょうど韓国映像資料院の院長が中国に残された朝鮮映画のフィルムを韓国に譲り渡してもらうことに成功。
 その中に「家なき天使」があったのですが、この作品、撮影は金 学成によるものでした。
 その話が「2つの~」の院長インタビューで紹介されているのですが、おそらくそうした縁からでしょう、「2つの~」では「家なき天使」に出演した子役の一人(今は老人ですが)のインタビューが収録されています。金 学成のいた現場の想い出を語ってましたね。
 そうした田中監督と院長との信頼関係からでしょう、「2つの名前を持つ男」が上映された昨年の山形国際ドキュメンタリー映画祭では、映像資料院の特別協力という形で(たぶん)「家なき天使」が日本で初めて(そして最後?)上映されています。
 けどそのときには、私は日程がバッティングしていたプサンに来ていて見ることができませんでした。なので、今回、プサンでリベンジというか・・・。(わらい)
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「家なき天使」、1941年の作品で監督はチェ・インギュ。後に解放後初の劇映画と言われる「自由万歳」を監督した人ですが、「自由万歳」は日本の圧政に苦しむ朝鮮の人々の抵抗運動を描き、光復の日の人々の喜びのシーンで(本来は)終わっていたという映画。
 チェ・インギュは光復前後の、思想・内容的に180度異なる映画づくりをする運命となった韓国・朝鮮映画人の代表的な一人といえるのでしょう。

「家なき天使」は、内鮮一体が叫ばれる時期の朝鮮、ソウルを舞台に、キリスト者が孤児達を救うために孤児院を建てて共に暮らし、彼らの教育に尽くすという事実に基づいた作品のようで、子供たちが活躍する、ほのぼのとした作品となっています。
 この映画は文部省推薦で、日本全国で上映される朝鮮映画となるはずが、内務省の検閲には通らずに日本での上映は断念することとなったらしい。理由は今もって不明ですが、浮浪児がたくさん出てくる貧しい朝鮮が映画に描き出されることを好まなかったのではないか、という話もあるようです。
 革命後のイラン映画ではないけれど、子供達が主役ということで政治的なものからはおおむね逃れているのですが、しかし、映画の中に2箇所、日の丸が出てくるところがあります。日の丸の旗の下で軍隊ラッパを吹く子供というシーンと、もうひとつ、日の丸の下でキリスト者たる先生の前に子供たちが整列し、皇国臣民の誓いを声を合わせて唱えるシーン。こうしたところがなくては、おそらく文部省の検閲にも通らないという、時代的なものがあったのでしょうが。
 映画でも、日本語が随所に出てきて時代を感じさせますね。

 映画祭での上映では、若い観客が多かったのですが、その日の丸のシーン二箇所では、静かなざわめきが広がっていましたね。
 司会の方、たぶん映画研究者と思われる女性は、今回の発見された映画についてのセミナーが後日あると案内していましたが、ティーチイン終了後、欧米系の観客(たぶん映画人)に英語で話しかけているのを聞いていたら、今回、若い人がざわめいていた日の丸のシーンに絡む話もあるようなことを仰っていましたね。
 レトロパースペクティブ上映作品の大部分が内鮮一体に関わった話ですので、セミナーは自ずと植民地下の朝鮮映画についてのものとなるでしょう。
 私も行きたいけど、日がね・・・。

 韓国映画の歴史の中では、日本に留学等して映画作りを学んだ人がいるわけですが、どうも解放前に日本で学んだ人についての評価が定まらない面があるようですね。
 しかし、セミナーが開かれるところをみると、中国で植民地下朝鮮の映画4本が発見されたことがひとつのきっかけとなって、そうした時代のややもすると矛盾を抱えざるを得なかった映画人や作品について研究が進んでいくのかもしれませんね。
 日本側でも、昨年、「2つの名前を持つ男」が製作、公開されたのは意義深いことだったのではないでしょうか。
 日本と韓国の映画におけるつながりにおいて、触れにくいが触れないでいられない時期のことですから。


 私が見た回はゲストがいらしてました。チェ・インギュ監督の娘さんで、映画の中でも物売りの親方に飲み屋に売られそうになり、やがて先生の兄に助けられて看護婦見習いになって離ればなれになっていた弟とも再会する あき子として出演していらしたようですね。
 観客からは終映後にたくさんの拍手がわき起こり、今はおばあさんとなっている監督の娘さんが目に涙を浮かべているのが印象的でした。

 ではでは。
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by 699yabuhebi | 2006-12-24 01:52 | 近現代史

日本「40年代、東京から竜仁に遷都する計画だった」(韓国・中央日報)

日本「40年代、東京から竜仁に遷都する計画だった」
http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=68897&servcode=200§code=200

「1940年代、韓半島、満洲、台湾を支配した日本が首都(東京)を韓国の竜仁(ヨンイン)に移そうとしていた。

キョンウォン大学総長を務めたキム・ウィワン博士(74、大韓建設振興会長)はこれまでに収集した120件の資料を2001年国土研究院に寄贈した後、最近発刊した資料解説書でこのように明らかにした。

キム博士によると日本は1940年代の初め、15年後を目標に立案した秘密国土計画である「中央計画素案」で、京城部(ソウル)南の郊外、日本内岡山と福岡など3カ所を大東亜圏の首都移転候補地として提示した。

当時、ソウル隣近は地震もなく、国土(満洲-韓半島-日本)の中央に位置し、日本が首都立地として理想的だということだった。また新しい首都には王宮と政府機関のみ移転する計画だった。キム博士は「後に日本前職官吏らとの面談で首都移転候補地だった京城郊外とは韓国外国語大竜仁キャンパスがある渓谷一帯だったという事実を確認した」と述べた。

博士は「当時、日帝は竜仁地域測量まで終え、(旧)建設部道路課長を務めたイ・ホンギョン大韓コンソルタント会長も、解放直後、道路課の書類に測量図面があるのを見たと言っていた」と付け加えた。

中央計画素案は、日本本土と朝鮮、満洲、台湾にかけて地域別産業生産目標を提示、また内地150、朝鮮23、台湾20など計193の工業地区を指定する案を盛り込んでいる。韓半島に対しては三千浦(サムチョンポ)石油化学工業団地、釜山(プサン)~新義州(シンウィジュ)間の高速道路、三千浦~大田(テジョン)間の復線鉄道および高速道路などの建設計画を含んでいる。

しかしこのような計画は朝鮮人8百万人を満洲に強制移住させ、そこを日本農民8百万人で満たすということが前提だった。移住計画が実現した場合、日本人は韓半島人口の3分の1以上を占めることになる。キム博士は「日本が太平洋戦争で勝利すればこの計画は実現したはずで、韓国が満洲に追い出されたのは明らかだ」と述べた。

キム博士はまた解説書で、朝鮮総督府官吏の集まりである「友邦協会」の資料をもとに38~43年特別支援兵制による朝鮮人入営者が1万7663人、43年国民総動員法による強制徴用者が134万人(労務者51万5千人を含む)に達すると紹介した。

また朝鮮総督府が41年、真珠湾奇襲攻撃以後、極秘で扱った人口統計を手に入れ、44年5月1日夜の12時基準に朝鮮(韓国・北朝鮮)の世帯数は492万世代、人口は2951万7881人だったと確認した。

キム博士は55年、ソウル市都市計画専門委員を始めとし、建設交通省都市局長、国立地理院長、国土開発研究院長、キョンウォン大学都市計画学科教授などを歴任した国土政策専門家だ。

解説書全文は国土研究院ホームページ(www.krihs.re.kr)で見ることができる。

許貴植(ホ・クィシック記者)


2005.10.24 10:07:06
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by 699yabuhebi | 2006-12-23 22:08 | 近現代史

ベトナム戦争での韓国軍

【ニューズウィーク】  2000年4月12日号 P.24 ロン・モロー(バンコク支局長)



韓国軍の理由なき無差別の殺戮

 韓国軍がベトナムに派兵されていたのは1965~73年。残虐行為のねらいは、ベトナム中部の3省(ビンディン、クアンガイ、フーイェン)から農民を移住させて人口を減らし、ベトコン(共産ゲリラ)の勢力伸張を阻止することにあったようだ。
 現地の自治体当局者によると、立ち退きを拒否した人々は、韓国軍の手で組織的に惨殺されたという。しかも犠牲者の多くは、老人や女性、子供だった。
 歴史の闇に葬り去られていた虐殺の事実に再び光が当てられたのは、勇気ある韓国人研究者、具秀ジョン(ク・スジョン)が行った調査のおかげだ。彼女は韓国軍による大量虐殺の詳細を記録したベトナム政府の文書を発見した。生存者の証言によると、虐殺は理由なき無差別殺人であり、多くはベトコンとの戦闘が行われていない時期の出来事だった。
 グエン・フン・トアイ(46)もビンスアン村の虐殺と同じころ、アンリン郡の別の村で危うく殺されかけた。当時13歳だったトアイは、韓国軍が家に近づいて来るのを見てすぐに逃げた。近くの畑に隠れて見ていると、韓国兵は村の家に次々と火をつけ、母親と祖父母、弟と妹、そして近所の人々に暴行を加えたという。韓国軍は、トアイの家族を含む11人ほどの村人に銃剣を突きつけ、防空壕に追い込んだ。残りの12人ほどは、穴の外に立たされた。次の瞬間、何の前ぶれもなく銃声がとどろき、手榴弾の爆発音が空気を引き裂いた。トアイはとっさに頭を隠した。硝煙が消えたとき、すでに韓国軍の姿はなかった。トアイは急いで家族がいた場所へ行った。防空壕の前には、穴だらけになった血まみれの死体が並んでいた。防空壕の中も、誰かが生きている気配はまったくなかった。トアイは恐怖に駆られて逃げ出した。戦争が終わった後も、ここへ戻ることはできなかったという。



「見つかったのは肉片だけ」

「みんな、村を離れたくなかった。私たちにとって、家や土地や水田はかけがえのないものだ」。トアイはそう言って泣きだした。「でも、立ち去るのを渋った人間はみんな殺された。連中は村をめちゃくちゃに破壊してしまった」こうした残虐行為の結果、多くの人々がベトコンの陣営に加わった。67年、16歳のときに父親を韓国軍に殺されたブイ・タイン・チャムもその1人だ。チャムは数人の韓国軍がアンリン郡の家に押し入る直前、裏口から脱出した。韓国兵は70歳の年老いた父親を捕らえ、防空壕に押し込むと、すぐに手榴弾を投げ入れた。チャムは日が暮れてから村にこっそり戻り、崩れた避難壕を掘り返したが、「肉片しか見つからなかった」という。
 それから数週間、物ごいをしながらさまよったチャムは、山岳部にこもっていた共産ゲリラに加わる決意を固めた。「父を殺した奴らに復讐したかった。韓国兵が村でやったことを見た以上、そうせずにはいられなかった」グエン・ゴク・チャウは83歳になった今も、憎しみを忘れていない。67年5月22日、フーイェン省ホアドン郡のミトゥアン村で農業をしていたチャウは、たまたま親戚のいる近くの村に出かけていた。そこへ前夜、韓国軍が村を攻撃したという知らせが届いた。大急ぎで帰ったチャウが目にしたのは、村人が井戸からバラバラになった遺体を引き揚げている光景だった。犠牲者のなかには、妊娠中の妻と4人の子供も含まれていた。

「首を切り落としてやる」
虐殺を隠れて見ていた老人の話では、韓国兵は女性や子供を井戸に落とし、助けを求める声を無視して手榴弾を投げ込んだという。チャウは、盛り土をしただけの簡単な墓に家族の遺体を葬った。
 「韓国兵に殺されたのは女や子供ばかりだ。共産主義者なんかであるわけがない」と、チャウは言う。「韓国人は人間じゃない。目の前に現れたら、首を切り落としてやる。」
 ベトナムで虐殺行為を犯したのは、韓国軍だけではない。アンリン郡から海岸沿いに北へ向かえば、68年に米軍部隊が500人以上の村人を虐殺したクアンガイ省ソンミ村がある。それでも戦争体験をもつフーイェン省の村人の間では、米兵の評判は必ずしも悪くない。地方公務員のファム・トゥ・サン(47)は66年のテト(旧正月)のとき、米兵と一緒に遊んだりチューインガムやキャンディーをもらったことを今も覚えている。

だが米軍はこの年、フーイェンから引き揚げ、代わって韓国軍がやって来た。それから「67年のテトを迎えるまで、韓国軍は殺戮を続けていた」と、サンは語る。「韓国兵に会ったら、死に出会ったも同然だった」と、今は地元の退役軍人会の会長を務めているチャムも言う。
 アンリン郡の村人によれば、韓国軍はとりわけ女性にとって恐怖の的だった。韓国兵は残忍なやり方で女性をレイプしてから、殺すケースが多かったからだ。
 こうした残虐行為が明るみに出てきたことに、ベトナム政府は神経をとがらせている。虐殺があったこと自体は、政府首脳も承知している。だがベトナム当局は、虐殺事件の報告書が国内で発表されることは望んでいない。友好関係にある韓国政府はもちろん、ベトナムに莫大な投資を行っている大宇や現代、三星といった韓国財閥の不興を買うことを心配しているからだ。

「韓国政府は補償より謝罪の言葉を」

さらに政府当局には、観光客としてベトナムを再訪する韓国の元兵士が増えている状況に水を差したくないという思いもある。だが、韓国軍の残虐行為を目の当たりにした地元の当局者は、観光や経済発展のために真実を隠すべきではないと考えている。
 地元が望んでいるのは、韓国政府の公的な釈明だ。たとえば韓国側から謝罪や罪を認める発言があれば、両国の絆はむしろ強まると、地元の人々は考えている。
 「韓国軍は、この地域にかつてない災厄をもたらした。犠牲者は銃を持てない老人や女性、子供たちだ」と、フーイェン省のある当局者は言う。「私たちが望んでいるのは、物質的な補償ではない。それよりも共感と友好の姿勢を示してほしい。犠牲者が過去を忘れられるように」
 韓国軍のために流された罪なきベトナム人の血の量を考えれば、なんとささやかな要求だろう。


http://plaza.rakuten.co.jp/foot001/7007
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by 699yabuhebi | 2006-12-23 14:18 | 近現代史

独立門

 現在ソウルの城門のあった場所には「独立門」というものが建てられている。昔はその場所には『迎恩門』という門があった。それは「朝鮮王が9回頭を地面に叩きつけて擦りつけ、ひれ伏して清の使者を迎える」という屈辱的な隷属の象徴の門だった。それも、この迎恩門で『朝鮮の国王』が土下座して出迎えたのは、中国の「王」ではなく中国の『使者』である。朝鮮はそれほどまでに国家として奴隷扱いされてたのだ。

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 韓国人は『中国の属国だった惨めな歴史を隠したい』 という意識から、歴史を捏造し続けてきた。

 世界中の国家や大学などが知っているように、朝鮮はずっと中国の『属国』だった。記録や物的証拠も国内外に数え切れないほど残っている。留学経験のある韓国人も自ら韓国は属国であったことを認めている者もいる。そもそも韓国の古い国旗にまで「大清国属(清=中国)」と書いてあったのだから属国だったことは否定しようがない。 しかし、韓国は国家レベルで「属国だった過去」を消し去りたかった。 古い国旗が発見された時も、韓国国内のニュースでは「大清国属」という文字をカットして報道したほどである。
 実はこの韓国の感情的問題は「反日」に密接な関係がある。

 まず、朝鮮と清(中国)がどの程度の従属関係だったか。
 朝鮮というのは、中国の属国の中でも琉球(現在の沖縄)よりも低い地位だった。
 そもそも、中国の属邦の中でも朝鮮の地位は最も低く、下国のなかの下国であった。
 天朝の朝賀の席では、千官が赤色の礼服を着ていたのに対し、朝鮮の使臣だけは異色の丸首の衣である。



 朝鮮国王の身分の低さは朝鮮がどんな扱いを受けていたかを見ればより明白になる。

・朝鮮国王は清の皇帝によって任命される。
・朝鮮国内の事件は全て皇帝に報告しなければならない。
・朝鮮国王は清の使節をソウル城門まで出迎えなければならない。
・朝鮮国王の地位は、清国の廷臣よりも下。
・朝鮮政府には、貨幣の鋳造権すら与えられてない。
・朝鮮政府には清国への食糧、兵士提供の要求権もない。

 朝鮮国王が宗主国の清国皇帝に奉呈した貢文に気に入らない言葉がたった一つあっただけで、朝鮮国王は銀1万両を罰金として払った上に、年貢への見返りを3年間停止するという厳しい処罰を受けている。
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by 699yabuhebi | 2006-12-23 13:52 | 近現代史

河野洋平官房長官談話を事実関係を検証して見直しへ。

慰安婦問題研究で小委員会を設置


 自民党の有志議員でつくる「日本の前途と歴史教育を考える議員の会」(中山成彬会長)は22日、従軍慰安婦問題を研究する小委員会を設置した。有識者を交えて事実関係を検証。慰安婦募集への旧日本軍などの関与を認めた1993年の河野洋平官房長官談話の見直しも視野に提言をまとめる。同会は97年に安倍晋三首相らが中心となって設立した。(22:29)



http://www.nikkei.co.jp/news/seiji/20061223AT3S2200O22122006.html



 慰安婦=売春婦

 韓国政府の嘘が明らかに。
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by 699yabuhebi | 2006-12-23 13:32 | 近現代史

【韓半島1921】台湾官僚の目に映った戦前の朝鮮半島

昔の新聞でこんな記事を見つけました。
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台湾と朝鮮の農業 朝鮮農民の怠慢を惜む 京城日報 1921.6.27(大正10)
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 朝鮮に来て逸早く感じたのは一農民が元気を欠いでいる事、換言せば怠け者が多いと云う事である、之を台湾の農民と比見せば全くお話にならぬ位で併合後十年の朝鮮と施政後数十年を経過せる台湾とを同日に論ずるの不可なるは勿論であるが、それにしても余りに怠け者が多い、試みに台鮮両農民を照合すると彼は頗る元気であって智識欲の旺盛なる結果耕作の上に甚大の効果を齎す現に台湾の一部しか占めない水田のみによる米の収穫でも一年百万石の多量を算し自給自足して余りある結果ドンドン輸移出するの盛況を示している、猶此外に砂糖及び茶の産額の多量なる事既に世界的定評を博せる所であって其質逐年に改良され其量年と共に増しつつあるに見ても此間の消息を知る事が出来るであろう、然るに朝鮮の農民にありては殆ど智識欲に欠乏し引いて農事の改良を策せず所謂其の日かせぎに甘んずるの結果遂に幾百年来の農業国も空名無質にして忸怩たる有様ではないか、田制改革は固よりながら鮮ちんぽ人に智識欲の欠乏せる事殊に細民たる一般の小作人が金を得るの欲を欠ける事、此所に主張がなく要求がなく常に貧にして常に虐げられ消沈徒に膝を擁して甘んじるの腑甲斐なき結果が生れるのである、台湾人は更に金を欲する、金を欲するが故に決して怠けない、酷熱肌を焼く炎天下に笑を含んで労働を楽める様は一度朝鮮ちんぽ人に見せたい位である、然らば何故に台湾人は斯くの如く働くようになったのであろう、そして何故にかく進歩したかと……夫には大なる原因がある、即ち監督官庁と一般農民との中間に所謂中堅階級が出来た為である。精糖会社が出来る工場ができる、人物が渡する、資本が渡って来る、機械が移入される、茲に於て会社の能率を上げんとならば一般農民の知識を高めねばならぬ、彼等を安じて働かすには自ら収穫を増さしむる必要がある、そこで中堅階級が直接に彼等を助成し指導する、遂に今日の発達を来たせる所以で由来農業の進歩を期せんとならば堅実なる工業的中間階級の手によって徹底的に之を指導するの外はない、然るに朝鮮はどうであるか農業を助長すべき工業がない、監督官庁と農民との間は宛ら雲泥の隔たりがあって有利に然も直接に指導するに困難を生じている、従て朝鮮には誇るべき何等の名産すらないではないか、台湾とはまるで反対である(大島台湾試験場長談)。

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台湾人農民は「欲がある/知識欲がある→元気良く働く→大成功」
朝鮮ちんぽ人農民は「欲がない/知識欲がない→元気がなくて怠け者→ずっと貧乏」
何故、このままでなかったか、今の韓国人は良く考えて見ましょう。
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by 699yabuhebi | 2006-12-23 13:25 | 近現代史