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韓国との歴史認識の共有は可能かを探る
by 699yabuhebi


日帝が嫌いなら「韓国」という称号を使うな

http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1805882

大日本帝国は日清戦争で清を倒しました。
そしてChosunを独立させてあげました。


歴史上、初めて中国から独立しました。
初めて「宗主国」になりました。




「宗主国」になったChosunが最初に行なった事があります。
「国号の改称」です。

500年続いた「Chosun」という国号を慌てて捨てました。
「韓」(Han)という国号に改めました。

何故か?
中国の冊封を受ける「中華世界」では「Chosun」のような「漢字二文字の国号」は「属国」を表すからです。
そして「韓」(Han)のような「漢字一文字の国号」は「宗主国」を表すからです。
※「日本」も二文字ですが、日本は中華世界ではありません




中国大陸の王朝は代々、漢字一文字です。
韓半島の王朝は代々、漢字二文字です。
※高句麗は三文字ですが、高句麗は元々、中国の地方都市です

更に 「Chosun」は、元々、中国の史書『史記』の中に出てくる「箕氏という中国人が韓半島に作った国」の事です。
「中国の伝説」なのです。
だから中国は李成桂に「Chosun」という「属国の国号」を与えたのです。

「Chosunは中国人が作った事を忘れるな!」という意味です。

本当は李成桂は「和寧」という国号を望んでいたようですが、叶えられませんでした。
# by 699yabuhebi | 2006-12-25 22:46

韓国とオランダを比べてみました

http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1805880


インドネシアは360年間、オランダの 植民地でした。
搾取された本当の「植民地」でした。

しかし、大東亜戦争で日本がオランダ軍をインドネシアから追い出しました。
そして インドネシアを 独立させました。

しかし、日本は敗れました。
オランダ軍はインドネシアに帰って来ましたが、インドネシアは独立の精神に燃えていました。
そして4年間の独立戦争。
残った日本兵も協力しました。


やむを得ず、オランダは インドネシアの 独立を 認めました。
しかし , オランダは インドネシアに こう 言いました。
「オランダは インドネシアに さまざまな投資をした! 独立したかったら , 独立の代金を払いなさい! 」 












インドネシアは 支払ったのでしょうか?
支払いました。

①60 億 ドルの 現金
②オランダ人の資産の保障
③Sumatra油田の開発コストの弁済

これを 「独立の 代金」としてちゃんとオランダに支払いました。  
※ソース
http://kaz1910032-hp.hp.infoseek.co.jp/120129.html












ところが…。
韓日併合は 韓国の 要請によって行われました。

■中央 日報で 引用
本心を隠したままの日本側に対して、まず合邦を打診したのは韓国側だった。
総理大臣李完用の側近である、小説「血涙」で知られるリ・インジクが密使として動いたのだ。
http://japanese.joins.com/article/article.php? aid=18651&servcode=100&code=100

■「李完用の審査と日韓併合」より 引用
現在の 朝鮮民族の 力量では、独立国家を 維持する事は 絶対にできない。
国の滅亡はほとんど決まっている。
国の滅亡を避けるためには併合以外にない。
そして併合相手は日本が望ましい。
欧米人は韓国人を豚や家畜のように思っている。
しかし日本は違う。
日本人は日本的な道徳を振りかざす。
これは気に入らないが、
しかしそれは韓国人を自分たちと同類と思っているからだ。
そして日本人は韓国人を導いて世界人類文明に参加させてくれる唯一の適任者だ。
日韓併合だけが、我々朝鮮民族が豚の境遇から脱して、人間としての幸福を享受できるようになる道だ。


そして…。
日本は韓国に大量の資金を投下して、「地獄」を「天国」にしました!

■併合 前後の 比較
↓併合前 「地獄」



↑併合後 「天国」












インドネシアに 比べて100億倍豊かな統治でした。 
ところで…。

韓国は当然、日本に「独立の代金」を支払いましたよね?













何?
日本がお金を支払った?



なぜ?
日本が払う義務はありません!



何?
身の代金?


「李承晩ライン」のために韓国に拉致されていた日本人の身代金として日本は経済協力金を支払ったの?



李承晩ラインって何?
韓国が公海(Open ocean)を侵略?


4000人が 拉致?
300隻の 漁船が奪われた?
40人が怪我?
5人が 死亡?
最大で13年間も監禁?
竹島も侵略?








立派な 犯罪です







…日本は 「平和 憲法」を アメリカに 強制されていたから , 軍事行動はできない。
だから 日本人を救助するためには身代金を払うほかに方法が無かったのだろう。
そうか。
そうだったのか…。
残念だ…。








何?
身代金が足りない?   








ふざけるな!
# by 699yabuhebi | 2006-12-25 22:44 | 近現代史

歴史共同研究「日中の相互理解は深まるか」

12月24日付・読売社説(1)
 [歴史共同研究]「日中の相互理解は深まるか」

 国家や民族が違えば、それぞれの歴史に対する認識もおのずと異なってくる。その前提に立って、どこまで相互理解を深めることができるか。

 日本と中国の歴史研究者でつくる日中歴史共同研究委員会が今週、北京で初会合を開く。共同研究は10月の安倍首相訪中時に合意したものだ。2008年をめどに研究成果をまとめる。

 歴史認識を共有する作業は決して容易ではない。05年に作成された日韓歴史共同研究の報告書も、双方の主張を併記するだけに終わった。

 韓国側の研究者に民族主義的イデオロギーが色濃く、日本側委員からは「分析者としての立場を離れて政治的主張を強く展開していることに驚き、失望した」との声が漏れたほどだ。

 中国の場合は体制の違いも加わる。

 委員の一人の山内昌之東大教授は「中国では歴史の最終解釈者は中国共産党」と指摘している。その上で、「中国側の歴史家に言説の自由が許されていない以上、新たな摩擦を増やす温床を日中関係にもちこむ危険性をはぐくむかもしれない」と警鐘を鳴らしている。

 そうした困難に加え、日中戦争の歴史解釈を巡っては様々な論争がある。

 1937年の「南京事件」の犠牲者数も、中国政府は「30万人以上」が公式見解だ。推定20~25万人とされる当時の南京の総人口を上回る犠牲者がいたとは考えにくいとの批判は、日本国内だけでなく欧米の研究者にも根強い。

 「過去の過ちをもみ消そうとしている」といった感情論を招かずに、実証的な議論を進められるか。米国など第三者の研究者を参加させることも一案だろう。

 ただ、中国側にも変化の兆しがうかがえる。昨年秋以降、日中戦争における国民党軍の役割を再評価する動きが強まっている。従来の中国共産党史観と比べれば、日本側研究者の歴史認識とのギャップは狭まる可能性がある。

 共同研究の対象も、中国が日本側の求めに応じ、戦後の日中関係史を加えることになった。日本の経済協力が中国の発展に寄与したことも対象となろう。

 安倍首相の訪中を機に、政治対話が加速するなど日中関係は好転している。訪中時の合意文書は、靖国問題への言及はなく、代わって「戦後60年余、一貫して平和国家として歩んできた」日本を中国が「積極的に評価した」と明記した。

 日中の歴史認識のギャップは狭まるのか。歴史認識を外交カードに利用する対日姿勢はこのまま影を潜めるのか。

 過大な期待は戒めねばならないが、中国側の変化を注視したい。

(2006年12月24日2時1分 読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/editorial/news/20061223ig90.htm

やはり韓国・中国とも政治プロバガンダのための共同研究なんでしょうね。
# by 699yabuhebi | 2006-12-25 20:56 | その他

サラ・ペイン (US 海軍大学)の語る日清戦争

最初の日中戦争 (日清戦争) は日本と中国に対する外国の認識に非常に大きな衝撃を与えた。この戦争に先んじて 1885 年に上演された「ミカド」というイギリスの有名なミュージカルがあり、これは日本についての一般的な認識を表していた。ミュージカルはサムライのコーラスで始まる。「私たちが誰か知りたいか / 私たちは日本の紳士だ / たくさんの壷や瓶の上で / たくさんの舞台と観客の上で / 私たちは鮮やかな姿をしている / 私たちの振る舞いは奇妙で風変わり」そして次の節へ続く。「もし私たちが糸で動かされていると思うなら / 日本の操り人形のように / あなたたちは分っていない / これはただの宮中礼式なのだ」。これがヨーロッパの認識であった。つまり、前近代的な日本がヨーロッパ列強にかかわる重大な問題にではなく、とるにたらない自国のしきたりに夢中になっている、ということである。対照的に、中国はヴォルテールのような啓蒙主義の哲学者たちによってかなり知られるようになり、西欧の尊敬をつなぎとめていた。戦争前夜、イギリスが所有する『ノース・チャイナ・ヘラルド』紙は、中国を「世界の列強としての尊敬に真に値する、唯一のアジアの大国である」と表現している。

一年も経たないうちに、この全てが変化した。中国は莫大な人口、軍隊、資源基盤、そして戦場への近接性、優れた戦艦、数年にわたる軍事的近代化にもかかわらず、全ての戦闘を通じてひどい負け方をしたのである。その軍隊は混乱の中で軍事物資を置き去りにしたまま原野に逃れ、地元住民に損害を与えた。他方で官僚は、外国の敵を倒すのに協力するよりは、国内の競争者を犠牲にして自分たちの権力を維持することをより重視していた。中国の堕落と無能さ同様、日本の武勇と専門的技術はこの戦争に対する外国の傍観者たちの関心を引きつけた。


これらの叙述は、筆者の新刊書 The Sino-Japanese War of 1894–1895: Perceptions, Power, and Primacy, Cambridge University Press, 2002. に基づいている
1895 年に、アメリカの海軍長官ヒラリー・A・ハーバートは次のように記した。「日本はほとんど一飛びに世界のしかるべき地位へと躍進した。中国との戦争における日本の最近の功績は全世界の注目を集めてきた。そして世界は今、これまで研究者や政治家たちさえもほとんど考慮に入れていなかったこの小さな島国の王国が、他の諸国が数世紀もかけて横断した土地に数十年で進出してきたという驚くべき事実を認めている」。また、イギリスのジャーナリストでアジアの専門家でもあるヘンリー・ノーマン卿は戦争の半ばに、「中国との戦争、そして (1894 年の日本にとって法的に対等な) イギリスとの条約は、最終的に諸外国に対して今の日本を認めさせることになるだろう。日本人は素晴らしい知性とたゆまぬ行動力・熱意を持った、勇敢で誇り 高い民族である」と記している。

日本とは対照的に、ヨーロッパにおける戦後の中国認識は決して喜ばしいものではなかった。ロシア外務省の公式新聞『ジュルナール・ド・サンペテルスブール』はこう述べている。「この戦争の始まりから、中国は痛ましい光景を呈してきた。ここまで弱いとは誰も疑わなかった」。また、イギリス人のアジア専門家であるアレクシス・クラウスは中国を「中心が腐敗し、病んだ統治が行われ、団結を欠き、自衛の手段を有していない… 中国の回復力を信じることは、無駄な信念にすぎない… 政治的存在としての中国は絶望的である」と見なした。

東洋においても西洋においても人々の認識を変えたこの戦争は、極東に関与している全ての諸国の外交政策に影響を及ぼした。中国の脆弱性への認識は、より攻撃的な外国の侵入を引き起こし、「利権の奪い合い」として知られる、海外の列強が中国を勢力圏に分割する時代を招いた。逆に、日本の強さに対する認識は、日本を列強の地位へと導いた。 1902 年の日英同盟は日本の新しい地位を正式に認めるものであった。これはイギリスにとって、ナポレオン戦争の終結から第二次世界大戦までの間の、唯一の同盟だった。

新しい勢力均衡が生まれた。中国の数千年に及ぶ地域への支配が突然終焉した。日本はアジアの支配勢力となり、その地位は 20 世紀の間ずっと続くものであった。日本は政治の変容と結びついた急速な経済成長が、潜在的にグローバルな帰結に結び付くということを示してきた。そうすることで、日本は工業化が西欧の専売特許ではないということを証明してきたのである。

一方でもし戦争が日本を列強の地位に押し出したとするならば、戦争は中国を奈落の底へ沈めた。それは中国が捨て去ることの出来ない、優越性への執拗な自覚の根幹を打ち砕き、世界における中国の地位の見直しを余儀なくさせる。かつての儒教世界の構成員である日本に敗北を喫したことは、アヘン戦争を含む、かつてのいかなる西欧諸国による敗北よりもこれを決定的にする。なぜなら異なる文明による敗北ならば軽く扱われうるが、儒教秩序のかつての構成員による敗北ではそれができないからである。同様に、中国におけるいかなる政治的安定の痕跡も打ち砕かれただろう。儒教秩序から変化した構成員による勝利は、この秩序の正統性を決定的に掘り崩した。中国人にとってこの戦争は、彼らの世界を覆すものとなった。一世紀後の今なお、中国は長い間中華思想の根幹を形成してきた安定的な儒教秩序に代わる、満足のいくものをまだ見つけていない。

この戦争はロシアにも極めて大きな衝撃を与えた。それはロシアの外交政策がヨーロッパから離れアジアへ向かうという根本的な変更をもたらした。ロシアは日本が防衛の手薄なシベリア国境地帯にとって重大な脅威になると判断した。その結果、ロシア人の入植計画と満州の発展が加速化され、シベリア鉄道が現在と同じアムール川の北岸沿いではなく、バイカル湖—ウラジオストク間の連結をより短くするために北満州を横断するという運命的な決定がなされた。 1900 年、義和団の乱が鉄道路線にひどい損害を与えたとき、ロシアは満州全土を占領するために 10 万以上の軍隊で応酬した。満州におけるロシアの、このように大規模な財政的・軍事的介入が意味することは一つである。つまり、ロシアはアジア大陸への日本の侵入を最小限にとどめようとしていたのだ。ロシアと日本の野心の競争は、結果として日露戦争での衝突につながった。

日清戦争は古い儒教秩序と極東の諸関係を規定してきた朝貢システムの終焉を運命づけた。日英同盟やロシアの外交政策の変更によって示されるように、この戦争はまた、アジアの出来事がヨーロッパに直接的に影響を及ぼすというグローバルな政治の新しい時代の到来を告げるものでもあった。
# by 699yabuhebi | 2006-12-24 18:43 | 近現代史

ロシアの野心(自由主義史観)

自由主義史観側の主張(A~D)
A・ロシアの脅威
(これが主張の中核です)
ロシアは19世紀に極東にぐんぐん勢力を伸ばしてきた。

日本列島に対する朝鮮半島の配置は、日本に絶えず向けられた銃口の意味をもつ。

朝鮮は自前の独立した国家を持たない、ロシアの吹き抜けの通路である。

ロシアが義和団事件を口実に満州に居座った(これが日露戦争の直接の原因)ことは、陸続きに朝鮮半島に進出してくることを意味し、そうなれば日本は自国を防御する手段がない。

つまり、日露戦争はやられる前の先制攻撃で「祖国防衛戦争」である。

 

B・国際状況について
当時の世界は帝国主義と植民地争奪の時代

当時の国家には「文明国」になるか、その植民地になるか、二つに一つの選択しかなかった。⇒日本は「文明」のルールに従っただけ。

日英同盟は「戦略論」の面から見て最も適切であるのは次の理由による。

・当時の日本は、自力では生き残れないため、米英というアングロサクソンと組むか、ロシアと組むかという選択肢しかなかった。(外交史家の岡崎久彦氏の論に依拠して)

親露と親英の争点は「ロシアが満州に留まって朝鮮半島に出てこないように話し合いがつく可能性があるか否か」だった。そこに、小村意見書が出され、以下の主張をした。「日露条約は、ロシアの侵略主義が到底これに満足しないから、長期的な保証にはならない。日英条約を結んだ場合、ロシアの野心を制して比較的長く平和を維持できる。」この意見が認められ、日英同盟は結ばれた。
後世の史料によると、ロシアの蔵相ウィッテは遼東半島より朝鮮半島を取るつもりだったことがわかっている。よって、小村は正しい判断をしたのだった。
                   

C・世論と「平和論者」の捉え直し

事態を国難と受け取って、献身的働きをした人々が多くいた。日本国民の気概が健全なナショナリズムとしていかんなく発揮されたからである。

・内村鑑三は日露戦争の際、アジア解放の理想を述べ、それを日本が引き受けると謳っている。

社会主義者幸徳秋水は、北親事変の際は実は日本軍の北京進撃を支持したのである。
与謝野晶子は、我が子が大東亜戦争に出征する際「猛く戦え」と詠んだ。
彼ら「平和論者」と言われる人々も、戦争の延長としての戦争の必要性は感じていたのであって、単純な平和論者ではないのである。彼らは国益を追求した考えであり、それは当然のことである。今日、彼らの平和論のみを強調し、「戦争=犯罪」視する態度は見直されなければいけない。

 

D・エピソード
日本の勝利は世界の被抑圧民族の独立運動を鼓舞した。

朝鮮に独立した国家ができることを望んで(朝鮮半島に防御帯になって   欲しいから)、政府も民間も援助した。それでも1884年の甲申事変が失敗し、福沢諭吉が「脱亜論」を書かざるを得ないような状況となった。

政府は植民地に大変な予算をつぎ込んで、本国並みの水準に引き上げようとした。

日本は日清・日露を通して、朝鮮半島を中国から、二度目にはロシアから独立させ、あるいは両国の勢力から切り離すよう努めた。もしも日本が手を出さなかったら、朝鮮は欧米かロシアの草刈場となっていただろう。

日露戦争のとき、日本は戦争法規を忠実に守り、ロシアから感謝された。

義和団事件のとき、日本は列強に繰り返し要請されたために出兵。列国の兵士は略奪・暴行の限りを尽くしたが、日本兵は殆ど乱暴しなかった。

マッカーサは、朝鮮戦争の際にトゥルーマン大統領に、「満州という本拠地を爆撃しなければ朝鮮半島を確保できない」と進言し、核兵器の使用を憂慮した大統領に解任されている。彼は満州の安全が朝鮮半島の安全に直接に結びついていると気づいたのだった。また彼は日本が戦争に突っ込まざるを得なかった理由として、「安全保障の問題だった。日本は島国で資源がない。1200万の失業者の出る恐れがあったからだ。」と発言。つまり彼は近代日本の置かれた立場を追体験したのだった。(⇒A-4の論を補強)

 

反自由主義史観側の主張(A~Cに対して)
A⇔
 ・ロシアには次の史料がある。
   「もし朝鮮が自由でなくなれば我々の極東における全政略が脅かされるのだ。・・旅順からウラディオストークに至るルートは障害なくしておきたい。もし日本がこれに同意しないなら海戦・・」

  ・藤岡氏らは、「国家戦略」を前提に、「時代認識」、「地政学」の見地をている。これでは最初から結論が用意されていたことになる。つまり彼らはイデオロギーにとらわれた史観で史実を一面的に捉えようとしている。

ロシアを侵略」と「植民地」支配の主体でアジアに牙をむく脅威としてだけ問題にしている。朝鮮は国として認められてさえいない。
  ・日露戦争は、朝鮮の植民地化の起点となったという意味において日本の朝鮮侵略戦争であったし、戦利品として関東州・南満州の鉄道利権の獲得があったという意味において満州侵略戦争であった。

B⇔
 ・親露・親英とも、要は韓国を完全に日本の支配化に置くことを目的としており、後者がそのために戦争も辞さなかったと言う点でのみの相違である。
C⇔ 
・原敬の日記には以下の趣旨のことが書いてある。
「政府が七博士に露国討伐論を唱えさせたのは、ロシアを威圧し交渉を成立させるためだった、しかし意外にも開戦せざるを得ない行きがかりを作ってしまった、政府の中の主戦論を唱えるものも、国民も、真に戦争を望んではいない。」

よって、強硬論は政府が意図的に煽り立てたものであり、世論は「つくられた」開戦論に傾いた。

戦場の兵士たちの手紙の中では、天皇・国家は尊ばれていない。
民衆は政治・社会状況に対して多様に反応する。よって「素朴に国を信じ」たこと自体が研究対象であるはずだ。
 

文献
①汚辱の近現代史(藤岡信勝)徳間書店
  ②近現代史教育の改革(藤岡)明治図書

  ③国民の油断(藤岡・西尾信勝)PHP研究所

  ④教科書が教えない歴史(藤岡・自由主義史観研究会)

  ⑤教科書が教えない歴史4

  ⑥戦後歴史学と「自由主義史観」奈良歴史研究会

  ⑦「自由主義史観」の本質(井口和起)部落問題研究所

  ⑧近現代史の真実は何か(藤原彰)大月書店 
# by 699yabuhebi | 2006-12-24 18:39 | 近現代史