韓国との歴史認識の共有は可能かを探る
by 699yabuhebi
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檀君の新しさ

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写真は鹿児島県の玉山神社


秀吉の朝鮮征伐の後に朝鮮陶工がこの地にやってきてから建てられた神社で、
朝鮮神話の始祖「壇君」を祀る。朝鮮の歌舞も受け継がれてきたという。
神社には大正時代の参道改修記念碑が残されている。
多くの朝鮮式名字が刻まれているが、今は一件も残っていない。
町役場によると朝鮮式名字の多くは明治初期と戦後に自主的に変えたという

16世紀末期に秀吉の朝鮮征伐の時に連れ帰った朝鮮陶工軍団が
我が朝鮮民族の祖先である「檀君」を祀った神社を建てたいと
申し出て建てた神社はあるわけだが
4世紀〜9世紀まで多くの半島出身の帰化人が
日本に来て建てた神社はけっこうあるが
半島からの帰化人が我が民族の祖先を「檀君」と書いた記述もないし
「檀君」を祀った神社も無し(w

檀君は結構新しい時代の話なんでしょうね(w
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# by 699yabuhebi | 2006-12-24 17:47 | 韓国史のはじまり

新羅の始祖神話

 『三国史記』新羅本紀によれば、朴氏・昔氏・金氏の3姓の王系があること、そしてそれぞれに始祖説話を持っていることが伺える。

 まず初代王朴氏(朴赫居世)については以下の通りである。辰韓の六村の長の一人が、蘿井(慶州市塔里に比定される)の林で馬の嘶くのが聞こえたので近寄ったところ、馬が消えて大きな卵があった。卵を割ると中から幼児が出てきて育て上げたが、10歳を越える頃には人となりが優れていたことから六村の人たちは彼を王位につけた。朴赫居世は紀元前57年に13歳で王位(辰韓の語で王者を表す居西干と称された)に就き、国号を徐那伐とした。卵が瓠(ひさご)ほどの大きさであったため、辰韓の語で瓠を表す「バク」を姓として名乗ったという。その王妃については、閼英井(南山の北西麓の羅井に比定される)に龍が現れ、その右脇から生まれた幼女が長じ、容姿端麗にして人徳を備えていたので朴赫居世は王妃に迎えた、とする。当時の人々は赫居世と閼英とを二聖と称した。また、建国時に腰に瓠をぶら下げて海を渡って来たことから瓠公と称されるようになった倭人が、大輔という役職名の重臣になったと記述されている。

 昔氏初代であり第4代新羅王(この時期は尼師今と称された)の昔脱解(脱解尼師今)の誕生は以下の通りである。倭国の東北一千里のところにある多婆那国日本列島内と見られており、丹波国(たんばのくに)に比定する説がある(→上垣外憲一)。他にも但馬国、肥後国玉名郡とする説もある。の王妃が妊娠ののち7年たって大きな卵を生み、不吉であるとして箱に入れて海に流された。やがて辰韓に流れ着き老婆の手で箱が開けられ、中から一人の男の子が出てきた。箱が流れ着いたときに鵲(かささぎ)がそばにいたので、鵲の字を略して「昔」を姓とし、箱を開いて生まれ出てきたことから「脱解」を名とした、という。長じて第2代南解次次雄の娘(阿孝夫人)を娶り、のちに王位を譲られた。

 金氏初代王である第13代味鄒尼師今の7世祖の金氏始祖金閼智については以下の通りである。脱解尼師今の治世時に、首都金城の西方の始林の地で鶏の鳴き声を聞き、夜明けになって瓠公に調べさせたところ、金色の小箱が木の枝に引っかかっていた。その木の下で白い鶏が鳴いていた。小箱を持ち帰って開くと中から小さな男の子が現れ、容姿が優れていたので脱解尼師今は喜んでこれを育てた。長じて聡明であったので「閼智」(知恵者の意味)と名づけ、金の小箱に入っていたので「金」を姓としたとある。また、このことに合わせて始林の地を鶏林と改名した。


 新羅の神話のどこに 壇君が出てくる?
 他民族の歴史を盗むことしかできないか?
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# by 699yabuhebi | 2006-12-24 17:41 | 韓国史のはじまり

地球の起源は韓国

sirakiの投稿http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=thistory&page=2&nid=1805220

エッナル 桓国 朝鮮の 記録には 澳累頭 涯理逗 o_ru_du e_ri_doで出るが..

遠く設置した家あるいは 遠征の野営地という意味だ..

私たち檀君族は..

葦が伸びる湿地に 葦原

buru 澳累頭を作ったの....



これが発音が変わって英語の

earthになった.





反論ある?w
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# by 699yabuhebi | 2006-12-24 17:39 | ウリナラ起源

朝鮮の建国伝説

 朝鮮総体の建国伝説については、箕氏朝鮮についての伝説と檀君伝説の2つがある。

【箕氏朝鮮】

 箕氏朝鮮についての伝説によると、箕氏は徳のある人物で、はじめ中国殷王朝の最後の王である紂王に仕え、紂王が滅んだ時に紂王の横暴な行いをいさめて逆鱗に触れ、幽閉された。箕子は、殷を放伐した周の武王によって、牢獄から助け出された。武王は箕子に諸侯の一員となって欲しいと望んだが、滅ぼされた殷王朝の一族としては敵となる武王に仕えるのをよしとせず、当時は漢民族の諸侯の北辺である燕(えん・現在の北京市の周辺一帯)のさらに北東に接して現在の朝鮮半島北西部までの地域に朝鮮国をつくり、三千人の家臣を引き連れて移住し、武王によって箕子が朝鮮王に封ぜられ、朝鮮の民の教化に務めたという。

 この伝説は、司馬遷の「史記」にのみ記述がみられ、朝鮮側には文献上も伝承としても類話がなく、それらしい遺跡もないという。
 ただし、後の儒者が文献に取り入れたり、李氏朝鮮の時代に「箕氏廟」が平壌につくられたりしている。


【檀君伝説】
 もうひとつの朝鮮建国神話が、檀君(だんくん、タングン)伝説で、それは次のようなものである。

 中国伝説上の君主尭帝即位50年の年に、天帝桓因(かんいん、ホワンイン、帝釈天の別名)の庶子の王子桓雄(かんゆう、ホワンウン)を人間世界を治めるため地上に降ろすことになった。桓因は桓雄に天符印を三個(剣・鏡・鈴あるいは剣・鏡・曲玉の神器)授けて、「天下って人間界を治めてみよ」と命じた。桓雄は三千の供を率い、太白山頂上の神壇樹(栴檀(せんだん))の木の下に天降り、そこを神市と名づけた。桓雄は風伯・雨師・雲師の三神をしたがえて、穀物・命・病・刑・善悪など人間に関する360余事を司り、人間界を治め、教化につとめた。
 天降った樹の下の洞窟に住む一匹の熊と一匹の虎とが桓雄をしたい、人間になって忠義を尽くしたいと願ったので、桓雄はもぐさ一束とにんにく二十本を与え、洞窟にこもって百日間の修行をすることを命じた。ところが気短な虎は修行に耐えられず逃げ出してしまって人間になりそこねた。熊は首尾よく修行を全うして美女と化した。そこで桓雄はその熊女を娶って王子の檀君王倹(おうけん、ワンゴム)を生ませ、王倹は平壌城(別名を王倹城。今の平壌ではないとする説もある)に都を定め、はじめて朝鮮の国を開いた。その後、都を白岳山の阿斯達(あしたつ、アサダル)に移し、1500年間国を治めたが、周の武王が箕氏を朝鮮に封じたので、蔵唐京に移り、のちに阿斯達にもどって山に隠れ、山神になった。1908歳もの長寿を全うした。

 この説話がはじめて文献としてみられるのは、高麗後期の僧一然(1206~1289年)の説話集「三国遺事」である。箕氏に言及しているところから、一然が司馬遷「史記」を読んだことは明らかである。
 後に、この檀君による建国の年は、「尭帝即位50年」という記述を根拠に西暦紀元前2333年だとされた。
 なお、韓国国定国史教科書では紀元前7世紀の韓半島における青銅器遺物の出土を根拠に「檀君朝鮮は歴史的事実である」として子どもたちに歴史を教えている。
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# by 699yabuhebi | 2006-12-24 11:28 | 韓国史のはじまり

1940年1月1日発行「朝鮮日報」

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# by 699yabuhebi | 2006-12-24 01:59 | 近現代史

日本統治下の朝鮮語映画「家なき天使」~おさるさんのブログより~

http://blog.goo.ne.jp/sarudayo/e/744a79021a16ff4fad0ae91c49dcd60f

14日鑑賞の2本目は「家なき天使」。
「軍用列車」と並んで最近、中国に残っているのが発見された4本のうちの1本。

 撮影監督金 学成(金井 成一)の足跡を追った田中 文人監督のが「2つの名前を持つ男」を製作中、ちょうど韓国映像資料院の院長が中国に残された朝鮮映画のフィルムを韓国に譲り渡してもらうことに成功。
 その中に「家なき天使」があったのですが、この作品、撮影は金 学成によるものでした。
 その話が「2つの~」の院長インタビューで紹介されているのですが、おそらくそうした縁からでしょう、「2つの~」では「家なき天使」に出演した子役の一人(今は老人ですが)のインタビューが収録されています。金 学成のいた現場の想い出を語ってましたね。
 そうした田中監督と院長との信頼関係からでしょう、「2つの名前を持つ男」が上映された昨年の山形国際ドキュメンタリー映画祭では、映像資料院の特別協力という形で(たぶん)「家なき天使」が日本で初めて(そして最後?)上映されています。
 けどそのときには、私は日程がバッティングしていたプサンに来ていて見ることができませんでした。なので、今回、プサンでリベンジというか・・・。(わらい)
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「家なき天使」、1941年の作品で監督はチェ・インギュ。後に解放後初の劇映画と言われる「自由万歳」を監督した人ですが、「自由万歳」は日本の圧政に苦しむ朝鮮の人々の抵抗運動を描き、光復の日の人々の喜びのシーンで(本来は)終わっていたという映画。
 チェ・インギュは光復前後の、思想・内容的に180度異なる映画づくりをする運命となった韓国・朝鮮映画人の代表的な一人といえるのでしょう。

「家なき天使」は、内鮮一体が叫ばれる時期の朝鮮、ソウルを舞台に、キリスト者が孤児達を救うために孤児院を建てて共に暮らし、彼らの教育に尽くすという事実に基づいた作品のようで、子供たちが活躍する、ほのぼのとした作品となっています。
 この映画は文部省推薦で、日本全国で上映される朝鮮映画となるはずが、内務省の検閲には通らずに日本での上映は断念することとなったらしい。理由は今もって不明ですが、浮浪児がたくさん出てくる貧しい朝鮮が映画に描き出されることを好まなかったのではないか、という話もあるようです。
 革命後のイラン映画ではないけれど、子供達が主役ということで政治的なものからはおおむね逃れているのですが、しかし、映画の中に2箇所、日の丸が出てくるところがあります。日の丸の旗の下で軍隊ラッパを吹く子供というシーンと、もうひとつ、日の丸の下でキリスト者たる先生の前に子供たちが整列し、皇国臣民の誓いを声を合わせて唱えるシーン。こうしたところがなくては、おそらく文部省の検閲にも通らないという、時代的なものがあったのでしょうが。
 映画でも、日本語が随所に出てきて時代を感じさせますね。

 映画祭での上映では、若い観客が多かったのですが、その日の丸のシーン二箇所では、静かなざわめきが広がっていましたね。
 司会の方、たぶん映画研究者と思われる女性は、今回の発見された映画についてのセミナーが後日あると案内していましたが、ティーチイン終了後、欧米系の観客(たぶん映画人)に英語で話しかけているのを聞いていたら、今回、若い人がざわめいていた日の丸のシーンに絡む話もあるようなことを仰っていましたね。
 レトロパースペクティブ上映作品の大部分が内鮮一体に関わった話ですので、セミナーは自ずと植民地下の朝鮮映画についてのものとなるでしょう。
 私も行きたいけど、日がね・・・。

 韓国映画の歴史の中では、日本に留学等して映画作りを学んだ人がいるわけですが、どうも解放前に日本で学んだ人についての評価が定まらない面があるようですね。
 しかし、セミナーが開かれるところをみると、中国で植民地下朝鮮の映画4本が発見されたことがひとつのきっかけとなって、そうした時代のややもすると矛盾を抱えざるを得なかった映画人や作品について研究が進んでいくのかもしれませんね。
 日本側でも、昨年、「2つの名前を持つ男」が製作、公開されたのは意義深いことだったのではないでしょうか。
 日本と韓国の映画におけるつながりにおいて、触れにくいが触れないでいられない時期のことですから。


 私が見た回はゲストがいらしてました。チェ・インギュ監督の娘さんで、映画の中でも物売りの親方に飲み屋に売られそうになり、やがて先生の兄に助けられて看護婦見習いになって離ればなれになっていた弟とも再会する あき子として出演していらしたようですね。
 観客からは終映後にたくさんの拍手がわき起こり、今はおばあさんとなっている監督の娘さんが目に涙を浮かべているのが印象的でした。

 ではでは。
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# by 699yabuhebi | 2006-12-24 01:52 | 近現代史

日本「40年代、東京から竜仁に遷都する計画だった」(韓国・中央日報)

日本「40年代、東京から竜仁に遷都する計画だった」
http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=68897&servcode=200§code=200

「1940年代、韓半島、満洲、台湾を支配した日本が首都(東京)を韓国の竜仁(ヨンイン)に移そうとしていた。

キョンウォン大学総長を務めたキム・ウィワン博士(74、大韓建設振興会長)はこれまでに収集した120件の資料を2001年国土研究院に寄贈した後、最近発刊した資料解説書でこのように明らかにした。

キム博士によると日本は1940年代の初め、15年後を目標に立案した秘密国土計画である「中央計画素案」で、京城部(ソウル)南の郊外、日本内岡山と福岡など3カ所を大東亜圏の首都移転候補地として提示した。

当時、ソウル隣近は地震もなく、国土(満洲-韓半島-日本)の中央に位置し、日本が首都立地として理想的だということだった。また新しい首都には王宮と政府機関のみ移転する計画だった。キム博士は「後に日本前職官吏らとの面談で首都移転候補地だった京城郊外とは韓国外国語大竜仁キャンパスがある渓谷一帯だったという事実を確認した」と述べた。

博士は「当時、日帝は竜仁地域測量まで終え、(旧)建設部道路課長を務めたイ・ホンギョン大韓コンソルタント会長も、解放直後、道路課の書類に測量図面があるのを見たと言っていた」と付け加えた。

中央計画素案は、日本本土と朝鮮、満洲、台湾にかけて地域別産業生産目標を提示、また内地150、朝鮮23、台湾20など計193の工業地区を指定する案を盛り込んでいる。韓半島に対しては三千浦(サムチョンポ)石油化学工業団地、釜山(プサン)~新義州(シンウィジュ)間の高速道路、三千浦~大田(テジョン)間の復線鉄道および高速道路などの建設計画を含んでいる。

しかしこのような計画は朝鮮人8百万人を満洲に強制移住させ、そこを日本農民8百万人で満たすということが前提だった。移住計画が実現した場合、日本人は韓半島人口の3分の1以上を占めることになる。キム博士は「日本が太平洋戦争で勝利すればこの計画は実現したはずで、韓国が満洲に追い出されたのは明らかだ」と述べた。

キム博士はまた解説書で、朝鮮総督府官吏の集まりである「友邦協会」の資料をもとに38~43年特別支援兵制による朝鮮人入営者が1万7663人、43年国民総動員法による強制徴用者が134万人(労務者51万5千人を含む)に達すると紹介した。

また朝鮮総督府が41年、真珠湾奇襲攻撃以後、極秘で扱った人口統計を手に入れ、44年5月1日夜の12時基準に朝鮮(韓国・北朝鮮)の世帯数は492万世代、人口は2951万7881人だったと確認した。

キム博士は55年、ソウル市都市計画専門委員を始めとし、建設交通省都市局長、国立地理院長、国土開発研究院長、キョンウォン大学都市計画学科教授などを歴任した国土政策専門家だ。

解説書全文は国土研究院ホームページ(www.krihs.re.kr)で見ることができる。

許貴植(ホ・クィシック記者)


2005.10.24 10:07:06
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# by 699yabuhebi | 2006-12-23 22:08 | 近現代史

KBS前方後円墳報道

2005年10月31日20時
韓国KBSが「ソウル江東区で前方後円墳10数基が1度に発見されたと報道」

その報道の直後enjoykoreaで韓国人が
「任那日本府は否定された」
「日本は百済の植民地だった」
「日本の捏造は暴かれた」
と書き込む

10月31日22時
連合ニュースが報道

ソウルで日本式の前方後円墳発見か、KBSが報道
2005/10/31 22:32
【ソウル31日聯合】KBSは31日のニュース番組で、ソウル・江東区一帯で漢城百済時代に作られた前方後円墳10数基が1度に発見されたと報道した。KBSではこれらを百済初期の王陵クラスの墓と推定している。前方後円墳は日本で典型的な古墳方式だが、朝鮮半島では全羅南道の栄山江流域で10基あまりが確認されるだけだ。しかし、調査主体が考古学の調査専門機関ではないこと、発掘調査ではなく地質探査技法による結果に基づいていることなどから、報道内容に疑問の声も上がっている。

http://japanese.yna.co.kr/service/article_view.asp?News_id=052005103110500

「調査主体が考古学の調査専門機関ではないこと、発掘調査ではなく地質探査技法による結果に基づいていることなどから、報道内容に疑問の声も上がっている。」と書くも韓国人の妄想は止まらない

11月1日

激しく論争する日韓enjoy korea内

韓国側が続々とその前方後円墳を貼る

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日本側はこの写真を見て「前方後円墳か?」と疑問視するも韓国人の妄想は
止まらない

そしてこの問題の張本人の
百済文化研究会という謎の集団のある教授が「任那日本府は否定された」と答えた事が報道され韓国人が拍手喝さいをする
http://kr.news.yahoo.com/bestclick/shellview.html?articleid=2005110116300678994&category=cu&date=20051102&rank=2
(韓国語)

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しかし
11月2日未明


KBSのニュース画像が貼られ
ダウジングでの調査とわかり
日本側は大きくあきれてしまう(w


そして11月2日午前

【連合ニュース】江東の前方後円墳は根拠なし判明

http://www.yonhapnews.co.kr/news/20051102/030000000020051102085828K0.html(韓国語)

ついに否定される。
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# by 699yabuhebi | 2006-12-23 20:30 | 古代史

ベトナム戦争での韓国軍

【ニューズウィーク】  2000年4月12日号 P.24 ロン・モロー(バンコク支局長)



韓国軍の理由なき無差別の殺戮

 韓国軍がベトナムに派兵されていたのは1965~73年。残虐行為のねらいは、ベトナム中部の3省(ビンディン、クアンガイ、フーイェン)から農民を移住させて人口を減らし、ベトコン(共産ゲリラ)の勢力伸張を阻止することにあったようだ。
 現地の自治体当局者によると、立ち退きを拒否した人々は、韓国軍の手で組織的に惨殺されたという。しかも犠牲者の多くは、老人や女性、子供だった。
 歴史の闇に葬り去られていた虐殺の事実に再び光が当てられたのは、勇気ある韓国人研究者、具秀ジョン(ク・スジョン)が行った調査のおかげだ。彼女は韓国軍による大量虐殺の詳細を記録したベトナム政府の文書を発見した。生存者の証言によると、虐殺は理由なき無差別殺人であり、多くはベトコンとの戦闘が行われていない時期の出来事だった。
 グエン・フン・トアイ(46)もビンスアン村の虐殺と同じころ、アンリン郡の別の村で危うく殺されかけた。当時13歳だったトアイは、韓国軍が家に近づいて来るのを見てすぐに逃げた。近くの畑に隠れて見ていると、韓国兵は村の家に次々と火をつけ、母親と祖父母、弟と妹、そして近所の人々に暴行を加えたという。韓国軍は、トアイの家族を含む11人ほどの村人に銃剣を突きつけ、防空壕に追い込んだ。残りの12人ほどは、穴の外に立たされた。次の瞬間、何の前ぶれもなく銃声がとどろき、手榴弾の爆発音が空気を引き裂いた。トアイはとっさに頭を隠した。硝煙が消えたとき、すでに韓国軍の姿はなかった。トアイは急いで家族がいた場所へ行った。防空壕の前には、穴だらけになった血まみれの死体が並んでいた。防空壕の中も、誰かが生きている気配はまったくなかった。トアイは恐怖に駆られて逃げ出した。戦争が終わった後も、ここへ戻ることはできなかったという。



「見つかったのは肉片だけ」

「みんな、村を離れたくなかった。私たちにとって、家や土地や水田はかけがえのないものだ」。トアイはそう言って泣きだした。「でも、立ち去るのを渋った人間はみんな殺された。連中は村をめちゃくちゃに破壊してしまった」こうした残虐行為の結果、多くの人々がベトコンの陣営に加わった。67年、16歳のときに父親を韓国軍に殺されたブイ・タイン・チャムもその1人だ。チャムは数人の韓国軍がアンリン郡の家に押し入る直前、裏口から脱出した。韓国兵は70歳の年老いた父親を捕らえ、防空壕に押し込むと、すぐに手榴弾を投げ入れた。チャムは日が暮れてから村にこっそり戻り、崩れた避難壕を掘り返したが、「肉片しか見つからなかった」という。
 それから数週間、物ごいをしながらさまよったチャムは、山岳部にこもっていた共産ゲリラに加わる決意を固めた。「父を殺した奴らに復讐したかった。韓国兵が村でやったことを見た以上、そうせずにはいられなかった」グエン・ゴク・チャウは83歳になった今も、憎しみを忘れていない。67年5月22日、フーイェン省ホアドン郡のミトゥアン村で農業をしていたチャウは、たまたま親戚のいる近くの村に出かけていた。そこへ前夜、韓国軍が村を攻撃したという知らせが届いた。大急ぎで帰ったチャウが目にしたのは、村人が井戸からバラバラになった遺体を引き揚げている光景だった。犠牲者のなかには、妊娠中の妻と4人の子供も含まれていた。

「首を切り落としてやる」
虐殺を隠れて見ていた老人の話では、韓国兵は女性や子供を井戸に落とし、助けを求める声を無視して手榴弾を投げ込んだという。チャウは、盛り土をしただけの簡単な墓に家族の遺体を葬った。
 「韓国兵に殺されたのは女や子供ばかりだ。共産主義者なんかであるわけがない」と、チャウは言う。「韓国人は人間じゃない。目の前に現れたら、首を切り落としてやる。」
 ベトナムで虐殺行為を犯したのは、韓国軍だけではない。アンリン郡から海岸沿いに北へ向かえば、68年に米軍部隊が500人以上の村人を虐殺したクアンガイ省ソンミ村がある。それでも戦争体験をもつフーイェン省の村人の間では、米兵の評判は必ずしも悪くない。地方公務員のファム・トゥ・サン(47)は66年のテト(旧正月)のとき、米兵と一緒に遊んだりチューインガムやキャンディーをもらったことを今も覚えている。

だが米軍はこの年、フーイェンから引き揚げ、代わって韓国軍がやって来た。それから「67年のテトを迎えるまで、韓国軍は殺戮を続けていた」と、サンは語る。「韓国兵に会ったら、死に出会ったも同然だった」と、今は地元の退役軍人会の会長を務めているチャムも言う。
 アンリン郡の村人によれば、韓国軍はとりわけ女性にとって恐怖の的だった。韓国兵は残忍なやり方で女性をレイプしてから、殺すケースが多かったからだ。
 こうした残虐行為が明るみに出てきたことに、ベトナム政府は神経をとがらせている。虐殺があったこと自体は、政府首脳も承知している。だがベトナム当局は、虐殺事件の報告書が国内で発表されることは望んでいない。友好関係にある韓国政府はもちろん、ベトナムに莫大な投資を行っている大宇や現代、三星といった韓国財閥の不興を買うことを心配しているからだ。

「韓国政府は補償より謝罪の言葉を」

さらに政府当局には、観光客としてベトナムを再訪する韓国の元兵士が増えている状況に水を差したくないという思いもある。だが、韓国軍の残虐行為を目の当たりにした地元の当局者は、観光や経済発展のために真実を隠すべきではないと考えている。
 地元が望んでいるのは、韓国政府の公的な釈明だ。たとえば韓国側から謝罪や罪を認める発言があれば、両国の絆はむしろ強まると、地元の人々は考えている。
 「韓国軍は、この地域にかつてない災厄をもたらした。犠牲者は銃を持てない老人や女性、子供たちだ」と、フーイェン省のある当局者は言う。「私たちが望んでいるのは、物質的な補償ではない。それよりも共感と友好の姿勢を示してほしい。犠牲者が過去を忘れられるように」
 韓国軍のために流された罪なきベトナム人の血の量を考えれば、なんとささやかな要求だろう。


http://plaza.rakuten.co.jp/foot001/7007
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# by 699yabuhebi | 2006-12-23 14:18 | 近現代史

好太王碑の最古の拓本を発見

■好太王碑 最古の拓本発見 旧日本陸軍入手のものと一致

 古代日本の朝鮮半島進出を記録した好太王碑(中国吉林省)の最古の拓本が中国で発見され、倭(日本)との関係を示す記述が、旧日本陸軍が入手した拓本と一致することが、中国社会科学院の徐建新教授(日本古代史)の研究で分かった。
 これによって、1970年代以降論争が続いてきた、旧陸軍が碑文の内容を書き換えたとする「碑文改竄説」は成立しないことが確定的となった。

 好太王碑には、「391年以来、倭が海を渡って、百済や新羅を破り、臣民とした」とする記述がある。この碑文の拓本を、1883年に旧日本陸軍参謀本部の酒匂景信が入手。参謀本部が、4世紀に日本が朝鮮半島を支配していたと解読した。

 戦後になって酒匂の拓本の信頼性が疑われ、李進煕・和光大名誉教授が1972年、「近代日本の半島進出を正当化するため、都合のいいように旧陸軍が改変した」と主張。日本、中国、韓国、北朝鮮4か国の研究者の間で大論争となった。その後、改竄を否定する有力な説も出たが、実物の検証が困難な状況で、決着には至ってなかった。
 (続く) 東アジア各国に散在する約50種の拓本を実際に確認する作業を続けていた徐教授は一昨年、それまで最古とされていた酒匂の拓本より古い1881年作成の拓本を、北京のオークションで発見。酒匂拓本とともにパソコンに取り込んで比較したところ、意図的な書き換えの痕跡はないことが判明した。その成果は今年、『好太王碑拓本の研究』(東京堂出版)として発表された。

 徐教授は「これで、皇国史観からも、軍の関与を証明するための研究からも脱却し、好太王碑が4~5世紀の東アジア史を解明する純粋な歴史資料として位置づけられるだろう」と自らの研究の意義を強調した。

 ただ、碑文の解釈については、倭を打ち破った好太王の業績を誇張するために、倭を実際よりも強大な勢力として記述したとの説が強く、改竄が否定されても古代の日本が朝鮮半島を支配していたかどうかの問題を決着させることにはならない。吉村武彦・明治大教授(古代史)は、「拓本には信憑性があり、長年の論争に終止符が打たれたと言える。パソコンの画像で比較するという10年前には考えられなかった手法で、IT時代ならではの成果だ」と評価する。一方、李名誉教授は「拓本に付随する書き付けの記述を、製作年代の根拠にしているが、本物かどうか疑問が残る。まだ疑惑が払拭されたわけではない。」と反論している。

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 ソース:読売新聞2006/04/14 朝刊19面
 左は甘粕が手に入れたもので拓本(コピー)です。 右は徐教授が入手した原本をパソコンに取り込んで画像処理してあるからキレイに映っています。

 好太王碑には、「391年以来、倭が海を渡って、百済や新羅を破り、臣民とした」とする記述がある。
 これで4世紀に日本が朝鮮半島南部を支配していたとされる証拠が増えましたね。
 百済と新羅が倭国の属国だったと証明される日は近いかもしれません。
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# by 699yabuhebi | 2006-12-23 13:57 | 古代史