韓国との歴史認識の共有は可能かを探る
by 699yabuhebi
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【日韓歴史比較1727-1910】明治維新と朝鮮半島の産業革命(3)

 ところで朝鮮王朝は、1881年に旧式軍隊を旧来の五営より武衛営と壮禦営の2組に改組したが、それだけでは飽き足らず日本より顧問を呼び寄せて近代式の新式軍隊の編成を試みていた(*1)。しかしその間、従来の旧式軍隊の扱いがなおざりになり、給与不払いや差別待遇などが行われていた(*2)。これらに不満を持った旧式軍隊が大院君や斥邪派朋党の煽動もあって閔妃暗殺を狙って蜂起する(1882年「壬午軍乱(イモクルラン)」(*3))。この軍乱で大院君は一時的に政権を掌握する事に成功したが、閔妃は清の袁世凱に依頼して反乱軍の排除を強行する。その結果、閔氏一族は再び政権の座に返り咲き、大院君は清に連行される事になった(*4)。

*1 朝鮮王朝の近大軍隊創設の試み:これが本気だった証拠に、当時の宮廷予算の実に3割近くが当てられている。しかし所詮それは蟷螂の斧に過ぎなかったのである。詳しくは下記を御覧あれ。

【韓半島1885-1904】経済学的側面から見た朝鮮王朝
日(http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1753506)
韓(http://bbs.enjoyjapan.naver.com/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1753506)

*2 差別待遇:記録によれば、配給される米が腐っていたり砂を混ぜて大幅増量されたりしていたそうである。とてもではないが同朋にする事とは思えず「実は大院君や斥邪派朋党が流したデマだったのでは?」と考えてみたりする。インドにおける「セポイの反乱」も発端は「銃身の潤滑油に牛脂が使われているらしい」というデマだった。

*3 壬午軍乱:明治15年(1882年)7月20日に発生。蜂起した兵士は200余名だったが、これに暴民が加わり王宮への乱入時には2千名以上の勢力に膨れ上っていた。暴徒の群れは王と王子を生け捕りにし、閔氏一族を虐殺する。大院君はこの機を逃さず日本人の追放を図り、その結果派遣教官・堀本礼造工兵中尉をはじめ6人の日本人が殺害された。日本公使館も焼かれ、花房義質公使らは重囲を突破して仁川に逃れ、英国軍艦に収容されて辛うじて帰国した。花房公使からの報告を受けた日本政府は、黒田清隆の強硬論と山縣有朋の慎重論を拝聴した上で結局外交交渉を援護する為の少数派兵のみを許可する。それらの兵に護衛されて8月20日京城に戻った花房公使は、公式謝罪、損害賠償、犯人関係者の処罰など6か条を要求したが、再び実権を握った大院君はこれに対する回答を遅らせた。清国に求めた援兵の到着を待っていたからだが、一方、山中に逃れていた閔妃もまた密使を清国に送り救済保護を要請していた。当然、清国が選んだのは傀儡にするに相応しい程弱った閔妃の方であった。清国より陸兵と軍艦6隻が到着すると緊張が高まったが、清国軍が最初に着手したのは大院君の抑留と引退だった。8月30日日には「済物捕(さいもつほ)条約」が調印され、日本は謝罪賠償の他に公使館護衛の為の駐兵権も得たが、清国が朝鮮王朝体制を好きな様にいじくり回し、実質上の属国/傀儡国家に改変していくのは傍観せざるを得なかったのである。

*4 外国軍による内乱の鎮圧:インドがこれでやられた事を反面教師とし、日本列島では禁じ手とされて来た事を思い起こされたい。それにしても清国のやり方は壮絶である。イギリスはインド支配確立までに百年単位の時間を要したが、清国は政変の折を狙う事で僅か数日でそれを達成してしまった。その後の清国の支配体制がどういうものだったかについては「お願いですから気に入らないからといって身分を問わず人前で棒で叩くのだけはお止め下さい。配下に示しが付きません」という上告文が残されているという一事を挙げるだけで事足りるであろう。
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 壬午事変後も京城内では日本兵と清国兵の対峙は継続した。今や日本政府にとっての希望は開化党(*1)しか残っていなかったが、手を携えて大院君一派を追放して以降は『親清派』閔妃一族との溝は深まるばかりだった。1844年には甲申政変(*2)を仕掛けて失敗し、粛清の憂き目に会ってしまい、それ以降は清国の天下となる。日清両国が軍隊を引き上げた後、自国軍だけで治安を維持するのは到底不可能だった(*1)。飢饉の影響もあって国内で反乱が頻発する様になる(*2)。そんな最中に発生したのが1894年の甲午農民戦争(東学党の乱)であり、これが日清戦争に発展した。

*1 開化党:日本の明治維新の朝鮮への輸入を考える朋党派で、実学を学んだ中人層を主軸としていたが、そのままでは上申の手段がない為、金玉均や朴泳孝を擁立した。この図式は坂本竜馬が『大政奉還』を上申するに当たり元々所属した土佐藩の上士である後藤象二郎を取次役に仕立てていった過程と似ていて興味深いが、もしその通りだとしたら甲申政変に失敗して亡命し、単身になってからは殆ど政治的能力は喪失していた可能性が高い。

*2 甲申政変:開化党が国政改革を断行する為に、明治17年(1884年)12月4日 京城郵便局開設の祝宴に各国公使と政府高官が一堂に会した夜、開化党の洪英植、朴泳孝、徐広範、金玉均らが閔氏一族の高官閔泳翊を傷付けて王宮に迫り、翌12月5日に国王を擁して大政一新を布告し、王宮守備のため日本公使の竹添新一郎に援軍を要請した事件。竹添公使は100名余の兵を率いて王宮護衛に向かったが、閔氏一族は直ちに清国兵に救援を求め、これに呼応した袁世凱は清国兵2000をもって王宮に到着して攻撃を開始した。数が少なく非常な苦戦を強いられた上に国王にまで見限られた(密かに王宮を逃れ清国軍に投降)日本軍は在留邦人を含む40名を越す死者を出しながら京城を撤収し仁川に逃れた。日本政府は、朝鮮に対しては謝罪賠償を、清国に対しては国王を護衛していた日本兵を攻撃した罪を糾し、その結果明治18年1月9日には日朝間に「京城条約」が調印された。また伊藤博文らを天津におくって清国と談判し、4月18日には日清ともに朝鮮から撤兵すること、将来朝鮮に異変が起こり両国または一国が派兵を要するときは、相互事前通知を必要とする事を定めた「天津条約」を締結する。何とか海外への亡命に成功した金玉均であったが明治27年(1894年)3月27日、朝鮮政府の送り込んだ刺客洪鐘宇によって射殺され、遺体は朝清国軍艦咸靖号で本国朝鮮に運ばれ凌遅刑に処された(遺体はバラバラにされ、胴体は川に捨てられ、首は京畿道竹山、片手及片足は慶尚道、他の手足は咸鏡道に曝されている)。ちなみに犬養毅らの支援で東京の青山霊園の外人墓地に墓が建てられ、後に韓国政府の管理下に移されたが月額590円の管理料金を5年間滞納していたために撤去通告が東京都から出された事がある(中央日報 2005.05.23「改葬免じた東京の金玉均墓地」)。また2005年8月29日に韓国民族問題研究所、親日人名辞典編纂委員会によって「親日人名辞典に収録される予定者」に加えられ親日派(チニルパ)と認定された為、韓国人はもうこの人物が「愛国者」であった可能性を認めてはいけない事になっている。ところで、甲午農民戦争(東学党の乱)の蜂起が金玉均の遺体が凌遅刑に曝された翌月なのは果たして偶然なのだろうか?

*3 朝鮮軍の有名無実化:清国軍と日本軍の干渉と跋扈が原因とされているが、元々の財政規模が最大の原因である事は先に述べた。江戸幕府でさえ非常時には旗本の棒給を半分に削る等の非常措置により財政規模を三倍に拡大しているが、朝鮮王朝は一貫してそうい非常措置を取った形跡が見られない。

*4 反乱の頻発:軍隊が有名無実化したからそうなったのかもしれない。この辺りは正直言って勉強不足。

*5 甲午農民戦争(東学党の乱):1871年3月26日~5月28日までパリを支配したパリ・コミューンを超える期間維持された世界史的偉業であるが、ここで詳しく述べ出すとそれだけで紙面が尽きてしまうので、とりあえず他スレに振る。

【韓半島1894-1895】甲午農民戦争(東学党の乱)とは何か?
日(http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1754088)
韓(http://bbs.enjoyjapan.naver.com/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1754088)

 日本にも「加賀一向一揆(1488-1580年:その後もその所領は「治まらぬ地」と認定され、平定に参加した前田家が外様ながら100万石の単位のまま幕末まで統治を続けた)」という奇跡的に長く続いた農民一揆が歴史上存在しているが、それを支えたのは、高い知能を有し、かつ農民層と一体感を持った有識者層と綿密な連絡網であった。詳細はここでは述べないが、甲午農民戦争もまたそういう仕組みをもった反乱であった事は間違いない。この日清戦争の引金となった反乱は、日本軍と清軍に寄って集って叩かれ、40-50万人という莫大な人的被害を出して鎮圧される。しかし中核部はしっかりと生き延びて日本に留学生を送り(この1点だけ見ても愚鈍な貧民集団ではなかった事が知れる)、日本との対等併合を望む「一進会」を組織していく事になる(この流れは、当時朝鮮王朝側も日本側も完全には把握し切れてなかったと云う。組織的結束力が高くなければこうはいかない)。これはあくまで推測だが「一進会」の狙いは実は朝鮮半島における「廃藩置県」の断行だったのではなかろうか? ところが実際には1910年に韓国併合を達成した日本は「廃藩置県」どころか土地に対する重層的権利を排除しただけで原則として李氏朝鮮時代の土地制度をそのまま継承する道を選んだ。その結果、地方両班地主の多くがそのままの形で残される事になったのである。しかも武断統治を断行し「一進会」を解散に追い込むという暴挙に出た為、元会員の多くが心の底に鬱憤を溜め込む形となった。その鬱憤の少なくとも一部は1915年の5.1運動で発散されたものと考えられている。
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 以降も、政治的にはこの後も色々な事が起こっていきますが、経済問題はずっと放置されたままなので時間軸を日韓併合後期まで飛ばしましょう(「党派政治」が始まると韓国の政治は必ず踊ってばかりで前に進まなくなる)。ここから先は資料中心で進めます。
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# by 699yabuhebi | 2006-12-23 13:12 | 近現代史

【日韓歴史比較1727-1910】明治維新と朝鮮半島の産業革命(2)

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【韓半島1727-1945】では、『朝鮮半島』の近代化はいかに達成されたのか?
(参考:『ウィキペディア(Wikipedia)』、金両基『物語韓国史』、金台俊『朝鮮小説史』他)
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 宣祖の代に士林勢力が西人派と東人派に分離して朋党内紛が始まった(1575年)。それ以来、日本軍に蹂躙されても清軍に制圧されても(*1)踊りを踊るばかりでちっとも前に進まずにいた朝鮮半島がやっと我に返るのは18世紀中頃になってからだった。

(*1)清軍の制圧 「丁卯胡乱(まだ後金と名乗っていた1627年、3万の兵力で朝鮮に侵入して明の援軍を蹴散らし、一時は仁祖を江華島に追い込んだ。戦局が硬直化し、補給に難を抱える後金は講和を結んで撤収した)」と「丙子胡乱(清と国号を変更した金が、服従、朝貢、征明軍3万の編成を要求してきたのを拒んだ所、太宗(ホンタイジ)自ら率いる12万の軍勢に1636年制圧された事件。同年の和議で属国化され、1895年の下関条約締結締結まで服属状態が続く)」の2回に渡った。どの国も最初の攻撃の際は「予想を超えた国土の貧弱さ」故に攻めあぐねるものらしい。
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 英祖(ヨンジャ)王・正祖(ジウォンジャ)王時代(1727-1800)は「朝鮮王朝のルネサンス」と呼ばれる重要な時期である。壬辰倭乱に際し奴婢階層が一斉に日本側に走った反省から奴婢制改革(*1)が断行され、『実学(シラク)求是』の掛け声の下、非両班人士(ソンビ)層が育成された。彼らが漢文を嫌いハングルを好んだ為、漢文学の翻訳(『烈女伝』が翻訳され『忠君は二君に事(つか)えず、烈女は二夫に見(まみ)えず』という成句が定着する。考えてみれば『事大主義』を『長い物には巻かれろ』と翻案するには『大に事(つか)える』という読み方が出来なければならないのだが日本人でそれが自然に出来る層は限られている)を皮切に「軍記物(壬辰倭乱の記録として日本でも高く評価されている『壬辰録(イムジンノク)』は純然たるハングルで書かれた)」「パンソリ(朝鮮半島の伝統謡曲で『古本春香(チュンヒャン)伝』『沈青(シムチョォン)伝』が代表作)」「ペゴワン(高麗時代より継承された『稗官文学』。徐居正の『太平広記』が代表作)」等が文学化され、『洪吉童(ホングギルトング)伝(*2)』の様に最初ハングル文学(*3)として書かれ、それが漢文に翻訳されるという逆転現象まで起こった。一方両班階層も負けてはおらず朴趾源(『熱河日記』『燕厳外伝』等に多数の短編小説を寄稿しているが、不幸にも後世の腐儒層の介入により大半が削除されてしまった)等が出現している(*4)。こうした流れから生まれて来たのが後に甲申事変を起こした実学派官僚や東学党の乱(甲牛農民戦争)を指導した農村の非両班有識者層である。

*1 奴婢制改革 日本側歴史家の統一見解は「史料不足により、この段階で奴婢階層が撲滅されたかどうかは断言できない」。そのまま放置しておいて良いのか、韓国人?

*2 『洪吉童(ホングギルトング)伝』 後に日韓併合期に大流行する白丁出身の盗賊団の冒険を描いた傑作『林巨正』の原作として名高い。北ちんぽ朝鮮においては今日なお英雄詩視されている様だが、韓国においてはどうか?

*3 ハングル文学 私はこれくらいスラスラと挙げられない韓国人が「ハングルは世界に誇る優秀文字」と主張しても屁とも思わない。忘れちゃいけないのは「天皇制は日本の柱」「それが軍国主義と重ねられたのは僅か100年に過ぎない」とする日本人の『極右勢力(韓国人に言わせるとそうなるらしい)』が実はこういう話題が大好きだという事である。特に『古今和歌集』編纂により『漢字仮名混じり文』を普及させた宇多天皇は阿部次期首相も絶賛しているし、庶民の間に流行していた今様に凝って『不良天皇』の烙印を押された後白河法皇にもそれに準じる地位が与えられている。その上であえて言うが『春香伝』で暗行御史(アメンオサ)が正体を現すと悪徳両班が糞小便を漏らすのはあまりに下品過ぎやしないか? 日本においても遊女が操を守りぬく『助六』という歌舞伎があるが、その中の悪役(大名に擬せられているが、その扮装は何故か悪徳公家に近い)は饂飩を頭から被せられたり、顔面を下駄で踏んづけれれたりする程度で勘弁されている。

*4 朴趾源 朝鮮半島の将来を本気で憂い、晩年『課農小抄』の上申により正祖から認められ、中国人知識層にまで高い評価を得ていたこの人物の著作の大半を、自らが領議政の高官の立場にあった為に抹殺した孫の珪寿を韓国人は愛国者の立場から本気で弾劾すべきである。朴趾源の人柄については、不遇の半生の末に44歳にしてやっと母衣の学者として北京に赴任する事を許された折に読んだ「熱河途中詩」の中にも現れている。

 書生白首入皇京 白髪の書生が王都に入場したとさ。
 服着依然一老兵 着衣ときたら古びた軍服が一張羅。
 又向熱河騎馬去 騎乗したままその足で熱河に向かったとさ。
 真如貧士就功名 『貧士の大出世』なんて所詮そんなもの。
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 しかし実際に天下を支配していたのはまさに腐儒の類であり、腐儒に相応しい因循姑息な手段で反体制派を粛清していった(*1)。英祖・正祖時代に確立した「世道(セド)政治(士林派が唱えた政治理念「政治は広く社会を教化し、世の中を正しく治める道理である」に基づく。形態としては国王より信任を得た人物が中心となって人材を登用し、政治を行う形態)」(*1)は既に次代の重純祖(スンジョ)王の代には案東(アントン)金氏の手により、王の縁戚者が官職を独占する「勢道(セド)政治」へと堕し、閔妃(ミンピ:高宗李煕皇帝の皇后。1851-1895)の代に頂点を極める事になる(*3)。書院(*4)を起点として朋党政争が復活した事も混乱に拍車を掛けた。

*1 反体制派粛清:日本においても「寛政の改革」「天保の改革」といった同様の意図があったが、幸い両方とも挫折している。ちなみに最近の研究で寛政の改革の最終目的は「北海道の直轄領化」だった事が判明しているが、もし成功していたら無用にロシア帝国を刺激し日本が属国化されていた可能性が高いと言う。その場合には「日清戦争」は事実上「露清戦争」となり、「日露戦争」の代わりに実質上「露英戦争」と呼ばれる戦いが繰り広げられていたに違いない。その場合には日本やロシアの家庭に洪濁(ホンタク。韓国国内でも全羅南道の港町木浦の住民しか食べない郷土料理)が普及していた可能性も捨てきれない。

*2 世道政治:良く考えてみるとこれは太政官制明治政府そのものである。そう考えると朝鮮半島の政体も馬鹿にしたものではない。ただし「韓民族の方が先」と主張する事は許されない。日本においては10世紀において既に菅原道真を大抜擢し後に紀貫之を重用した宇多天皇が施行し大成果を挙げているからである。

*3 閔妃 縁戚者だけで国家要職のうち千人を占めていたといわれ、1895年、日本人大陸浪人らの襲撃により惨殺された後も我欲に任せた影響力を発揮し続け、日韓併合までその影響力が排除される事はなかった。ちなみ日本人として一応念を押しておくが、関妃暗殺事件への三浦梧楼公使の関与は証明されてない。赴任時期から見ても何らかの形で関与していた可能性が高く、国際世論もそう見たが状況証拠はあくまで状況証拠である。このあたりの表現に気をつけないと「捏造国家韓国」の汚名を挽回するばかりなので気を付ける様に。

*4 書院:朱子学の先賢を祀り地方士族の子弟教育と経書収集と文集出版を担う拠点だが、安東金氏の残党や地方反政府勢力が両班儒生を巻き込んで朋党化し、政争の原因となっていく。
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 そういう状況であった事に加え、僅か12歳で即位した高宗李煕大王に代わって当時摂政として権力を握っていた大院君(*1)がガチガチの保守主義者で攘夷論者であった為、明治維新を迎えた日本が対馬藩主宋義達を介して明治元年(1868年)12月に王政復古の通告を送った折に書状の受け取りさえ拒絶し、釜山の倭学訓導安東鑭らにより『天皇』を主体とする国体と近代的交友関係を拒絶したばかりかあくまで「洋夷」と化した日本国に対する朝鮮王朝の優位を説き「日本国王(伝統的に幕府将軍がが用いてきた称号)の復活」と「従来の中華秩序に基づく冊封関係の維持」を希望する返信がなされたのも無理のない話であった。実際、朝鮮王朝はそれまでに現れた外国船の全てを打ち払う事に成功しており、それによって自身を強めてもいたのである(*2)。

*1 大院君:国内政治においては安東金氏の要人を追放して勢道政治を打破し、党派門閥を問わず人材を登用し、汚職官僚を厳しく処罰するなどして政治改革に努めた。また税制を改革し、両班にも税を課す事とし、平民の税負担を軽くするなどして大いに評価された(しかし両班階層からは恨まれた事だと思う)。ただし対外的には「丙寅洋擾事件(「天主教(キリスト教)教徒は『夷狄』以下の『禽獣(とり・けもの)』という信念に基づき外国人宣教師10名を処刑した事件(丙寅教獄)への報復を口実に1866年10月にフランス軍艦7隻1500名が来航して江華府を40日間占領し、宝物・史庫図書などを略奪した上で宣教師殺害に対する賠償、責任者処罰、通商条約締結など要求した事件。大院君は要求を拒絶し、江華府は結局義兵の活躍により奪還された)」「辛未洋擾事件(1866年、大砲2門を装備した米武装商船ゼネラル=シャーマン号が、交易を求めて大同江に侵入。退去要求を無視して発砲により人民を殺傷し、略奪と暴行を繰り返したしながら平壌をめざして遡行していった.結局浅瀬で座礁し、平安監司朴珪寿らに焼き討ちされて乗組員20余名が全員死亡したが、その件への謝罪と通商を求めて1867年アメリカ軍艦5隻が江華島海域に出現した事件。アメリカ海軍は無理押しせず撤退したが、朝鮮王朝側はそれを『圧倒的勝利』と判断した)」等で世界史上で悪名を残す。

 ところで『ゼネラル=シャーマン号撃退記念祭』なんぞを執り行うと世界中がその事を思い出すのを韓国人は忘れるべきではない。『過去を繰り返さない事を戦没者に誓う行為』とも解釈可能な靖国神社参拝とはリスクの比が違うのである。

*2 外航船打ち払い 日本に開国を決意させたペリー艦隊は後に太平洋艦隊旗艦に就任する最新鋭巨大戦艦サスケハナ号を中心とする大艦隊であったが、朝鮮半島に派遣されたのはそれより陣容の劣る巡洋艦以下の小艦隊ばかりであった。また、列強諸国全体に本気で挙国一致での反撃が開始される事を恐れる空気があり、「薩英戦争」や「下関戦争」等の限定的状況以外では武力行使が極力慎まれた。呉善花女史は『日韓併合の真実』の中で「朝鮮半島は最初から戦略的拠点として重視されていなかったので開国に向けての列強の努力も御座なりだった。その『御座なりな開国努力』を撃退し『朝鮮王朝の軍隊は日本軍の百倍以上強い』と悦に入っていたのである」という様な内容を歯軋りが聞こえてくる様な文体で憎悪を込めて書き綴っている。確かに以下に述べる江華島事件が起こる前の段階で列強のどれかに対して開国していれば、朝鮮半島の未来は大幅に変わっていただろう。ただし「良い方向に」変わったかどうかは保障の限りではない。
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 さらに攘夷政策を強化しようとする大院君に対して王宮に入った閔妃の一族や大臣達が1866年頃から下野運動を開始し、1873年には宮中クーデターを起こして成功を治めた。大院君は追放され、高宗の親政が宣言されるが政体としては閔妃の一族である閔氏が政治の要職を占める勢道政治へと逆戻りしていった。これ以後、大院君は政治復帰のためにあらゆる運動を行う事になり、朝廷を混乱させ続けた(*1)。

*1 朝廷の混乱:実はかつて中央日報自由掲示板日本語版(2006年9月段階で閉鎖中)においてある人物(雰囲気からいって北の回し者と推測される)よりこんな指摘をされた事がある「日本の天皇制に正義はない。なぜなら明治天皇を傀儡として立てる為に前代の孝明天皇を岩倉具視が暗殺しているからである。それに比べて朝鮮王朝は(この人は絶対に『韓半島』とか『韓民族』という表現は使わなかった)大院君さえ暗殺しなかった。この差は大きい」。確かに「状況的に見て稀代の攘夷主義者だった孝明天皇の死んだタイミングは倒幕勢力にとって都合が良すぎる」と考える日本人も決して少なくはないのだが、暗殺が遂行された証拠がない限りそれを暗殺とは公式には認めないのが日本人の思考様式である。また例えそれが事実であったとしても「状況から見てそれは止むを得ない事だった」と考える日本人もいないではない(だからこの方面から攻撃するのだけは止してね。本気の喧嘩に発展するから)。それよりここで問題としたいのは「大院君が然るべきタイミングで暗殺されなかった事こそ朝鮮王朝の美徳だった」とも取り得る彼の主張である。彼の主張の背後には常に「朝鮮王朝こそ朝鮮ちんぽ人の正当な起源であり」「その正当な継承者こそ北ちんぽ朝鮮であり」「韓民族は既にその運命(バルチェ)を受け入れ終わっている」「だから日本人ごときが口を挟むな」という本心が感じられた。これについて一般的韓国人はどう思うのだろうか? 「大院君は然るべきタイミングで暗殺されるべきだった」とは一瞬たりとも考えないものなのだろうか?
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 明治8年(1876年)、23歳になった朝鮮国王高宗李煕大王は、名目上自ら国政をみる立場となる。生父大院君の影響力が排除された結果、攘夷政策は放棄されるに至るが、同年江華島事件が突発して翌年江華島条約(*1)が突発的に結ばれる事となる。素直に開国に応じたのは清国より、台湾出兵(*2)に引き続き日本が朝鮮出兵(*3)を準備しているとの情報が入ったせいとも言われているが、1882年5月に朝米修好通商条約が締結されて以降は西洋への門戸開放が済し崩し的に進行していく(*4)。その一方では国内における「開化派(開国と近代化を推し進める勢力)」と「斥邪派(鎖国・攘夷を訴える)」の朋党争いが次第に深刻さを増していった。

*1 江華島条約(日朝修好条規):明治8年(1876年)5月20日、軍艦「雲揚」(艦長井上良馨少佐)が朝鮮近海の水路を測量中、江華島砲台の朝鮮兵より砲撃を受ける。「雲揚」は断固応戦して砲台を占領し、永宗城を焼いて朝鮮兵30余名を倒し火砲38門他を鹵獲して帰投した(日本軍側は水兵1名が戦死し2名が負傷)。翌明治9年(1877年)1月には参議陸軍中将黒田清隆が特命全権として朝鮮に派遣され、交渉を重ねた結果2月27日に朝鮮政府は罪を謝し、日本の要求を容れて65年前の文化8年(1811)以来断絶していた修好の復活を宣言した江華島条約12条を結んだのである。この条約の骨子は、朝鮮が独立自主の国家であることを確認した事にあったが清国は朝鮮は属国であると主張し、日本・朝鮮両国間の条約を破棄する様に要求してきた。日本はあくまで破棄を拒み続け、この問題が結局、日清戦争の遠因の一つとなる。

*2 台湾出兵:明治4年11月に琉球民69名が台湾南端地方に漂着し、そのうち54名が生蕃(土民)が虐殺される事件が起こる。生存者のうち3名は逃走中に溺死し、辛うじて生還を果たしたのは僅か12名であった。また明治6年3月には備中・岡山の民4名が台湾東南岸に漂着して略奪される事件も起こった。これに関して政府が外務卿副島種臣を清国に派遣し談判させた所、清国は「台湾は清国領ではない。従ってその住民も化外の民であり関知するところではない、。自国民の仇は自国で打てば良かろう」と抗議に応じなかったので琉球国が昔から日本の版図であった事が外交的に確定し、明治7年4月4日日には台湾蕃地事務都督に任じられた陸軍中将西郷従道が陸軍少将谷干城、海軍少将赤松則良以下3,658名の出征軍を率いて台湾に向かった。酷熱と病魔と戦いつつ生蕃の本拠を衝いて敵を降し、戦死者12名、戦傷17名、病死者531名という微小の損害で台湾全島を平定すると清国は日本の出兵への非難を開始したが、英仏の調停によって清国は日本の出兵を義挙と認め、日本は台湾領有の意図が存在しない証として12月下旬には全軍を撤収して帝都東京に凱旋した。

*3 朝鮮出兵:当時の日本の状況を見る限り到底不可能なのだが、思わぬ所で思わぬブラフか利いたものである。朝鮮王朝も清国も完全な外交オンチなのにお互いを妙に信頼し合っているからこういう罠に落ちる。

*4 西洋への門戸開放:1882年5月に朝米修好通商条約(これ以降協定関税制に移行)、1882年8月に済物浦条約(壬午事変による損害賠償)/日朝修好条規続約(日本人商人の活動範囲を拡大し開港場より50里以内と定めたる。2年後に100里以内に拡大)、1882年9月に朝清商民水陸貿易章程(この時点で初めて朝鮮王朝が清国の属国である事が明文化される)、1883年11月には朝英・朝独修好通商条約(清日西洋列強が朝鮮に対する政治的・経済的侵略を相互保証する形がここに完成する)、1884年6月に朝伊修好通商条約、1884年7月に朝露修好通商条約、1886年6月に朝仏修好通商条約。
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# by 699yabuhebi | 2006-12-23 13:11 | 近現代史

【日韓歴史比較1727-1910】明治維新と朝鮮半島の産業革命(1)

内容が内容なのでながくなってしまいます。
(「全文精読した上での反駁しか許さない」これが日本式「声討」です。中国人も使うテクニックですから『東北工程』を論破する上で避けて通れません)。まずは以下の引用から。
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「韓国の歴史教科書」における「東洋の近代 」
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 西洋の近代化は、相対的に東洋の社会への脅威を与えた。産業革命が広がり資本主義が発達するとすぐに、国力を増強させた西洋列強は、後進地域への進出をはかった。

 これに対して、当時反映を誇っていた清をはじめとするアジアの伝統王朝は、内部の財弱せいによって次第に衰弱して、新しい状況に能動的に対処することができなかった。

 西洋列強のアジア侵略は、前例のない脅威的なもので、アジアの大部分の地域を植民地または半植民地にして、原料の供給地と商品の市場として確保しようとするものであった。このような列強の挑戦に直面したアジアの国ぐには、自らの国を守るための民族運動とともに、改革をとおして自強を達成しようとする開化運動を推進した。中国での太平天国運動と洋務運動、日本での明治維新、インドでのセポイ抗争とスワラージ運動などはそのような動きであった。

 アジアの国ぐには、自ら国を守るための民族運動を粘り強く展開したにもかかわらず、協力な武力をもった西洋列強についに服属させられ、大部分植民地に転落した。ただし、日本だけは西洋列強といちはやく妥協し積極的な近代化政策を推し進めた結果、帝国主義列強の列に並ぶようになった。アジアの国々は植民地に転落しながらも、近代的制度の導入と産業化を進めていった。しかしそれは真の近代化の道ではなく、植民地体制への編入過程であったために、東洋の近代化は様々な面において問題をかかえることになった。
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 この調子では、歴史をもう一度生き直す機会を与えられても再び「悲しいアジア人」として人生を送る事になりそうです。もっとも、ここで言う「悲しいアジア人」とは独立運動で多量の血を流す事もなく工業立国化に成功した「日本」「韓国」「台湾」は仲間に入れていません。かように突っ込み所満載ですが、とりあえず、

 日本での明治維新を中国での太平天国運動や洋務運動、インドのセポイ抗争とスワラージ運動と一緒にしてはいけない。比べる単位が違う。
 「アジアの国々は植民地に転落しながらも、近代的制度の導入と産業化を進めていった。しかしそれは真の近代化の道ではなく、植民地体制への編入過程であったために、東洋の近代化は様々な面において問題をかかえることになった。」もしかして、韓国もその仲間といいたいの? そもそも「真の近代化」とは何なのか未だに気付いてないんじゃないの?
 教育の目標の一つに「勤労意識の育成」があると思うけど、こんな歴史観で勤労意識が湧くと思う? よく考えてみて欲しい。韓国が最も成功しつつあった『漢江の奇跡』の時代、どうして国民が皆あんなにも一生懸命働けたのか。
 この3点だけ指摘して先に進む事にします。
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【日本列島1770-1885】では、『明治維新』とは何だったか?
(参考:『ウィキペディア(Wikipedia)』他)
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 元々江戸幕府は全住民の戸籍を寺が管理し、農民と町人の自治を大幅に認めて上意は全て文書で下達するシステムであったので大幅に識字率が向上し、武士町人を問わず広い範囲で有識者の文化ネットワークが構築されていた。またそれとは別に江戸城を舞台とする宮廷政治は大名間の巨大な裏情報網を成立させていた。そして貿易利益の独占を図らんとする江戸幕府に対して西国諸国は密かに密輸を通じて国力を蓄えつつあった。

 だから開国(*1)と同時に「以降も貿易利益独占を図ろうとする幕府」と「これを契機に貿易自由化を図りたい西国雄藩」の利権が鋭く対立する事になる一方で、唯一の交易先であるオランダからかねてより英国によるアジア侵食の過程について情報を仕入れていた(*2)水戸藩徳川烈公辺りが提唱を始めた「尊王攘夷」運動(*3)が「唐心は空心」を標榜する国学普及の影響もあって世論にバックドラフト効果を引き起こす事になったのである。

*1 開国 浦賀に渡航してきて開国を迫ったペリー提督の売り文句は「間もなくやってくる英国に対して初めて股を開くと大変な目に遭います。今のうちに処女を捨てておいてはどうですか。悪い様にはしません」。しかしいざ列強の脅威が間近に迫った時、南北戦争が始まった米国の庇護は全く得られず、次に現れた時には内戦終結により余った火器を売るに来る武器商人と化していた。日本人が「日本はアメリカの属国ではない」と主張する時、それはそういうアメリカの不実な側面を承知済みであり、それを責めないだけの分別と逃がさない様にする手管を有しており、万一距離を置かれた場合の備えも十分出来ている事を意味している。本当はアメリカの五十何番目かの州にしてくれた方が楽かもしれないが、頼んでもそうしてくれないのがアメリカという国なのである。しかし良く考えてみれば既にオランダと交易関係があり、その衰退を別ルートで確認済みであった江戸幕府は、本当の意味でアメリカに「処女を捧げた」訳ではない。しかしその辺りは別に「ケナンチヨ」でいいのだ。アジアの乙女は強くあらねばならぬ。とはいえ乙女同士の関係は案外赤裸々なので「朝鮮半島は日本に処女を捧げた」「だから扶養義務がある」と主張しても通用しない。

*2 アジア侵食の過程:これはあくまで推測だが「オランダより仕入れた情報により攘夷運動の高まりが外夷に対する政治カードとして通用する」とする水戸烈公や佐久間象の発言の背景には第一次アフガニスタン戦争における英国の敗北があったのかもしれない。少なくとも「幕藩体制間における内戦や徴税権の行使に外夷の介入を許さば確実に国政を乗っ取られる」という発言の背景に当時のインド情勢に関する情報があった事までは定説になりつつある。ただしもちろん、そこまでの情報に触れられたのはごく一部の情報通に過なかった。その証拠に井伊直弼や小栗忠順等は「アメリカに出し抜かれて日本領有の機会を逃したイギリス」をさらに出し抜いて「ナポレオン時代の栄光の復活」を夢見ていたフランスと提携して反駁勢力を駆逐する計画を立ている(どちらも惨殺される羽目に陥ったには本当に偶然?)。もし計画通りいっていたら「日清戦争」が「清仏戦争」と同時期に遂行されて朝鮮半島も日本列島と同様にフランスの属国となり、「日露戦争」が実質「仏露戦争」となって巨大な「フランス属領府」が形成されていたであろう。フランス植民地では住民にそれなりの教育が施されるのが常だから結構歴史に名前を残す様な人物が輩出されていたかもしれない。フランス人の食生活の中にアフリカ人の常食「クスクス」が定着した様に「エスカルゴのキムチ漬」が家庭料理として受容されていたかもしれない。

 余談だが日本における渡来人の定義は以外と幅広く、7-9世紀においてはインド・ペルシャ系民族まで含んでいる。それどころか弥生時代の遺跡からトルコ産ラピスラズリが発見されたり、古代ユダヤ様式を思わせる遺跡をイスラエル政府が秘密裏に調査していたり(どちらかというと日本人はそれを古代シュメル文明の伝播痕跡と考える方が好きなのだが、国際親善は愛国心に優先する)、日本の神社に欠かせない狛犬のペルシャ起源説を唱える学説があったりと、それ以前からの交流の証拠まで発見されている位だから、これは何の不思議もない事である(実際に交流があったのは古代新羅であり、それを日本に齎したのは古代新羅人であるとする説もあるが証明までは至ってない。頑張れ韓国)。例えば記紀の孝徳・斉明紀には都貨羅人と舎衛人の行動記載が4回連続で掲載され、『続紀』や『新撰姓氏録』にも多くの記載がある。都貨羅人はアフガニスタンの都貨羅国(もしくはタイメコン川流域吐火羅国)出身者、舎衛人はガンジス川流域の舎衛国出身者を指すもの推測され、仏教や西域文化を日本にもたらしたものと考えられる日本史上も重要な存在なのである。そう考えてみれば、工事現場で働いたり駅前で『麻薬モドキ』を売っているイラン人もまた十分に『現代の渡来人』を名乗る資格を有している。

*3 「尊王攘夷」運動 実際には幕末期に日本人の襲撃によって死亡した外国人の人数は全部で20人にも満たず、しかもその大半が「横暴な外国人の仕打ちへの町人の止むを得ない反撃」であって、反撃した町人の多くがその場で責任を取って自害している。扇動によって庶民が虐殺を動く事がないのが大陸の攘夷運動と違う所である。
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 1867年、欧米列強が間近に迫る国難は全国3000万石のうち800万石を掌握するに過ぎない幕府主導では乗り切れないと悟った15代将軍徳川慶喜は「大政奉還」を受理して朝廷に政権を返還する。これを受けて朝廷は同年「王政復古の大号令」を発布し、これにより「明治政府(太政官制)」が成立する。この瞬間の財源はゼロだった。

 まず国家規模の約1/4を占める徳川家領を接収(*1)した明治政府だが、それに続く旧幕臣との戦いである戊辰戦争の戦費が嵩み発足直後から財政難に苦しんだ。軍事的見地から言っても諸藩を敵に回す事は不可能で、旧大名による地方統治をそのまま残さざる得なかった。もしその中から旧幕勢力と手を結ぶ者が現れたり、列強諸国と勝手に取引して領土を割譲する者が現れたら大変な事になっていた筈である。明治政府は諸藩に対する改革の指令を布告し、財政状態の報告と役職や制度の統一を行い、四民平等の大義名分に従って大名、武士階級を廃止して華族、士族を創設した。江戸時代の幕藩体制において諸藩の家臣は藩主が家臣に対して俸禄を世襲で与える事で養われていたが、この段階で俸禄は「家禄」に名称を統一される。

*1 徳川家領の接収:徳川家は同様の措置を前政権を降りた豊臣家に対して遂行しており、今日なお同情の声は比較的少ない。日本人の「和の精神」の裏側にはそういう「情けは人のためならず」という現実感が潜んでいる。
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 1869年には大久保利通、木戸孝允(桂小五郎)らの主導で全国266人の藩主(*1)が明治政府に公式に移籍する版籍奉還が遂行され、禄制は大蔵省の管轄下に入り家禄は政府から支給される形となった。そして1870年には公家に対する禄制改革が実施され、1871年には藩主の封土全てを明治政府直轄地とする「廃藩置県(*2)」が強行された。同年には禄高人別帳が作成されて多元的であった家禄の支給体系の一律化が進んでいくが、問題はまだ山積みのままであった(*3)。

*1 全国266人の藩主:ちなみに総大名家266家のうち65パーセントは5万石以下だった。外様大名は全体の36.84%に過ぎなかったものの大領の持ち主が多かったが、上位3大名(前田家102万石、島津家72万石、伊達家62万石)を合計しても230万石強にしかならず、徳川家がいかに強大な存在だったかが偲ばれる。その徳川宗家は約300万石を旗本に知行地として与え、残りを直轄領として勘定奉行直下の40人から50人の代官で運営していた。これ以外に貿易収入や全国鉱山からの収益があったので諸大名から拠出米金を取らずとも自活出来ていた次第である。

*2 廃藩置県:諸外国より「確実に諸藩の反乱を誘発する」と懸念されていたが、全くそれらしい動きが起こらず「世界史上の奇跡」といわれている(ちなみに倒幕の主軸を担った薩摩藩の藩主島津久光は「してやられたわ」と悔しがり急遽大花火大会を開催して愛さを晴らしたという。さらに「じゃ県令にして」と駄々をこねるので明治天皇自らが薩摩まで説得に向かっている。『抵抗』といってもその程度のものであった)。この理由としては西洋と違い財産権を貴族の生得権と考える習慣がなく、戦国時代より始まった徴税権と税収権を分離する考え方が全国に徹底していた事、当時既に多くの藩が破産状態にあり、再建の見通しも立っていなかった為、概ね「人道的措置」と解釈された事などが挙げられているが、西洋からの知識が流入するにつれ「非常識であった」とする意見が国内でも広がった結果、結局日韓併合後の朝鮮半島においての実施は見送られる事になる。

*3 問題はまだ山積み:この段階では維新功労者に対する賞典禄の支給が74万5750石、20万3376両に達し、華士族に対する家禄支給が歳出の30パーセント以上に及んでいた。さらに各藩より継承した借金の累計が膨大な額に及び、財政を圧迫した。また武士階級の身分的特権意識が軍制改革における弊害として急速に浮上しつつあった。
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 1871年10月からは幕末に諸外国と結ばれた不平等条約改正を目的とする岩倉使節団が海外に派遣され、国内行政は留守政府に一任された。禄制改革は大蔵卿大久保利通に代わり次官大輔の井上馨が担当し、租税の金納化を骨子とする地租改正と平行して急進的な改革の提言に至ったが使節団の岩倉具視や木戸孝允らは難色を示して審議は打ち切られた。禄制改革をはじめとする留守政府の政策に対しては国内にも反対意見が存在して農民一揆などが頻発していたし、朝鮮出兵を骨子とする征韓論(*1)を掲げる西郷隆盛参議を筆頭とする旧薩摩藩士の暴発に対する懐柔策としても家禄制度維持は必須との見方が強かった。その一方では1873年1月より徴兵制が施行され家禄支給の根拠が消失してしまう。

*1 征韓論:明治政府は対馬藩主宋義達を介して明治元年(1868年)12月に王政復古の通告を送ったが釜山の倭学訓導安東鑭らは『天皇』を主体とする国体と近代的交友関係を拒絶したばかりかあくまで「洋夷」と化した日本国に対する朝鮮王朝の優位を説き「日本国王(伝統的に幕府将軍がが用いてきた称号)の復活」と「従来の中華秩序に基づく冊封関係の維持」を希望して日本国内の世論を激昂させた。この時点においては革命経験者として「朝鮮半島にも革命が必要である」という発想があるばかりで朝鮮隷属化の意図は見られない。政府としても半島問題より北方蝦夷地における対ロシア問題と不平等条約改正の方が国策として重要課題であった。
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 同年使節団が帰国すると参議西郷隆盛、司法卿江藤新平らが下野して大久保利通政権が確立した(明治六年の政変)。11月には禄制改革の協議が再開され過渡的措置として、家禄に対する税を賦課する家禄税の創設や、大隈重信提案による家禄奉還制が討議される。岩倉や伊藤博文が慎重論を唱え、木戸らが反対する中、12月の再討議を経て太政官布告が発布された。士族の理解を得る為に家禄の等級に応じて家禄税を付し軍事資金として利用する事とし、さらに任意で家禄を返上したものに対しては事業や帰農などの就業資金を与える事で士族を実業に就かせ様とした事に特徴があるが、禄税使途の不透明化、地域格差を無視しての一律施行による悪弊の出現、就業に失敗した士族の不満鬱積等の問題が新たに出現してくる。そんな中で行われた1974年の台湾出兵(*1)は明らかに特に激昂の度合いを強めつつあった薩摩士族の憤懣のガス抜きという色合いを明らかに有していた。

*1:台湾出兵:明治4年11月に琉球民69名が台湾南端地方に漂着し、そのうち54名が生蕃(土民)が虐殺される事件が起こる。生存者のうち3名は逃走中に溺死し、辛うじて生還を果たしたのは僅か12名であった。また明治6年3月には備中・岡山の民4名が台湾東南岸に漂着して略奪される事件も起こった。これに関して政府が外務卿副島種臣を清国に派遣し談判させた所、清国は「台湾は清国領ではない。従ってその住民も化外の民であり関知するところではない、。自国民の仇は自国で打てば良かろう」と抗議に応じなかったので琉球国が昔から日本の版図であった事が外交的に確定し、明治7年4月4日日には台湾蕃地事務都督に任じられた陸軍中将西郷従道が陸軍少将谷干城、海軍少将赤松則良以下3,658名の出征軍を率いて台湾に向かった。酷熱と病魔と戦いつつ生蕃の本拠を衝いて敵を降し、戦死者12名、戦傷17名、病死者531名という微小の損害で台湾全島を平定すると清国は日本の出兵への非難を開始したが、英仏の調停によって清国は日本の出兵を義挙と認め、日本は台湾領有の意図が存在しない証として12月下旬には全軍を撤収して帝都東京に凱旋した。
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 地租改正による農民の納税が金納化され、それに伴い家禄支給を石代として金禄で支給する府県が出現すると米価の変動による混乱もあって不満に拍車が掛かった。1873年に家禄整理の為に秩禄奉還の制を定めた明治政府は秩禄を奉還するものに対して金禄公債を発行して禄高に対して公債を付与する政策を行い、第15国立銀行の資本金とした。秩禄は段階的に廃止されていき、1875年9月の金禄化に引き続き1876年の金禄公債証書発行条例により遂に全面的廃止となった。後世の歴史家の間ではこれを「士族反乱(*1)の主要要因」と考える向きがあるが士族反乱に参加した士族の大半は既に金禄公債証書発行以前から政府を批判しており、また決起の趣旨に秩禄処分が挙げられているケースが少ない事は見逃せない事実である。その一方では士族の救済政策として士族授産が行われ、屯田兵制度による北海道開発が実施されたり、没落士族が1676年における江華島条約(*2)を契機に始まった日朝貿易に大挙して参加していく様な事態も起こっていった。

*1 士族反乱:1874年には「佐賀の乱(江藤が故郷の佐賀県で擁立された反乱)」、1876年には「神風連の乱((明治9に熊本県で発生))」「秋月の乱(神風連の乱に呼応して福岡県で秋月藩士が蜂起)」「萩の乱(山口県で前原一誠らによるなどが10月に蜂起)」して、それぞれ鎮圧されている。1877年には鹿児島県で私学校生徒ら薩摩士族が西郷を擁立して西南戦争を起こしたがこれも士族側の敗戦に終わった。以降、不平士族の反対運動は国会開設や憲法制定を要求する自由民権運動に移行していく。

*2 江華島条約(日朝修好条規):明治8年(1876年)5月20日、軍艦「雲揚」(艦長井上良馨少佐)が朝鮮近海の水路を測量中、江華島砲台の朝鮮兵より砲撃を受ける。「雲揚」は断固応戦して砲台を占領し、永宗城を焼いて朝鮮兵30余名を倒して火砲38門他を鹵獲して帰投した(日本軍側は水兵1名が戦死し2名が負傷)。翌明治9年(1877年)1月には参議陸軍中将黒田清隆が特命全権として朝鮮に派遣され、交渉を重ねた結果2月27日に朝鮮政府は罪を謝し、日本の要求を容れて65年前の文化8年(1811)以来断絶していた修好の復活を宣言した江華島条約12条を結んだのである。この条約の骨子は、朝鮮が独立自主の国家であることを確認した事にあったが清国は朝鮮は属国であると主張し、日本・朝鮮両国間の条約を破棄する様に要求してきた。日本はこれを拒否したが、何らの解決を見ないで時間が経過していき、その事が日清戦争の遠因の一つとなる。
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 最後の内戦であった西南戦争(*1)の軍事費は4100万円にのぼり、明治政府は当時の税収4800万円のほとんどを使い果たす羽目に陥った。政府が戦費調達のため不換紙幣を乱発した為インフレが発生し、消費者の生計を圧迫した。その後松方デフレ(*2)の影響で当時の国民のほとんどを占めた農民の小作人化が進む(小作農率の全国平均がこの時期より38%から47%に増大)。この結果、手放された土地を買収する事により大地主が出現する一方で供給過剰となった小作人手当ての引き下げが発生し、あまりの境遇に耐え切れなくなった困窮の一部は都市に流入して財閥層(官営企業の払い下げにより発生)が経営する工場で低賃金労働に従事する様になった。

*1 西南戦争:これまで見てきた経緯から推察される通り史上初の「士族」対「鎮台兵(徴募兵)」の戦いだった。ハリウッド映画「ラストサムライ」の題材とされた戦争だが、現実の「サムライ」の強さはあんなものではなかった。なにしろ旧薩摩藩士が身に着けていた薬丸自顕流は斬り付ける相手の肉体を確実に両断する威力を有しており、肉弾戦の可能な圏内に入ると農民上がりの徴募兵は大根の様に撫斬(なでぎり、皆殺し)にされない為、素早く逃げ散るしかなかったという。それに対抗し得たのは戊辰戦争で明治政府を敵に回した旧会津藩士らを中心とする警視抜刀隊の活躍があったからであった。

*2 松方デフレ:欧米列強に並ぶ近代国家樹立の為、大蔵卿松方正義が行った増税・官営企業の払い下げ・通貨整理、兌換紙幣の発行の結果発生したデフレの事。
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 そういう流れを踏まえ、明治14年(1881年)、福沢諭吉が金玉均との交友等の経験に基づき以下の内容の「アジア改造論」を発表する。

 欧米列強の東アジア進出は何としても阻止すべきである。
 それには日本と清国と朝鮮の提携が必須である。
 その実現の為、日本が先頭に立って清国・朝鮮の近代化を図ろう。
 ところが明治15年(1882年)の壬午事変と明治17年(1884年)の甲申事変により、朝鮮は清国との提携を進め親日派を一掃してしまった。その為、以降は親日派政権樹立など望むべくもなくなり、以降「軍事力で清国を圧倒した上で朝鮮半島を日本の影響下に置く以外朝鮮開放の道はない」とする声の方が多数を占めていく事になる。その変化を受けて福沢諭吉は明治18年(1885年)3月、以下の内容の『脱亜論』を『時事新報』の社説に掲載する。

 日本の進出を妨害しているのは、欧米ではなく清国であると判明した。
 従って「日本と清国と朝鮮は提携すべき」とした前説を撤回する。
 アジア開放は欧米列強と同じく領土切り取りをもって達成するしかない。
 この前提に従って福沢諭吉は、日清戦争を「文明国日本対野蛮国清国」の図式に見たて、日本の戦争を「義戦」と評価した。そして日清戦争勝利以降、日本人にアジア蔑視感情を定着させていく。
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# by 699yabuhebi | 2006-12-23 13:10 | 近現代史

韓国歴史教科書の検証-日本人地主による収奪(5)~ochimusyaさんのスレッド

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論点4:日韓併合後の日本人地主はどういう状態であったか
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【日韓併合期当事の証言】  「醜い韓国人(朴泰赫/光文社)」 1993年
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 日本人は、(1933年から)農村振興運動を進めた。日本統治時代以前の韓国の農村には、河川に堤防もなかったし、水利組合も存在しなかったが、水利組合が結成されたために、河川地域が整備されて堤防が建設され、それまで恒常的だった水害から、農地や農作可能な土地を守ることができるようになって、新しい農地がつくられ、多くのところで稲作が可能になった。この結果、日本人地主も増えた。また畜産が奨励され、日本人がつくった金融組合が、希望する農家ごとに子牛一頭を無料で与えてくれた。与えたというよりは、貸したものだった。牛が成長して子牛が生まれたら、一頭を組合に返すと、成長した親牛は、無償で農民のものとなるという制度だった。

 日本人は植林と治水に力を注いだ。山を管理し、植林を進めるために、総督府は山監(サンカン)という監督官を村に置いた。また村人が、植林した山に入ることを禁じた。

 日韓併合以前の韓国の山々といえぱ、乱伐したり、燃料にしたりしたために、ほとんどがはげ山だった。日本統治時代には植林が進んだので、多くの山々が緑に覆われるようになっていた。私の村の山にも草木が繁り、兎を追うことができた。しかし、独立後にまたかって気ままに木を切るようになったので、はげ山に戻ってしまった。
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 日本人地主は、韓国人の小作人の間で、きわめて評判が良かった。日本人がやってきてから、改良された堆肥を奨励したし、化学肥料が配給されるかたわら、改良品種や、進んだ農業技術を導入したので、収穫が増えたし、農地開拓と河川整備を進めたので、村人の生活水準が大きく向上したからだ。

 それに日本人地主は、昔の両班たちよりもはるかに寛容だった。両班のように小作人(ソチクイン)である常人を理不尽に苛めるようなことがなかったし、不作のときには、小作料を安くしてくれた。日本人地主のほうが、物わかりがよかった。だから、日本人の地主は人気があった。みんなは、韓国人の地主の小作人となるよりは、日本人地主の小作人になりたがったのは、当然のことだった。日本人のもとで働いていた常人たちは、羨望の自で見られていた。

 日本人が所有していた農地は、独立後に、「敵産」(チョクサン)としてすべて没収された。しかし、日本人が今日の韓国農業の発展の基礎をつくったことは、否定できない。
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 私たちの村は、李朝時代にはいつも水害で悩まされていた。そこで農作が思うようにできなかった水田地域を、「べべーミ」(船が浮かぶような水田)と呼んでいた。しかし、1911年 明治四十四年)、川に堤防が築かれたために、水害から逃れることができた。それからは「ベベーミ」という悪名のあった水田が一等級の水田に変わって、多収穫地として生まれ変わった。この話は、私の父親がしてくれた話である。

 母はいつも韓服を着ていた。しばしば李朝時代のころの生活がいかに苦しいものだったのかを、話してくれた。村には五つの農業用水池があった。日本人が京釜線を敷くのにあたって、池を掘って線路の盛り土をしたということを教えてくれたのも、母だった。

 日本統治時代になってから、村の人々はまともな生活を営むことがでぎるようになったのだった。私の村では、独立運動系の人々を除けぱ、ほとんどの村民が日本人を尊敬していたし、敬愛していたといってよかった。村の人々のあいだで「イルボンサラムン・キョンウカタルダ」(日本人は、事理に明るい〈すべて正しい〉)という言葉がよく交わされた。

 それでも村の人々が、外国人である日本人に対して屈折した感情をいだいていたことも事実だった。何といっても、韓国は外国の支配下にあったのだ。日本人のもとで働いたり、日本人と結ぶことによって成功している者は、陰で「アブチェビ」(ゴマスリ)と呼ばれた。これにはたぶんに嫉妬心理も手伝っていただろう。
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論点4の結論
 この項に挙げた資料だけでも「日本人地主は『品種改良、施肥量の増大、灌漑設備の拡大等により』収穫高の向上が図る事により現地小作人の生活の質をそれ以前より落とす事無く高い収穫物配分を得ていた。また朝鮮・人地主より横暴が少なかった為評判も悪くなかった」事を証明するには十分であろう。ところで「敵産(チョクサン)」として奪還された耕地は、それ以降も同様の生産性を維持したのであろうか? もし出来なかったとしたら「日帝の遺産なんて戦後韓国で何の役にも立たなかった」という常套句は「金の鵞鳥」顔負けの負け惜しみだったと理解せざるを得なくなる。
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総論
 「日本人地主は朝鮮半島で(それ程酷い)収奪は働いてなかった」という命題の証明はこれで終わるが問題は「朝鮮惣領府はどうやら半島併合と同時に旧体制を一掃した訳ではなく、農政面だけ見ても朝鮮・人地主の下でそれ以前と対して変わらない生活を強いられ続けた小作人の方が圧倒的多数を占めていた」という新たな「日帝の罪」が同時に明らかにされたという事である。『日本帝国主義の植民地政策と植民地近代化論批判』の著者である慎饁廈教授は『日本は植民統治下で半封建的地主制度を強化する事により韓国の近代化に障害をもたらした』と主張しているが、確かに『日本は李氏朝鮮時代から続く地主階層を駆逐する事無く温存し、資本家に脱皮するのを容認した。その弊害に今日なお韓国が苦しめられ続けている』事は認めざるを得ないだろう。戦前より既に左翼活動家はそれを指摘し続けており、『日帝がベストの選択ではない』実例として1928年から開始したスターリンの5ヶ年計画を賞賛し続けてきた(日本もそれは意識していたらしく満州において1936年より同様のコンセプトに基づく「5ケ年計画」を実施している)。実際にはそれは農政面から見る限り懐柔に失敗した自作農百万人の一斉粛清に他ならず、今日ではむしろ亡国の原因の一つとなったと解釈されているのだが、北朝鮮は今日なおその解釈を否定し、『出身成分浄化』の名目により族譜を辿っての両班/地主血統の撲滅活動を続けている。「日帝の罪」とは果たして「李氏朝鮮時代から続く地主層を起源とする民族主義資本家を規制で縛り続けた事」なのか、それとも「李氏朝鮮時代から続く地主層を思い切って粛清しなかった事」なのか。本稿は判断を下そうとは思わないが、もしこれについて朝鮮民族全体の総意がまとめられる事があれば日本及び国際社会はそれを厳粛な気持ちで受け止める事になろう。少なくとも両方同時に反省する事だけは現実的に不可能である。
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 韓国の歴史教育に込められた「反日感情」を分析しているうちに、それを接着剤として利用する事で「民族主義資本家の行動を全面肯定する極右思想」と「資本家階層を血縁レベルで否定する極左思想」が本来有り得ない形で共存している事に気付きました。その継目を突いて欧米型ディペード理論に従って「チェックメイト状況(幾つか選択肢が与えられ、回答者はそのどれを選んでも良いがどれを選んでも質問者にとって有利となる状況)」を生み出しつつ「『当然、日帝が本当に犯した罪については幾らでも謝罪の準備がある』と『建前=本音』の部分で認めながら論を進める」いう「東洋的糖衣(孫子の兵法に言う『百戦百勝する奴は却って危うし』)」を被せるのも忘れない。それが日本人の追求してきた「和魂洋才」の精神です。

 書きながらふと、底知らずの不況の中で喘いでいた1920年代後半の日本に想いを馳せてしまいました。歴史に「もしも」はありませんが、万が一浜口首相の代に彼の構想通り「政府の意向を無視した満州事変で得た満州領土を国民党に譲渡し、日本の経済援助で支える」という構想が実現していたらどうなってた事か? もしかしたら朝鮮半島は(『国民党』に貧乏籤を引かせる事で)『日中戦争/太平洋戦争遂行の為の軍需工場』でなく『対中貿易を支える製造工場』として大躍進を遂げていたかもしれません(やはり『アジアの軍需工場』になってた確率の方が遥かに高いけど、その時恨むべき相手は『国民党』)。関東大震災直後に立案された様に、日本の首都が東京からソウルに遷都され『アジアの中心』と呼ばれさらなる繁栄を遂げていたかもしれません(戦争になったら絨毯爆撃の対象になってた可能性が高いけど、その時恨むべき相手も『国民党』)。これは韓国人にとって『あって欲しかった未来』ですか? それとも『あってはならなかった未来』ですか?

 ちなみに知り合いの台湾人に同じ質問をしたら『あって欲しかった未来』だと即座されました。ただし当然『アジアの中心』として栄えるのは台北でなければいけません。「考えてみれば日本は下克上の国である。京都の公卿が関東の武士団に圧倒され、その関東の武士団が長州藩や薩摩藩や土佐藩といった西国雄藩に圧倒されて大日本帝国となった。ならば最終的勝者が外地の台湾人となるのが歴史的必然だった筈である。本当に惜しい事をした」それを聞いて以来、私にとってこの仮説は『あってはならなかった未来』に変わりました(台湾人なら本当にやりかねない)。韓国人も同様に考えてもよいと私は考えています。
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# by 699yabuhebi | 2006-12-23 13:07 | 近現代史

韓国歴史教科書の検証-日本人地主による収奪(3)

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論点2:日韓併合前の朝鮮・人地主はどういう状態であったか
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【関連概説書における見解】「醜い韓国人(朴泰赫/光文社)」1993年
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地方を治める官吏は、みな中央で任命されたうえで派遣された。中央からやってきた役人たちは、地元に対して同情心を持っていなかった。着任すると、苛斂誅求(かれんちゅうきゅう)の政治を行こない、自分の任期中に、できるかぎり税を取り立てるかたわら、自分の懐を肥やそうとした。平均的な任期が短いものだったので、苛政(暴政)にいっそう拍車がかけられた。そこで、日本のように地方ごとに産業が創出されて、発展することがなかった。韓国の農民たちは働く意欲を失った。
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【李朝時代末当時の証言】「朝鮮の悲劇(カナダ人記者F.A .マッケンジー)」 
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「私は、十分に耕せそうな土地をほったらかしにしていながらも、飢えに苦しむ農民のさまが理解できなかった。「どうしてそれらの土地を耕さないのか」ときいたところ、「耕せば耕すほど、税を取られるだけのことだ」という返事があった」
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【李朝時代末当時の証言】「朝鮮事情(仏人宣教師シャルル・ダレ神父/平凡社東洋文庫)」1874年
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『朝鮮の両班は、いたるところで、まるで支配者か暴君のごとく振る舞っている。大両班は、金がなくなると、使者をおくって商人や農民を捕えさせる。 その者が手際よく金をだせば釈放されるが、出さない場合は、両班の家に連行されて 投獄され、食物もあたえられず、両班が要求する額を支払うまで笞(むち)打たれる。両班のなかでもっとも正直な人たちも、 多かれ少なかれ自発的な借用の形で自分の窃盗行為を偽装するが、 それに欺かれる者は誰もいない。 なぜなら、両班たちが借用したものを返済したためしが、いまだかつてないからである。彼らが農民から田畑や家を買う時は、ほとんどの場合、支払無しで済ませてしまう。 しかも、この強盗行為を阻止できる守令(郡県の長官)は、一人もいない』
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「朝鮮紀行(イザベラ・バード/講談社学術文庫)」1897年/1998年
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 搾取の手段には強制労働、法定税額の水増し、訴訟の際の賄賂要求、強制貸し付けなどがある。小金を貯めていると告げ口されようものなら、官僚がそれを貸せと言ってくる。貸せばたいがい元金も利子も返済されず、貸すのを断れば罪をでっちあげられて投獄され、本人あるいは身内が要求金額を用意しないかぎりムチで打たれる。こういった要求が日常茶飯に行われるため、冬のかなり厳しい朝鮮北部の農民は収穫が終わって二、三千枚の穴あき銭が手元に残ると、地面に穴を掘ってそれを埋め、水をそそいで凍らせた上に土をかける。そうして官僚と盗賊から守るのである。
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【李朝時代末当時の証言】「朝鮮亡滅(アメリカのメソディスト派宣教師ホーマー・ハルバート)」
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 『朝鮮・人は、自分の知的水準を引き上げ、精神世界を拡大しようとするいう努力があわれにもないのに、社会的地位を高めようという激しい欲望だけはある。 自分のものでなくとも少しばかりの金を自由に動かすことができるとか、何人か働くのを監督するとか、ともかく物の面、金の面で人間を支配できるようになると、おしなべて有頂天になる。朝鮮・人は、有力者になる、あるいは名声を博すということだけで、まるで逆上してしまい、ますます尊大な態度をとるようになる。朝鮮・人特有のこの感心できない性向が、じつは企業、あるいは教育、宗教の分野で、朝鮮・人を登用する際に起こる、ごたごたの原因の一つなのである』
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論点2の結論:
 日韓併合前の朝鮮・人地主は平安時代の受領/地頭と酷似した最低の存在だった。どちらも頭の中にあるのは首都での生活だけで、領民を「奪えるうちに奪えるだけのものを奪った方が勝ちの」期限付収税権の対象としか考えてなかった。

 そういえばソウル市街区を朝鮮王朝時代の4倍以上の規模に拡大して都心地方格差を従来よりさらに広げたのも朝鮮総領府だが、これが「日帝の罪」として告発する所を見た事がない。それはそれで気に入っているからだと思われる。
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# by 699yabuhebi | 2006-12-23 13:06 | 近現代史

韓国歴史教科書の検証-日本人地主による収奪(4)

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論点3:日韓併合後の朝鮮・人地主はどういう状態であったか
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【傍証】Wikipedia 韓国併合
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 朝鮮総督府は1910年 - 1919年に土地調査事業に基づき測量を行ない、土地の所有権を確定した。この際に申告された土地の99%以上は地主の申告通りに所有権が認められたが、申告がなされなかった土地や、国有地と認定された土地(主に隠田などの所有者不明の土地とされるが、旧朝鮮王朝の土地を含むともいう)は接収され、東洋拓殖株式会社法(明治41年法律第63号)によって設立され、朝鮮最大の地主となった東洋拓殖や、その他の日本人農業者に払い下げられた。これを機に朝鮮では旧来の零細自作農民が小作農と化し大量に離村した。朝鮮総督府は東洋拓殖会社の一部の資金で朝鮮半島で日本窒素などの財閥に各種の投資を行った。日本の統治下で、李朝時代の特権商人が時代に対処できず没落する一方、旧来の地主勢力の一部が乱高下する土地の売買などによって資金を貯め、新興資本家として台頭してきた。これらの新興資本家の多くは総督府と良好な関係を保ち発展した。
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【新聞記事】満州日日新聞 1928.7.26(昭和3)
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朝鮮の大旱魃 水稲植付不能十八万町歩約二百万石の減収か 【京城特電】

 京□道の旱魃は二十七年振の大旱魃と称せられている七月二十日現在の本年度水稲植付成績は全鮮を通じ八割七分二厘に過ぎず遂に十八万一千町歩の植付不能を示した、之れを大正十三年の大旱害に比すると十一万八千五百町歩多く、この結果今年の鮮米収穫高は二百万石減収を予想される、最も甚だしきは京幾、慶北黄海の三道にて何れも三割の植付不能である

*この年には餓死者が出ておらず、最低でもその一点において李氏朝鮮時代より生活が改善していた筈だが、その事を朝鮮・人が日本人に感謝した形跡がない。おそらく「過去に比べてそれ程向上を実感出来ない状況にあった」か「昔から公式の場で発言するのは両班層の特権とされており、その両班層が当時もなお地主層として存続しており、彼らが昔同様小作人が死のうと生きようと何とも思ってなかった」かのいずれかであろう。
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【日韓併合当時の証言】 「歴史民俗朝鮮漫談(今村鞆/南山吟社)」昭和三年 1928年) 
*韓国併合以前から統監府官吏だった今村鞆による二十年前の回顧
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 良民は新政を喜んだが、両班儒生の大多数は、新政に反対した。時勢を解した両班は、従前の行動を改めたが、中には民衆の無知に乗じ、依然として昔ながらの、横暴振を逞(たくまし)ふして居る者も多かつた。下民の身分を省みず、両班の前で喫煙したとか、馬で乗打をしたとか、いふ様な、良民が時勢に目醒めてする、従来の習俗に反する行為を咎め立てて、罵倒殴打する、等の事により、債務のカタに人や馬や財産を強収拉去する、なほ甚だしきは、土地の境界不明に乗じ、良民の土地を侵犯するといふ、慣行手段の悪事を公行して居たが、被害人民は、なほ十分に官庁を信頼せずして、申告しなかつた。この土地侵略の悪風は、土地調査事業完成の為根絶し、良民は該事業を、心から良制なりとして謳歌した。一体に悪両班は、自己の悪事が出来なくなりし為め、新政を呪詛して居た。

*これは間違いなく今日の「民族的反日感情」の起源の一つです。もしそれが全てだったら「殆どは庶民である」韓国人はとっくの昔に自発的に「何かおかしい」と気付いていたかもしれません。
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【関連概説書における見解】「歪められた朝鮮総督府(黄文雄/光文社)」1998年
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 (東拓の)土地調査事業によって役人や地主の懐にしかはいらないような「隠田」がたくさん発見された。この登記に関する不法地主からの抗議は1920年までに2万148件が高等土地調査委員会が受理したが、農民が不法に追い出されたという事実はない。また、「日本人が小高い丘に登ってあたりを見渡し、土地を指さして手当たり次第に良田を奪って「った」という事実もない、この話は李氏朝鮮時代の両班(当時の特権階級のようなもの)のしたことを日本に擦り付けているだけである。

*国の歴史教科書はこの「東拓が押収した宅地の大半は地主の隠田だった」の部分を「奪われたのは自作農の耕地であり、その結果自作農の大半が小作人に転落した」としている訳である。ヘソクリを盗まれて「会社の公金に手を付けた」と告訴する様なものだ。詳細は不明だが今日の「親日派(チルンパ)」財産押収も同様のロジックでないかと思う。
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【新聞記事】京城日報 1934.11.21(昭和9)
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高利に喘ぐ朝鮮-内地比較実に六厘七分の高率
貸借平均利 内地人一割六分 朝鮮・人一割八分

 殖銀調査-昭和九年四月現在における朝鮮の不動産個人間普通金利は元金一千円に対し実に全銭平均内地人間一割六分六厘、朝鮮・人間一割八分五厘、内鮮一割八分二厘、定期預金利率四分五厘水準、貸付七分五厘の水準にあり金融機関に比し驚くべき高率にあるが、前年同期に比すれば、これでも低利深化傾向を示し、内地人間二分朝鮮・人間一分三厘、平均六厘の各低落に当っている。

 しかしてこれを道別にみるときは、最高は内地人忠北の一割八分四厘、最低は平南の一割四分で前年に比し最高一分三厘、最低一分八厘を各低下、鮮・人側では咸南の二割三分を最高に最低平南の一割三分六厘で最高一分最低一分七厘の各低下となって居り平均金利は咸南を最高を最高として平南北が最低である
 上記鮮内々地人金利を昭和九年四月の内地における勧銀調査に比較するに内地の最高は青森県の一割二分九厘九毛、最低は香川県八分一厘九毛、平均九分八厘九毛になるをもって、朝鮮は内地に比し最高率で五分四厘一毛、最低において五分八厘一毛、平均六分七厘一毛の高率にあたり鮮・人個人貸借の著しき高率なるを示している

*先に挙げた歴史教科書中に「穀物を買い人れるために朝鮮農民に金を貸しその代わりに農地を差し押さえたり、農地を抵当にとる高利貸金業によって農地を奪い取ったりして、次第に土地所有を拡大していった」との記述があるが、「小作人に対する高利貸し」は実は昔から両班層の副業とされてきた(これについては近世までの日本の中小地主層も同様)。以降日本はこれら高利貸付の弾圧に踏み切っていくが、それに対して頑固に反対し続けたのは地主業より脱却を遂げたばかりの新興朝鮮・人資本家層だったという。

*ちなみに上で「農民に対し貸付を行ない、その元利の返済がないことを理由に担保の土地を奪ってきた」と弾劾されている東拓の金利は1933年の段階で8%、その後の低金利指導により1935年には6%となっている。
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【新聞記事】京城日報 1934.12.12(昭和9)
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 没落過程の開城市辺 低金利、人蔘不況の圧迫で

 市辺金融は李朝圧制下に生れた開城独特の金融組織でその古き伝統と信用を擁して牢固たる城郭を形成し大正六、七年の全盛期には運転資金一千万円突破の好況を示していたが、最近に至っては低金利の波に乗じた殖銀漢銀支店金組の圧迫及び此処数年来の人蔘不況の大打撃を受けて急速度の衰微を辿り運転資金は現在漸く三百万円程度に減少しさしもの開場市辺は没落の非運に逢着している
 即ち市辺の対象は商業其他の金融が約五割人蔘金融が約五割を占めているが商業其他の貸付率は往年の一ケ月金利一分七厘五毛から最近に於ては月一分乃至一分一厘程度に顛落しており、年二回の仲買人組合の利率決定に於ても昨年から商工会議所が立会って公平に定めることになっている状況で一方人蔘金融も紅蔘の対支輸出不振から甚だしく不振に陥っている、さらに市辺の一部門をなし黄海南部京畿北部の庶民金融として活躍した差人制度も低金利の浸潤金組の活躍に押されいる状態である
 このようにローカル・カラーを多分に有する市辺の没落は要するに時勢の然らしめるところではあるが鮮内金融機関の健全な発達を示す一証左と見られている 。

*江戸時代に武士の財布を牛耳っていた差札業者も明治の到来で全滅しているが日本ではそれに同情する声は起こっていない。しかし韓国人の考え方は違う様でこれも歴史教科書中で「日帝の悪行」の一つに挙げられている。
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【新聞記事】 京城日報 1928.7.3(昭和3)
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地主と小作農

 小作争議の対策としての、自作農の奨励維持は、たしかに争議を減少せしめるためには有効である田中内閣は、社会政策的立場から山本農相のいわゆる自作農法案を来議会に提出せんとしていると聞く。これは財源が許すならば誠に、結構なことであり、農民党としての政友会の提唱しそうな題目である。しかし。わが輩は今これについて彼これいわんとするのではない、かくの如き内閣の方針を聞くにつけても、朝鮮の小作農問題を如何に解決すべきかということを考えたのである。

 従来内地の小作問題の中心は、他の総ての経済問題とひとしく分配の不公平からおこっている。七三にせよ四分六にせよ、地主と小作農との収穫の分け前の問題である。であるから内地の小作法もこの点に注意されているのは当然である。分け前さえ公平であれば問題はないのだ、しかし朝鮮の小作問題は果してこの内地の論法で解決出来るかどうかということに吾輩は一個の大なる疑問を抱いている。諸外国乃至内地の小作法や小作争議を参照して、果してよく朝鮮の小作問題が解決可能であるかどうか、吾輩はここに一個の問題を提供したいのである。聞く処によれば、朝鮮の小作問題解決について論ずる人々は、余りに外国の事例や内地の法文などを参照し過ぎているように思われる。親く地方の実情を視察し、地方の官民有志の声を聞けば、いよいよこの感を深くせざる得ない。地主の多数を中央に有している朝鮮では地方の事情に暗くして、兎もすれば地方からの実際的経験的意見に耳をふさぐ傾きがありはせぬか、若しありとせばこは小作問題の前途の為に遺憾に堪えない次第である。

 われ等の卑見を以てせば、朝鮮の小作問題は、地主対小作人の分前の問題を論ずる他に、小作人をして安んじて耕作しうる在る期間を与うることが緊急事ではあるまいかと思う。詰めり端的にいえば小作権の確立である。内地の小作争議も、この小作権の確立が重要視されている、否寧ろ小作問題の中心となっている、しかしそれは、分配問題を一たび通過して後に来る小作権の確立であって、いはば小作問題の中心でありかつ最後的の重要問題である。しかし朝鮮における地主対小作人関係を見るにこれは内地と余程おもむきをことにしているようだそれは従来の慣例にもよるであろうが、舎音即ち土地管理人に一切を委任して地主はただその収穫の多きを望んでいる昔風の殿様生活をしている結果、小作人の耕作権を徹底的に左右しうる権能を有し、その間種々悪辣なる行為に出でていることは、一たび地方に行けば耳も□する許りに聞かされるのである。その実例の一つとして、地主の当然負担すべき公課を小作人から徴収し、或は地主の負担すべき運搬費を小作人に課し、甚だしきは封建時代の悪風たる無償の労力提供強制が、しかも一年の農繁期に三回も行われているということである。一ヶ年の収入僅に百円乃至二百円内外の小作人に対するこの強制は、実に時代を無視した暴圧行為といわざるを得ない。

 わが輩の眼から見れば、朝鮮の地主はあまり暴虐である、小作人に対する同情よりも寧ろ義憤を発せざるを得ない。しかも地主舎音は、小作人にしてこの命令を肯かない場合は遠慮なく田畑を取上げてしまう。前年肥料を入れておいた水田を何等の顧慮もなく取上げてしまう。だから小作人の耕作人の耕作期間は僅かに二年乃至三年、□々として同一地主の小作人は変ってゆく。そして取上げられた小作人は、明日から生活のアテがないから更に暴虐なる地主にも叩頭して耕作せざるを得なくなる、かくして小作人は常に虐げられてゆく、これは実に由々しき社会問題であるのみならず、産業開発を阻止する大問題であらねばならぬ。本府の大方針たる細農救済資金もかくした哀れな小作農を救うて更に大いに働きうる力を与え、かつその生活の安定向上の為になされた施設であることは今更いうまでもないことだ。然らば朝鮮の小作問題を考察するに当たっては、まずこの悪地主や悪舎音の弊風を除去して、小作農をして少くとも相当長い間意を安んじて耕作しうる期待を与うることが緊急ではあるまいか。舎音の弊を矯め、小作人の耕作権確立こそ緊急欠くべからざる問題であろうとわが輩は思うのである。

*「朝鮮半島における小作人の待遇改善問題」を要求したのはむしろ一般の日本人であり、それに反対したのは「朝鮮半島を無用に刺激してはならない」と考える政府筋『穏便派』と「内政干渉」を言い立てる朝鮮・人地主達であった事の傍証。ちなみにこれは単なる人道主義に基づく感情論ではなく、同時期の日本において農政関連法規が改善された結果、自作農が増加してそれが国内農業の活性化につながった事を踏まえての経済提案だった。
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論点3の結論:
 日韓併合後、朝鮮・人地主の一部はその本質を維持したまま資本家への脱皮を遂げたがそこには民族主義が資本主義の原則に優先する韓国型資本主義の萌芽が既に見られる。
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# by 699yabuhebi | 2006-12-23 13:06 | 近現代史

韓国歴史教科書の検証-日本人地主による収奪(2)

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論点1:日韓併合前の朝鮮半島農業はどういう境遇にあったか
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【統計的研究】「日本による朝鮮支配の40年(姜在彦/朝日文庫)」1992年 
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1918年、つまり土地調査事業の終わった年の統計によれば、
 全農家の3.3%(9万386戸)が全耕地面積の50.4%を所有(地主)
 全農家の37.6%(100万戸余り)が土地のない小作農
 全農家の39.3%(104万戸余り)が自作兼小作農
 全農家の19.6%(50万戸)が自作農
というような農家構成があらわれています。

 全農家の3.3%、戸数からすると約9万戸が全農地面積の半分以上を所有しているのです。これは農家というよりも地主です。農業経営にタッチせず、じっと座って小作料を得て生活する地主層なのです。もちろんこの3.3パーセントには朝鮮・人、日本人を含みます。(中略)小作料は建前としては5割ですが、実際には7割ぐらいになっていたのです。ですから、朝鮮の全耕地面積の半分から生産される穀物の5割ないし7割が、全農家の3.3パーセントにすぎない地主に集中するということなのです。なぜ小作料が七割ぐらいにまでなったかというと、労働市場においても、労働力を売る側に比べて買う側が少ない場合、売る側は安売りします。それと同じで、農村でも他に転業できるような近代産業が少ないため、土地にしがみつくしかない農家がたくさんいる。おのずから小作権をめぐって小作農民間の競争が起こり、常に地主が有利な立場に立つ。ですから地主の無理難題も通るわけです。
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 農家全体の37.6%、戸数にして100万戸余りがまったく土地のない小作農です。100万戸となると、1家族を5人とみて500万人になります。当時、朝鮮の総人口は2000万人といわれていましたが、そのなかの500万人がまったく土地を持たず、地主の土地を借りて5割ないし7割の小作料を納めなくてはならなかったわけです。そのつぎは自作兼小作農です。つまり若干は自分の土地があるけれど、それでは足りないので、やはり地主の土地を借りなくてはならない。これが39.3パーセント戸数にして104万戸余りです。小作農と自作兼小作農を合わせると、全農家の77パーセントになります。
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 当時朝鮮にはまだ近代産業が発展していませんから、ほぼ8割ないし9割の人口が農村の土地にしがみついて生活していました。そしてそのなかの77パーセントが自分の土地を持たないか、もっていても少ないために地主の土地を耕しながら、収穫の半分ないし7割を収めていたのです。1920年の1戸あたりの平均耕地面積は1.61町歩(水田0.57町歩、畑1.04町歩)となっていますが、1町歩未満の農家が、実に全農家の66.97パーセント(うち0.5町歩未満が47.38パーセント)を占めています。つまり大多数の農家が零細農であるうえに小作農である、これでは人間が生きていること事態が奇蹟に近いのです。こういうところでは、地主はだいたい高利貸しを兼ねているわけです。ですから小作料プラス高利で二重に縛られた、そういう層が77パーセントいたというのが現実です。
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  結局77パーセントの小作農および自作兼小作農というのは過剰人口なのです。本当なら土地から離れて労働者になるべき人たちですが、朝鮮では農村の過剰人口を吸収するような近代産業の発展が遅かったから、いろいろな形でだぶついたのです。こういう過剰人口の存在は、まず第一に小作条件を非常に悪くします。小作農の立場は常に不利ですから、何とか土地を借りようと、地主のあらゆる要求をそのまま聞き入れなくてはならなかった。一つ例をあげましょう。日本の場合でも中国の場合でも、小作争議というのは、小作料があんまり高いから低くしろとか、借金を免除しろ、こういうのが普通です。ところが朝鮮の場合、小作争議の理由の部分は、これは想像もつかないことですが、地主による小作権移動に反対するということなのです。つまり、地主は小作農家が気にくわなければいつでも小作権を取り上げてほかにやってしまう。だから小作料が高いとか安いとかの問題以前に、小作権を確保するために血眼になったのです。土地にしがみつくしかほかに生活の方法がないものですから。これが朝鮮農民の小作争議の特徴です。
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農業以外に産業がないと農民になるしかないため、人口増加によって小作人が増え小作人の割合が増加していきます。また朝鮮・人地主が日本人自作農に土地を売ったため、小作農が土地を追い出されてしまったという事もあったかもしれません。そして日韓併合期はまた工業化の推進期間であり、そういった余剰人口の多くが労働者に転換されていったのです。
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【李朝時代末当時の証言】韓国誌(ロシア大蔵省調査資料の日本農商務省山林局による抄訳)
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  『住民は古来これらの谷地に小社会を形成し、舟楫を通すべき河川の不足と、僅かに駄獣の通行を許すのみなる断崖多き経路の外、殆ど便利なる道路の皆無なるとにより、相互の交通甚だ疎にして、惟り農耕に従事し、産物の販路を見いだすに由なく、その事業は幼稚の域を脱することなく、只一局部の住民の需要を目的として労働せり。然れども漢江、大同江、及び洛東江等の如く、僅少なる河川の舟行に堪ふるものありて、その沿岸地方に住居する人民は、山地の単調子なる生活状態とややその趣を異にして、河川の便を利用して生産の剰余を比較的大なる市場、特に開港場に輸出し得べき処は凡て耕地の面積迅速に増加し、商業も又盛んなり。然れどもこの如き土地は甚だ少なし』
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 『天然の地勢既に商業に適せざるのみならず、古来人為の障害ありて亦之に加わり、その一部分は今も尚行わるるものあり。その尤も大なるものは官吏の暴貪に制限なき制度にして、為に労働の安全に保証なく、各人貧困に陥らざるもの殆ど之なきに至る。その外官吏が交通の便利を無視すること、盗賊公行して危険多きこと、貨幣制度の紊乱したること、金融機関の殆ど皆無なること、階級上の迷誤及びその他の事情によりて上級の人民に商業を禁じ、且つある種の実業を疎滞せしむること、工業の発達せざること、商人の階級夥多にして専売権の濫用行わるること、、是皆内外商業の発達の妨害ならざるはなし』

*ちなみに1904年、併合前の朝鮮半島に財政顧問として赴任した目賀田種太郎は朝鮮総領府は貨幣制度統一を強行して関連利権に群がっていた朝鮮・人両替商の没落を招いた。これも韓国の歴史教科書では『日帝の犯罪行為』として弾劾対象となっている。
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【関連概説書における見解】「歪められた朝鮮総督府(黄文雄/光文社)」1998年
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  そもそも朝鮮半島は三南(忠清、慶尚、全羅)地方以外、飢饉の多いところで、最近の北朝鮮のような食糧危機は、決して特異な現象ではない。
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 朝鮮農民の間には、古来から「春窮、麦嶺越え難し」という古諺があるほどだが、農民は収穫の5割以上が年貢として取り立てられてしまうし、収穫した米も翌年3月の初めごろには全部、食いつくしてしまう。そこで、じやがいもや麦のできる6月までの3ヵ月は、春窮期といわれるのだ。李朝以来、数百年にわたって朝鮮農民の背負う歴史的な宿痾(長い間治らない病気)と言える。それは人ロの9割を占める農民のうちの8割の小作人が、保存食糧を冬季に食いつくし、麦の収穫期までの間、草の根、干し草、どん栗、とちの実などで食いつないでいくことである。極端な場合には、松の木の表皮と木質との間にある柔らかい白い部分をはぎとって食用にする。あるいは五月になると麦の成熟するのを待ちきれず、穂がまだ青く乳状であるものを、穂先だけ摘み取って粥にして食べたり、せっぱつまれば種子籾まで食べつくしてしまう場合もある。
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【李朝時代末当時の証言】「朝鮮事情(仏人宣教師シャルル・ダレ神父/平凡社東洋文庫)」1874年
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  『1871年から、1872年にかけて、驚くべき飢餓が朝鮮半島を襲 い、国土は荒廃した。あまりの酷さに、西海岸の人々のなかには、娘を中国人の密航業者に1人当たり米1升で売るものもい た。北方の国境の森林を越えて遼東半島にたどり着いた何人かの朝鮮・人は、惨たらしい国状を絵に描いて宣教師達に示し「どこの道にも死体が転がっている」と訴えた。しかし、そんなときでさえ、朝鮮国王は、中国や日本からの 食料買入れを許すよりも、むしろ国民の半数が死んでいくのを放置しておく道を選んだ』

*この『国民の半数が死んでいくのを 放置しておく道を選んだ』の引用をさまざまな所で見掛けますが、人口推移表を見るとそこまで朝鮮半島全体で同時に餓死者が出た訳ではなかったのかもしれない。中世社会は今日の様に流通も情報伝達も発展してなかったので、一部地域が壊滅的飢餓状態にあってもそのまま放置される場合が多かった。この側面から日本の過去の飢餓の被害程度についても大分見直しが入っている。
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【傍証】「大成建設社史(史料性は皆無に等しいが『捏造』もまた歴史なり)」
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大倉(大成建設の母体となった大倉財閥の創始者)は、明治九年(一八七六年)諸雑貨を汽船に満載して釜山に赴いてみると、同地には日本人にして在留する者わずか九十人に過ぎない。それも対馬の島人のみである(略)。

*日清戦争前夜釜山に上陸したイザベラ・バードも「朝鮮紀行」の中で対馬や博多から来ている日本人が多かった事を指摘している。朝鮮半島からの攻撃で歴史的に最も多大な被害を受けてきた人々は、歴史的に最も日朝貿易に依存してきた人達でもあった事を忘れてはならないのである。現実世界の問題は「断交すれば平和が訪れる」というような単純な思い込みだけでは解決出来ない。

 韓国との間をたびたび往復し、朝鮮貿易の進展をはかっているうちに、明治十年(一八七七年)二月、西南の役が勃発した。ちょうど天皇関西行幸中で、太政大臣三条実美をはじめ、大久保利通、伊藤博文ら輔弼の大官はすべてこれに扈従していた。大倉組商会は賊軍北上の報が入ると、ただちに陸軍から御用達を命ぜられた。大倉は部下を率い、王師に従って豊肥の野に赴き、軍隊輜重の用を弁じて日夜奮闘していたが、この戦乱のさなかに、朝鮮に大飢饉が発生したのである。それは五穀まったく稔らず、求むるに食なく、行路病者となって道に斃れ餓死する者、八道に数知れずという惨憺たる有様であった。

 朝鮮政府は救援をわが国に求め、しきりに米穀の輸送を要請してきたが、日本は国内戦乱の最中であり、隣邦の切なる依頼に応ずることができない状態であった。たとえこれを救助するとしても、船腹が欠乏しているため、米を運ぶことができない。しかし時の内務卿大久保利通は「九州の内乱はつまり一揆である。内乱があるからといって、隣邦の危難を救わないのは善隣の誼でない」と極力救援を力説したので、廟議も朝鮮へ米を輸送することに一決した。この大任が大倉に命ぜられたのである。その時、大倉は、陸軍輜重の用で肥後の高瀬にあったが、大久保からの急電に接し、急遽長崎へ出てそこから神戸行きの便船に身を托した。たまたま、この船に渋沢栄一が乗っていた。彼は当時第一国立銀行頭取で、その年の一月、三井物産社長益田孝とともに清国貸付金談判のため上海に赴き、その帰途であった(略)。
 彼は役人時代、長州出身の五代友厚から大倉の名を聞いていたが、初めて船中で会った大倉から、
「大久保内務卿の要請に応えて、朝鮮の飢饉の救難に行くつもりだ。国家のために身を捨てて行くのです」
と聞き、少からず感動した。この時から、大倉と渋沢は協力提携して、わが国産業経済の興隆に尽すこととなる(略)。
 大倉は神戸で下船し、京都に赴いて大久保に面会した。車駕京都に御駐輦中で、大久保も、この地に滞在していたのである。
 大久保は大倉の顔を見ると、
 「この際、朝鮮へ米を輸送できる者は、貴下をおいてほかにない。国家のためぜひ奮発せられたい」
 としきりに懇請したので、大倉は大いに感激し、襟をただして答えた。
「微力ながら閣下の期待に背かぬよう努力致します。しかし船は皆御用船として徴発され、民間には一隻もありません。その点はどう致しましょうか」
「そのことは心配しなくてもよろしい。こちらで都合する」
 大久保は陸軍御用船瓊浦(たまうら)丸を、特にこの輸送にあてるよう措置を講じてくれた。大倉はただちに米を買い入れ、神戸港でこれを瓊浦丸に積み込むと、釜山目ざして出発した。時に十年八月、玄海洋上かすかな秋気がただよい始めるころであった。
 釜山へ到着して、米を朝鮮官憲に引渡すと、任務は一応 終了した。朝鮮の官民に大いに感謝されたことはいうまでもない。瓊浦丸は御用船なので、すぐ日本へ帰航した。大倉は次の便船を待って帰国することとし、そのまましばらく釜山に滞留した。

*読み飛ばしても何の差し支えもない程度の資料価値しかないが、もし船名や日付を辿って追証に成功し、半島側の誰が要請したのか、釜山港に届けられた米がその後どうなったかまで明らかに出来たら歴史が書き換わる。日本人が歴史の教科書に書いてある事を鵜呑みにしないのは、そういう「書き換え」を幾度も経験しているからである。
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論点1の結論:
 日韓併合以前から朝鮮半島の主産業たる農業の担い手は地主に酷使される小作人で、定期的に襲来する飢饉に怯えながら生きるか死ぬかの生活を送っていた。
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# by 699yabuhebi | 2006-12-23 13:05 | 近現代史

韓国歴史教科書の検証-日本人地主による収奪(1)

 中国の「東北工程」問題が浮上し、韓国人の間でも「いかに捏造を見破り論破するか」が話題になっている事と思います。せっかくの機会なので、「こういう具合日本人はこう考えていく」という一例を挙げておきます。
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例題:韓国の国定歴史教科書中の記述】 日本の土地略奪について
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 開港直後に日本商人は開港場内の一部の土地を惜りて使うことに留まっていた。しかし、彼らは活動範囲が開港場の外に拡大するにつれて、穀物を買い人れるために朝鮮農民に金を貸しその代わりに農地を差し押さえたり、農地を抵当にとる高利貸金業によって農地を奪い取ったりして、次第に土地所有を拡大していった。清日戦争(1894年)以後、日本が朝鮮に強力な影響力を持つようになると、日本の大資本家が大挙浸透し全州、群山、羅州一帯で大規模な農場を経営するようになった。

 日本人による大規模な土地略奪は露日戦争(1904年)を契機に本格化した。日本は鉄道敷地と軍用地の確保を口実に土地略奪を勝手に行なった。日本は京仁線と京釜線を敷設し、鉄道敷地中の国有地は略奪し、私有地は朝鮮政府が所有者から買い入れて提供するように強要した。そして彼らは軍用地に必要な地域はほとんど制限なく占有し、軍用地を口実に駐屯地付近の土地を大量に略奪したりした。また、日本は朝鮮の荒蕪地の開墾と駅屯土の収容による土地略奪を企てた。国権を奪われたころに日本人が朝鮮で所有した土地は実に1億5000万坪に達した。このように日本が莫大な土地を略奪したのは、朝鮮の植民地化のための基礎作業であった。

 朝鮮総督府は奪取した土地を東洋拓殖株式会社をはじめとする日本人の土地会社や個人に安値で払い下げた。突如、土地を略奪された農民は日帝当局にその不当性を抗議したが、日帝当局は正当な事由がないとして無視した。こうして不法に奪取された耕作地は全国土の約40%にもなった。

 いわゆる土地調査事業の実施は韓国農民の生活基盤を徹底的に崩した。従来の農民は土地の所有権とともに耕作権も保有していたが、土地調査事業以後、多くの農民は期限付き契約による小作農へと転落してしまった。そうして生活基盤を喪失した農民は日本人の高利貸に苦しめられ、生計維持のために火田民になったり、満州、沿海州、日本などへの移住を余儀なくされた。
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まず最初に専門家の意見を照会してください。可能なら相手国の研究者が望ましいです。
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【学術的本論文】「日帝下・朝鮮経済の発展と朝鮮・人経済」許粹烈
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半島全体の耕地面積と生産高

朝鮮半島の耕作地面積は、土地調査事業が完了した1918年よりほぼ一定のまま推移する。畑が田の倍の面積を占めるが、1942年以降は両方微減となり、特に畑の面積減少が目立つ。この時代には土地改良事業により畑の田へと転用が進められたが、転換済の土地でも畑作が併用され続けたり、品種改良、施肥量の増大、灌漑設備の拡大等により耕作面積が減少しても生産例が維持される事も多かった。生産高については米穀で52%、それ以外の作物で31-35%の増産となっている(1911-15年間の5年平均と1935-44年間の10年平均の比較からの算出費)。
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日本人所有耕地の推移

日本人所有耕地面積は一律に増加したものでなく、1910-15年、1928-35年の2度にわたり急増している。1910-15年の間の増加は、東洋拓殖会社の社有地の増加によるもの(*1)で、1928年以後の増加は農業恐慌で朝鮮・人土地所有者が大量に土地を売り渡し日本人がそれを購入した為であった(*2)。日本人所有耕地面積は1935年にピークに達し、1932年以降には大体40万町をやや上回る水準に達する事となった。

(*1) 1910-15年間に日本人所有耕地面積は69.312町歩から99.696町歩に増加したが、同じ期間、東拓社有地は10.994町歩から57,730町歩に増加している。これは全体の58%に当たる数字である。

(*2) 朝鮮の耕地構成は、畑が田の2倍程度だが、日本人の場合は逆に田が畑の2倍以上になっている。例えば1935年における日本人所有耕地の割合は10.2%だが、田に限って見ると18.3%と高い値を示す。道別に分析するなら日本人大地主の保有地は田作の中核地帯である全羅南道と全羅北道、そして畑作中核時代の黄海道に集中していた。全羅道地域の中でも平野部、平野部の中でも生産性が高い水利組合地域が多く一反部辺りの収穫量が平均値の三倍以上という良田が多い。土地肥沃度も計算に入れた朝鮮銀行と京城商工会議所の計算方法によれば田全体の生産力のうち1931年の44%、1941年の54%を占めていたという考え方も出来る。農業生産物の民族的配分に注目すると1941年の場合で全人口の0.2%を占めるに過ぎない日本人が全体の15%を占めていた。
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【参考】朝鮮半島人口の推移と関連事項
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年度  朝鮮・人数 日本人数 備考
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1864年 802万2千 開国前 旱魃 
1876年  803万7千  百未満 旱魃/日朝修好条規 ←その割に減ってない
1885年  896万9千  百未満 
1891年  788万3千  0万9千 甲申政変/甲午農民戦争/日清戦争
1904年  709万9千  3万1千 旱魃(1901)/日露戦争 ←戦争の犠牲者含む(ごめんなさい)
1907年 1166万5千  8万3千 ハーグ密使事件/第三次日韓協約
1910年 1312万8千 17万1千 日韓併合条約/土地調査事業開始
1911年 1383万2千 21万0千 第一次日本人地主増加期
1912年 1412万8千 24万3千 第一次日本人地主増加期
1913年 1516万9千 27万1千 第一次日本人地主増加期
1914年 1562万0千 29万1千 第一次日本人地主増加期
1915年 1595万7千 30万3千 第一次日本人地主増加期
1916年 1630万9千 32万0千
1917年 1661万7千 33万2千
1918年 1669万7千 33万6千
1919年 1678万3千 34万6千 土地調査事業完了
1920年 1691万6千 34万7千
1921年 1705万9千 36万7千
1922年 1720万8千 38万6千
1923年 1744万6千 40万3千
1924年 1761万9千 41万1千
1925年 1854万3千 42万4千
1926年 1861万5千 44万2千
1927年 1863万1千 45万4千
1928年 1866万7千 46万9千 旱魃/第二次日本人地主増加期 ←全然減ってない

1929年 18784万千 48万8千 旱魃/第二次日本人地主増加期 ←全然減ってない
1930年 1968万5千 50万1千 第二次日本人地主増加期
1931年 1971万0千 51万4千 第二次日本人地主増加期
1932年 2003万7千 52万3千 第二次日本人地主増加期
1933年 2020万5千 54万3千 第二次日本人地主増加期(ピーク)
1934年 2051万3千 56万1千 第二次日本人地主増加期
1935年 2124万8千 58万3千 第二次日本人地主増加期
1936年 2137万3千 60万8千
1937年 2168万2千 62万9千
1938年 2195万0千 63万3千
1939年 2209万8千 65万0千 旱魃 ←全然減ってない
1940年 2295万4千 68万9千 旱魃 ←全然減ってない
1941年 2391万3千 71万7千
1942年 2552万5千 75万2千
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本論文の対象は「当時の朝鮮半島農業史」だけですが、それでもこれだけは言えます。

「(少なくとも耕作地に関して)本文中にある時期での本文中にある規模での土地接収はなかった」
.「当時の半島住民の大半が農民であった」事を勘案し「もし軍部が鉄道建設用地や軍需設備用地を接収したとしても、当時の朝鮮半島農業に与えた影響はほとんどなかった」とはいえる。
ところで本論文は以下について綿密な検証を行っています。

「日本人地主の保有する田畑は圧倒的に収穫が良かった」
「日本人地主はそれなりに高い収穫物配分を受けていた」
「なので日帝の地主が良田を独占し収奪していた事実に変わりはない」
ところが、よく読むと「この時代『品種改良、施肥量の増大、灌漑設備の拡大等により』収穫高の向上が図られた」という言及があり、これに関して以下が証明できれば前提が崩れます。

土地改良等を行ったのは主に日本人地主であり、
配分比率の高さがその投資分回収と技術提供の代価と解釈出来て、
その結果現地小作人の生計を朝鮮・人地主より圧迫した訳ではない。
この線に沿って関連資料/史料の検証を進めていきます。
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# by 699yabuhebi | 2006-12-23 13:04 | 近現代史

朝鮮半島の経済成長の基本要因

学校で「『日帝の植民地時代』も『軍政時代』も何の希望もない絶望的な時代だった」と教わる韓国人よ。以下に間違いがあれば指摘なさい。


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1.完全な自己中心主義者である半島出身者は、

「見返りが期待出来る状況下でしか勤労意欲が湧かない(*1)」


* 面と向かってこう言っても「その通りだ」と頷くのが韓国人である。



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2.ところで韓国経済が大きく伸びたのは「日韓併合期」「朴正煕政権期」「全斗煥政権期」。
 逆に停滞が目立つのは「李氏朝鮮期」「李承晩政権期」である(*)。



* これは統計上疑う余地がなく国際的に承認されている。


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3.すると、以下の事が言えるのではないか。

 「李氏朝鮮期は働いても奪われるだけだったので働かなかった」
 「日韓併合期は李氏朝鮮期程は奪わなかったので働いた(*)
 「李承晩政権期は働いても見返りがなかったので働かなかった」
 「朴正煕政権期は働くと見返りがあったので働いた」
 「全斗煥政権期も働くと見返りがあったので働いた」

* ただし終戦間際の「供出」政策の推進について当時の朝鮮ちんぽ半島住人は本気で激怒している。『日本でも同じ事が行われた』と説明しても絶対納得てはもらえないし、あくまで勝手に負ける戦争を始め、巻き添えにした日本がいけないという側面もないではない。


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結論:「経済成長と勤労意欲は不可分の関係にある」
充分な検討もなしにこのまま「韓国人が安心して働いていた時代」を「何の希望もない絶望的な時代」と呼び、その正反対の時代を「希望に満ちた時代」と呼び続けるのはどうだろうか?。別に過去を恩に着せる気なんて毛頭ないし、ここで提起されてる話を受け入れたからといって日帝時代や軍政時代の暗黒面を全面否定した事にはならない。正しく過去を振り返れる様になる事で、正しく未来を予測出来る様になって欲しい。ここで言いたいのはただそれだけの事である。
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# by 699yabuhebi | 2006-12-23 13:01 | 近現代史

安倍新政権がアジア外交で心すべき事

【正論】新政権がアジア外交で心すべき事
(産経新聞 2006/09/15)
筑波大学大学院教授・古田博司

■中朝「反日共闘」の実相を見誤るな

≪日米中“三角形”論の幻想≫

 来し方を振り返れば、冷戦時代とは日本にとっては暗愚な時代であった。社会主義による近代化が失敗するとは、誰も考えていなかった。中国が経済で失政し、大量の餓死者をだそうと、10年間も大殺戮の嵐が全土で吹き荒れようと、中国の建設は不断の革新の途上にあると見なされ、みなが騙されていた。
今日では、社会主義による近代化はありえないことであり、左翼とは革新ではなく反動と同意義である。それでも、まだ事実に目をふさぐ者がいて、いつか別の社会主義がくるだろうと夢想に浸りつづけている。
 そういう人々は、冷戦が終わり米ソの二元均衡が崩れ、空間枠も時間軸も全部ばらけてしまい、遅れた地域の本性が暴露されても、相変わらず世界が同じように発展していると思いたいらしい。 しかし中国には、全国的な商業網もなければ、どこでも手形が使える金融システムも存在しない。荷を送っても、ちゃんと届くかどうかわからないし、取引は現金決済に決まっているのである。内実は遅れた資本主義そのものであり、中国は今、近代の入り口にようやく立っている。経済発展しているのは、外資が滞りなく入ってきているからであり、途絶えればたちまちフリーズする体のものである。

 そのようなところと、3者平等なる日米中三角形論を展開するなどということは幻想の極みといわねばならない。ハンバーガーワールドと犬肉ワールドでは、政経上の重みが違うのは今更いうまでもない。あるいはマスコミでは、中朝ではなく、中韓をセットにして日本が関係改善を図らなければならないとする。


≪自国が優位の思い上がり≫

 しかし韓国は日本植民地時代も含めれば、90年以上も資本主義をしているから、中国とは近代化のレベルが自ずと異なる。韓国は少なくとも入り口ではない。近代の真っただ中にいるのである。中国とセットにすべきは韓国ではなく、同じく独裁体制を続けている北朝鮮の方であろう。

 だが、中朝独裁政権と自由なる日本が関係改善を図らなければならないとすれば、一体どのようにすればよいのだろうか。マスコミでは小泉政権が靖国神社参拝をめぐって外交関係をこじらせてしまい、首脳会談を途絶えさせてしまったと宣伝している。そして北朝鮮に圧力を行使するために、中国との関係改善を求めたりするのである。

 しかし、この論は立論自体がおかしい。核・ミサイル問題で、中国と北朝鮮は初めから日米に対し密かな「共闘」をしているのであり、北朝鮮が中国の「忠告」で6カ国協議に戻るようなことはないし、中国は国際社会の一員のようなふりをしつつ、北朝鮮をかばうという姿勢を崩さないであろう。

 また、靖国神社参拝が外交を閉塞させたわけではない。伝統的な中華思想により、中朝は日本より自分たちが優れていると思いこんでいるから、自己の序列の世界に日本を押し込めたいだけである。

 ゆえに中国共産党の宣伝機関である新華社は、当初より参拝を「拝鬼」と称して侮蔑し、北の朝鮮労働党機関紙『労働新聞』は、「靖国神社に位牌のある、東条英機をはじめとする首級戦犯たちを、自分のおじいさんのように奉っている日本極右分子たち」(8月21日付)などという訳の分からない前近代的言辞を吐きつづけている。


≪なめられず怒鳴りもせず≫

 これらの前近代ネットワークに比べれば韓国はましであるが、現在の政権が独裁的左翼集団であり、販売数で新聞社を抑圧する新聞法で言論を威嚇したり、企業の出資総額を制限する制度で、自由主義経済を圧迫したりしている。

 この国で問題なのは、民衆が圧倒的に弱いことである。内需も弱く、中小企業も育たず、民衆が日本のように地方色豊かな保守的伝統文化を担っていない。ために、国民国家形成の力も弱く、民族主義に絶えず押し流され、「反米親北」路線がこれからも継続される可能性が極めて高いといわなければならない。

 次期の安倍政権は以上のような近代化のレベルを異にする「異時代国家群」と付き合わなければならない。

 小泉政権の罪といえば、これらの諸国の前近代性を白日の下にさらしてしまったということであり、次期首相は「怒鳴りつけなければ相手をなめる」という自己絶対正義の阿Qの民を怒鳴りつけることなく、なめられもせず、かれらに自由民主主義のルールを教えていかねばならない。

 安倍首相はまずアジアの教育者でなければならないということである。
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# by 699yabuhebi | 2006-12-23 12:55 | 韓国における反日