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韓国との歴史認識の共有は可能かを探る
by 699yabuhebi


独立門

 現在ソウルの城門のあった場所には「独立門」というものが建てられている。昔はその場所には『迎恩門』という門があった。それは「朝鮮王が9回頭を地面に叩きつけて擦りつけ、ひれ伏して清の使者を迎える」という屈辱的な隷属の象徴の門だった。それも、この迎恩門で『朝鮮の国王』が土下座して出迎えたのは、中国の「王」ではなく中国の『使者』である。朝鮮はそれほどまでに国家として奴隷扱いされてたのだ。

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 韓国人は『中国の属国だった惨めな歴史を隠したい』 という意識から、歴史を捏造し続けてきた。

 世界中の国家や大学などが知っているように、朝鮮はずっと中国の『属国』だった。記録や物的証拠も国内外に数え切れないほど残っている。留学経験のある韓国人も自ら韓国は属国であったことを認めている者もいる。そもそも韓国の古い国旗にまで「大清国属(清=中国)」と書いてあったのだから属国だったことは否定しようがない。 しかし、韓国は国家レベルで「属国だった過去」を消し去りたかった。 古い国旗が発見された時も、韓国国内のニュースでは「大清国属」という文字をカットして報道したほどである。
 実はこの韓国の感情的問題は「反日」に密接な関係がある。

 まず、朝鮮と清(中国)がどの程度の従属関係だったか。
 朝鮮というのは、中国の属国の中でも琉球(現在の沖縄)よりも低い地位だった。
 そもそも、中国の属邦の中でも朝鮮の地位は最も低く、下国のなかの下国であった。
 天朝の朝賀の席では、千官が赤色の礼服を着ていたのに対し、朝鮮の使臣だけは異色の丸首の衣である。



 朝鮮国王の身分の低さは朝鮮がどんな扱いを受けていたかを見ればより明白になる。

・朝鮮国王は清の皇帝によって任命される。
・朝鮮国内の事件は全て皇帝に報告しなければならない。
・朝鮮国王は清の使節をソウル城門まで出迎えなければならない。
・朝鮮国王の地位は、清国の廷臣よりも下。
・朝鮮政府には、貨幣の鋳造権すら与えられてない。
・朝鮮政府には清国への食糧、兵士提供の要求権もない。

 朝鮮国王が宗主国の清国皇帝に奉呈した貢文に気に入らない言葉がたった一つあっただけで、朝鮮国王は銀1万両を罰金として払った上に、年貢への見返りを3年間停止するという厳しい処罰を受けている。
# by 699yabuhebi | 2006-12-23 13:52 | 近現代史

「和寧」か「朝鮮」か

1、李氏朝鮮初代の王となった李成桂は、王位につくやすぐさま、当時誕生したばかりの明王朝に伺いを立て国号を決めて貰っている。

 この時、李成桂は、箕氏朝鮮の旧号「朝鮮」と李成桂の生地「和寧」の二つの名前を持ち出し、明の太祖の朱元璋から「朝鮮」の国号を使うことを許されている。世界史の中で様々な国が存在するが、他国に自国の国号を決めて貰った国など、後にも先にも朝鮮ただ一カ国である。
 本来ならこの一時を持って、朝鮮が中国の属国であった事を、何よりも物語っているのだが、韓国人はこれでもまだ朝鮮が中国の属国であったことを認めないのである。


2、韓国人が誇るものの中に「東方礼儀の国(邦)」とういう朝鮮を指し示す言葉がある。
 この言葉の本当の意味を知っている韓国人は少ないのだが、これは中国王朝から朝鮮へ贈られた言葉である。即ち、中華の天子へ忠実に諸侯の礼を尽くしてきた朝鮮へ中国が上記の「東方礼儀の国」という言葉を贈ったのである。
 直訳すれば「中国の属国として礼節を尽くした国」という意味なのだが、この意味を韓国人は全く理解していないのが、皮肉である。


3、中国王朝の属国における歴代朝鮮国王は、原則皇帝の臣下と見なされる。朝鮮国王は中国皇帝によって任命され、中国の朝廷は朝鮮の王妃や王太子の廃立に至るまで、その権限を振るうことが出来たのである。ちなみにこの当時、朝鮮を実質的に指揮監督していたのは、中国王朝の北洋大臣や直隷総督などである。つまり国王というのは形ばかりのものであって、決して主権国家の元首として扱われていたのではないのである。さらに朝鮮国王の中国王朝からの使節の出迎えは余りにも屈辱的である。
 満州人の使節が来ると、朝鮮国王は自ら高官を引き連れて迎恩門まで歓迎に赴いて、地面にひざまずいて使節に9回土下座をする。宴会を催し、芸を披露して接待しなければならなかった。王太子は慕華館(迎賓館)で使節に酌の礼をするのが最大の役目だった。
# by 699yabuhebi | 2006-12-23 13:34 | 中世・近世史

河野洋平官房長官談話を事実関係を検証して見直しへ。

慰安婦問題研究で小委員会を設置


 自民党の有志議員でつくる「日本の前途と歴史教育を考える議員の会」(中山成彬会長)は22日、従軍慰安婦問題を研究する小委員会を設置した。有識者を交えて事実関係を検証。慰安婦募集への旧日本軍などの関与を認めた1993年の河野洋平官房長官談話の見直しも視野に提言をまとめる。同会は97年に安倍晋三首相らが中心となって設立した。(22:29)



http://www.nikkei.co.jp/news/seiji/20061223AT3S2200O22122006.html



 慰安婦=売春婦

 韓国政府の嘘が明らかに。
# by 699yabuhebi | 2006-12-23 13:32 | 近現代史

【資料】新羅と百済は倭国の属国


【隋書 倭国伝】
 新羅と百済は皆、倭国を大国として、珍しい文物が多いとし、恐れ敬い、通使を往来させている。

隋書とは中国の正史です。隋帝国(581年 - 619年)を扱った書物です。
「新羅と百済は倭国を大国とみなし、恐れ敬っていた。」ということが中国の歴史書に明記されています。

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【広開土王碑】
そもそも新羅・百残(百済)は(高句麗の)属民であり、朝貢していた。しかし、倭が辛卯年(391年)に海を渡り百残・■■新羅を破り、臣民となしてしまった。
百済と新羅は高句麗の属国であったが、日本が高句麗と戦争をして勝利した。日本が百済と新羅を属国にした。と明記してあります。

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【宋書 倭国伝】
順帝昇明二年(478年)、遣使が上表して曰く「封国は残念ながら遠く、藩を外に作り、昔より祖先は自ら甲冑を着け、山川を跋渉し、安らかに暮らす暇なし。東に毛人を征すること五十五国、西に衆夷を服すること六十六国、(海を)渡り海北を平定すること九十五国。王道は安泰に調和し、国土を拡げ、京畿を遠く離れる。累代に亘って朝廷を尊び、歳を誤らず。臣は下愚といえども、忝くも後裔を先に残し、統べる所を率いて駆け、崇め帰すこと天を極め、道を百済に直行し、船舶を装備する。然るに高句麗は非道にも併呑を欲して謀り、辺境を略奪し隷属させ、(南朝宋の)劉氏を尊重して已まず、(そのために)いつも延滞させられ、(航行の)良風を失する。道を進むといえども、あるいは通じ、あるいは不通。臣の亡き済は、仇敵が天路を塞ぐことを実に憤り、百万の弦を鳴らして訴え、正義の声に感激し、まさに大挙せんと欲するも、突然に父兄が亡くなり、垂成の功をして一簣(モッコ一杯分)も獲れず。諒闇(一年の服喪)に在り、軍装の兵を動かさず、ここに休息するを以て未だ戦勝を得られず。今に至り、甲を練り、兵を治め、父兄の志を述べんと欲し、義士と勇士、文武に功を尽くし、白刃を前に交えるも、また顧みることなし。 もし帝德の覆戴を以てこの強敵を挫き、勝って方難を鎮めるも、前功に替えることなし。密かに開府儀同三司を自ら仮称し、その余も皆、各々に仮授(して頂ければ)、以て忠節を勧める」。 詔を以て倭王武を使持節、都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍、倭王に叙爵した。

宋書倭国伝には倭王を新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸を軍事的に支配する「安東大将軍」に任じたと記述してあります。
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【三国史記】
402年 新羅は倭国に王子を質に出す http://www.koreandb.net/Sam/bon/samkuk/04_030_2000277.htm
397年 百済は倭国に太子を質に出す http://www.koreandb.net/Sam/bon/samkuk/04_250_2001365.htm
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好太王碑、宋書、三国史記という系統の異なる史料が「新羅と百済は倭の属国だった。」と記述しています。

【中国外交部】
ホームページ(www.fmprc.gov.cn)
「5世紀はじめ、大和国が隆盛した時期にその支配が朝鮮半島(韓半島)の南部にまで拡大した。」
現代の中国政府も朝鮮半島南部は日本の支配下だったという認識を示しています。朝鮮半島支配の点では、日本と中国は共通認識です。

「4世紀の朝鮮半島南部は倭国の支配下にあった。」 日本と中国の歴史学界の常識です。
# by 699yabuhebi | 2006-12-23 13:30 | 古代史

山神になった檀君

 13世紀に一然という仏僧によって書かれた『三国遺事』には、「唐高(尭)の即位五十年庚寅に平壌城を都とし、始めて朝鮮と称した。そ れから都を白岳山阿斯達に移した。これは弓忽山とも今於山ともいう。国 を治めること千五百年にして、周虎(武)王の即位己卯の年に箕子が朝鮮 に封 ぜられたので、檀君は蔵唐京に移り、後また阿斯達に隠れて山神とな った。 寿千九百八歳であった」とある。



 中国伝説上の皇帝である「尭」の即位50年というのを、西暦になおすとBC2333年になるのだそうだが、もちろん中国では、これを史実とは考えていない。BC2383年ころの中国はまだ新石器時代であり、甲骨文字さえ生まれていないのだから、尭を含む「五帝」の伝説はあくまでも伝説なのだ。

 ところが韓国では、おもしろいことに、尭の即位50年後と記された檀君即位が史実だと信じられており、国定歴史教科書にも「歴史的事実」だと強調されているのである。

 韓国人が「ウリナラの歴史は半万年」と誇る根拠が、これだ。

 これほど根拠薄弱で荒唐無稽なできごとを実際にあったできごとだと考えているのは世界中さがしても韓国人だけであろう。実に滑稽な話だと思う。

 尭帝の伝説は、司馬遷の『史記』に書かれたのだから、普通に考えれば、檀君の話は『史記』以降につくられた話だとするのが妥当だが、韓国人はそうは考えない。あくまでも13世紀の一然の著作は完全であり、間違いはないと考えるのである。

 しかも、檀君の祖父とされるのは桓因という名であり、これが帝釈天の別名であり、元来はインドの神様インドラであることはよく知られている。

 であるなら、どうしても、この話は韓国に仏教が伝わった4世紀以降につくられたはずであるが、それでもやはり、紀元前24世紀に朝鮮という国が建国されたと韓国人は考えるのである。

 それどころか、中国4000年の歴史に対して「ウリナラ半万年」だから韓国の歴史は中国の歴史より古いと主張するのである。こうなると滑稽を通り越している。檀君伝説をよく読めば、この話はむしろ韓国の歴史が中国の歴史の一部であることを示しているのである。

 そしてまた、国を治めること1500年というのだから檀君も長生きだ。いくら熊の子だからと言っても、そんなに長生きするものだろうか。寿命は1908歳だという。これを韓国人はみな「歴史的事実」だと頭から考えているのだからスゴイ。

 韓国の子ども用の歴史教科書では、ひとりで1908年生きたのではなく、檀君は「檀君王倹」という称号だったと歪曲している。一然の話をねじ曲げているのだ。

 もちろん、これはでっち上げの解釈であり、中国の文献では「王倹」は平壌の古名であり、王の称号などではないことは世界中でよく知られている。このあたり、一つ嘘をつくためにいくつも嘘をつかざるを得なくなっているのである。韓国という国のおかしさは教育者や政府、学者が平気で嘘をつき、一種の愚民化教育をおこなっていることだ。

 これでは、知性のある人々が国外への逃亡をはかるのも無理はない。



 ところで、熊の子である檀君は中国からやってきた「箕子」に遠慮して「山神」になったというのだ。中国人に対しては檀君でさえ事大し、遠慮するのが韓国人である。そういう意味では韓国人の卑屈ぶりが滲み出ている。

 桓雄もニンニクとヨモギを食わせてセクスするなんて、帝釈天の息子の割には韓国人の先祖らしく好色だ。何も熊を性奴隷にしなくてもよいと思う。



 13世紀につくられたつくり話ひとつとっても、民族性がよく出るものである。
# by 699yabuhebi | 2006-12-23 13:29 | 古代史