韓国との歴史認識の共有は可能かを探る
by 699yabuhebi
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【韓半島1921】台湾官僚の目に映った戦前の朝鮮半島

昔の新聞でこんな記事を見つけました。
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台湾と朝鮮の農業 朝鮮農民の怠慢を惜む 京城日報 1921.6.27(大正10)
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 朝鮮に来て逸早く感じたのは一農民が元気を欠いでいる事、換言せば怠け者が多いと云う事である、之を台湾の農民と比見せば全くお話にならぬ位で併合後十年の朝鮮と施政後数十年を経過せる台湾とを同日に論ずるの不可なるは勿論であるが、それにしても余りに怠け者が多い、試みに台鮮両農民を照合すると彼は頗る元気であって智識欲の旺盛なる結果耕作の上に甚大の効果を齎す現に台湾の一部しか占めない水田のみによる米の収穫でも一年百万石の多量を算し自給自足して余りある結果ドンドン輸移出するの盛況を示している、猶此外に砂糖及び茶の産額の多量なる事既に世界的定評を博せる所であって其質逐年に改良され其量年と共に増しつつあるに見ても此間の消息を知る事が出来るであろう、然るに朝鮮の農民にありては殆ど智識欲に欠乏し引いて農事の改良を策せず所謂其の日かせぎに甘んずるの結果遂に幾百年来の農業国も空名無質にして忸怩たる有様ではないか、田制改革は固よりながら鮮ちんぽ人に智識欲の欠乏せる事殊に細民たる一般の小作人が金を得るの欲を欠ける事、此所に主張がなく要求がなく常に貧にして常に虐げられ消沈徒に膝を擁して甘んじるの腑甲斐なき結果が生れるのである、台湾人は更に金を欲する、金を欲するが故に決して怠けない、酷熱肌を焼く炎天下に笑を含んで労働を楽める様は一度朝鮮ちんぽ人に見せたい位である、然らば何故に台湾人は斯くの如く働くようになったのであろう、そして何故にかく進歩したかと……夫には大なる原因がある、即ち監督官庁と一般農民との中間に所謂中堅階級が出来た為である。精糖会社が出来る工場ができる、人物が渡する、資本が渡って来る、機械が移入される、茲に於て会社の能率を上げんとならば一般農民の知識を高めねばならぬ、彼等を安じて働かすには自ら収穫を増さしむる必要がある、そこで中堅階級が直接に彼等を助成し指導する、遂に今日の発達を来たせる所以で由来農業の進歩を期せんとならば堅実なる工業的中間階級の手によって徹底的に之を指導するの外はない、然るに朝鮮はどうであるか農業を助長すべき工業がない、監督官庁と農民との間は宛ら雲泥の隔たりがあって有利に然も直接に指導するに困難を生じている、従て朝鮮には誇るべき何等の名産すらないではないか、台湾とはまるで反対である(大島台湾試験場長談)。

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台湾人農民は「欲がある/知識欲がある→元気良く働く→大成功」
朝鮮ちんぽ人農民は「欲がない/知識欲がない→元気がなくて怠け者→ずっと貧乏」
何故、このままでなかったか、今の韓国人は良く考えて見ましょう。
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by 699yabuhebi | 2006-12-23 13:25 | 近現代史

「ならず者」か「重税」か。「親日」か「因循」か。

【韓半島1894-1910】「ならず者か重税か」「親日か、因循か」当時他に選択肢なんてなかった。

 戦前の日韓併合期について振り返るとき、「日本人の罪」と「日帝の罪」を絶対に混同してはならない。本来なら歴史教科書の中でも書き分けが必要な筈である。

 「ソルジャー・ブルー」の様に「騎兵隊によるインディアン虐殺」を主題とした映画があるせいで「アメリカ政府がインディアンを滅ぼした」と思ってる人が多いが、それは誤解である。実際に不法行為と掠奪でそれを行うのは主に「開拓地の無法性に引き寄せられた破落戸(ごろつき)達」で、騎兵隊はそれに対する原住民の報復が酷くなり過ぎた段階で討伐に立ち上がるに過ぎない。日本開国の折も諸外国の破落戸達が大量来日し、外国人裁判権が日本側にないのを利用して悪事を散々働いた事が記録に残されている。とはいえ日本の破落戸達も負けず劣らず悪辣で、日清戦争決着後の朝鮮半島においても沢山の悪名を残している。

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日清戦争直後の895年、朝鮮駐在公使となった井上馨が見た『大陸浪人』達
(『朝鮮の悲劇(F.A.マッケンジー)』より)
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 「彼らは、粗野、無礼ななだけでなく、朝鮮ちんぽ人を侮辱する。応対において粗暴で、些細な揉め事でも拳骨に訴えて事を処理する事を躊躇わず、相手を川に投げ込んだり、武器に訴える事さえ珍しくない。商人さえもしばしば乱暴者に変貌するので同罪であるが、商人でない者の乱暴狼藉ぶりは輪を掛けてひどい。その上彼らは自分達が朝鮮を独立させ、東学党を鎮圧したのであって、自分達に抵抗や不服従をあえてする朝鮮ちんぽ人は忘恩の徒であると言い立てるから始末に終えない」

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ジョージ・ケナン氏による『ニューヨーク・アウトルック』誌上における弾劾文(1905年)
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 「韓国人は、遺伝と教育によって、その大部分がおおげさなもの言いをする人間か厚顔無恥の嘘吐きである。だから日本の非行に関する彼等の主張を受け入れる際にも独自調査や日本人自身の証言との照合が欠かせないが、それでもその証言の中に相当の真実が含まれている事は否定出来ない」

* この大前提を聞いた途端に以降の話の受容を完全に拒絶する頭脳しか持ち合わせてない韓国人は、自民族の尊厳を守る為に自らの手で抹殺すべきである。今この瞬間も韓国人は、その行為によって味方を急速に減らしつつあるという事を忘れてはいけない。
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 「最初の頃韓国に来た日本人は、たいがいが手っ取り早く富を得ようと考えており、その目的を達成する為には手段を選ばない様な連中だった様である。韓帝国の福祉やその政治への配慮など期待すべくもなく、監獄行きにさえならなければどんな行動でも許されると考えていたに違いない。彼等の多くは、まさに我々のうちあるものがインディアンの権利を扱ったのと同様の方法で彼等の権利を扱ったのである」
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 「次にやってきた日本人移民は、機会さえあれば原住民を騙しただけでなく、法的制裁のない事をいい事に個人的虐待を平気で行い力づくで彼等の財産を自分のものとした。もちろん日本当局はこういう事を認めず、それを防ぐために出来るだけの事をしたのだが、五、六万にものぼる多数の日本人移民が、アメリカのインディアナポリス州の2倍以上もあり、かつアラスカほどに交通機関の欠乏しているこの国の全土に散らばっているのに対し、それを取り締まる領事が半ダースもいない状況ではそれが取り締まりきれる筈など到底なかったのである。韓国人側虐待者は(通商条約により)彼ら自身の国の官吏による保護も彼ら自身の法廷で救済を受ける道もなかったのだから全く無防備と言って良かった」
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 「(さらに問題を複雑化しているのが)韓国人の態度で、こういう事を全て『日本当局の不正』と信じ、そうしか主張しないのである。例えば日本人鉄道工事請負人による土地の占有や韓国人労務者の雇用に関する紛争や苦情を見てみよう。これらの企業やその従業員は、土地代金や労賃の支払いを土地の所有者や労務者本人でなく韓国政府やその官僚に対して行い、それによって支払いを受ける資格のある人に支払額が公平に配分されたものと信じている。しかし実際には土地を収用された人物が弁償を受られず、労働の対価が支払われずに放置される場合が多数を占め、それで訴訟になるのであるが彼らは愚かにも『少なくとも話を聞いてくれる』日本当局を訴えようとし、敗訴して勝手に反日感情を募らせていくのである。この問題は結局、日本当局が支払った金が支払われるべき人に支払われるまで監督する事でしか解決されない筈である。」
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 「また日本はソウル近辺に純粋に軍事技術的見地より土地収用計画を立てて当該地に旗や杭を立てているが、それが本当にそのまま実行されるとしたら3ないし4平方マイルにも及ぶ、千百戸以上もの家屋を含むといわれている地域をも含む広大な土地が奪い取られる事になるだろう。もし軍当局が仮にもその計画を実行に移し、庶民にとって盗賊に過ぎない彼ら自身の政府に補償を得させようとするなら最高の不正義を託つ事になるであろう」
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 結局、こういった『(通商条約のせいで日本人にしか取り締まれない)不良日本人』の暗躍に歯止めが掛かったのは、日露戦争によって朝鮮半島における日本の覇権が確立した後だった。

 伊藤博文が初代総監として就任すると、新設されたばかりの統監府は捕盗庁を廃止し、文民警官で構成される地方警察へと置き換え始めた。彼らは概ね公平で融和的であり、しかもその数が増加するにつれて過酷で専横な振る舞いにより悪評を買っていた憲兵隊の駐留規模が縮小されていったのでそれなりに好評で迎えられた。

 問題はそれとバーターで引き受けさせられた税収の押収である。

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韓国統監府の土木事業 『朝鮮の悲劇(F.A.マッケンジー)』
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 「日本はその統治の最初の段階においては、軍隊を各地の要点から要点へ容易かつ迅速に移動させる事を念頭に置いていた。釜山からソウルまでの鉄道は既に敷設を終えていたが、さらにソウルから義州に至る鉄道の完成を急いでいた。これが完成すれば日本軍の大部隊を日本本国から満州国境地帯まで36時間で移動させられる様になる。1千万円の借款が韓国税関を担保として調達され、そのうち150万円が主要港湾もしくは主要鉄道中心点と主なる地方を連結する四大幹線(鎮南浦-平壌間、木浦-光州間、群山-全州間、大邸-慶州間)建設の為に当てられたが、それだけでは到底足りず残りは特別地方税でまかなわれた。さらにソウルから東海岸の元山に至る鉄道の建設が平行して進められ、完成間近となっていた」

* この幹線が存在しなければ後の時代における朝鮮半島の飛躍的発展もなかっただろう。しかし当時は日本人にも韓国人にも「国が豊かになる為に地域産業を振興させなければならない」という使命感は芽生えてなかった。当時の朝鮮半島では内陸旅行や荷物輸送の手段として馬に載ったり駄馬に積んだりする方法しか知られてなかったが、それは「車輪付の乗物の通行を一切拒絶する」古くて狭くて急勾配の道路しか存在してなかったからである。「これが産業育成を阻んでいる」と気づくには海外留学の必要があり、それを率先して唱えた人々は後になって悉く「親日派」等のレッテル貼りを受ける事になった。彼らを弾劾し続ける以上、「韓国の発展のために新たに現実的な国家計画が必要だ」という発想が再び生まれてくる事はない。

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 朝鮮半島住民にとっての課題が「親日派か、時代の流れに逆らう因循派か」に集約されてくるのはこの頃からで、その課題は韓国に引き続き継承される事になった。この問題の解決がいかに難しいかは、解放後「親日派も時代の流れに逆らう因循派も両方粛清する」という荒療治を試みた北朝鮮において「戦前うまくいっていたシステムが次々と機能しなくなっていく」という惨禍に遭遇した事を見ても明らかである。また「朝鮮総督府の支配に信じられない程長期間抵抗を続けた」という意味で以下の様な者達を英雄として崇拝しなければならなくなる。
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無謀な搾取をする不良舎音の大整理
全鮮約三万三千人中から 適当か否かを当局で調査を急ぐ

京城日報 1934.4.20(昭和9)
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 農村の癌的存在とされている舎音(徴税請負人)について本府では、届出を機会に不良舎音の大整理を行う方針のもとに各道に調査せしめ、不適当と認める者は廃業を命ずることとなった、農林局の調査によると全鮮の舎音は京鉄道の七千五百十九名を筆頭に三万三千百九十名に及び、その大部分は農村に於ける中間搾取者として小作人から無謀な搾取をなしているもので、この届出方針に対し戦々恟々としているが、現在の舎音は旧慣による不良が多いのでその大部分は更新されるものと見られている。
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韓国人はそろそろ「戦前の捉え方」全体の見直しに入った方が良いのではないか。
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by 699yabuhebi | 2006-12-23 13:23 | 近現代史

韓国併合における日韓双方の前提

日韓併合期について、日本人と韓国人が議論する前にまず思い浮かべて欲しい事がある。
「飢饉の最中の狼は、あえて貪らない」という事についてである。

 朝鮮半島経営の為、朝鮮総督府は併合から最後の年までずっと毎年1000万円以上の補給金を内地から支給され続けていた。頼みの綱である内地からの民間融資が「併合前の義兵運動の猛威」「日本人移民と現地住民の衝突」「31独立運動」などの印象もあって中々集まらなかったからである。現地では「(教会系活動家慰撫の為の)信仰と布教の自由の保障」「公務員の給与格差全廃」「ハングル教育」「(生産性向上の為「奉公/勤労の精神、共同の精神、自助の精神」の浸透から始めた)農村/労働指導」「交通インフラ整備(1919年以降は鉄道経営の満州鉄道委託を取り止め、国内の産物輸送を最重要課題として図們腺、恵山線、満裏線、東海線、慶全線を12年掛けて敷設する計画を立てる)」「(貧困農民救済の為の)貸付金の金利引下げ」等の地元住民懐柔策が次々と施行されていったが、その程度の事では、朝鮮半島住民の心の中に鬱屈した「国を奪われた悲しみ」「国政に参加出来ない怨嗟」「いくら働いても暮らしが楽にならない徒労感(日本の農民も、朝鮮半島の農民も、生活費入手と借金返済の為に米価暴落の最中に育てた米を一粒残さず売るしかなかった1930年代には餓死者も出た。また中の下のサラリーマン家庭の食卓は、子沢山のせいもあって「生きているのがやっと」という事が多かった)」は中々晴れなかったのである。


 1922年以降は朝鮮系官僚や父兄会の多くが反対したにも関わらず日本語教育を義務化した反感を和らげる為、日本人用学校においても朝鮮語教育が義務化され、日本人官僚に朝鮮語学習が強く推奨されるに至った(逆に戦争が激化した1937年以降朝鮮語が義務教育から外され、1942年以降は教育カリキュラムそのものから外されたが、日本語教育が既に浸透していた事もあって大きな騒ぎにはならなかった。当時としてはそれより遙かに「日本語を覚えないと出世できない」事の方が重要だったのである)。こうして見る様に当時の日本人が、いかに朝鮮半島住民の反日感情を刺激しない様に気を遣っていたかは明白で、だから「(朝鮮半島住民に反日蜂起の口実を与えて全てを台無しにする様な)あからさまな掠奪や横領は原則として避けただろう」と、考える訳である。


 当然、「黒字達成」後は話は変わってくる。

 もし万が一、土下座してでも日本政府から補援金を引き出し続けないといけない惨めさからも、資本誘致の為に本土企業の視線を絶えず意識し続ける緊張感からも解放されていたら、それまで耐え抜いてきた朝鮮半島はどうなっていただろう? 万歳を叫び交わし、お互い涙を流しながら抱き合った後でどうなっていただろう?


 韓国人側もその場面が想像出来る様になってやっと「第一ラウンド」が始まる。最近、そんな風に思えてならない。
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by 699yabuhebi | 2006-12-23 13:21 | 近現代史

韓国歴史教科書の検証-日本人地主による収奪(4)

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論点3:日韓併合後の朝鮮・人地主はどういう状態であったか
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【傍証】Wikipedia 韓国併合
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 朝鮮総督府は1910年 - 1919年に土地調査事業に基づき測量を行ない、土地の所有権を確定した。この際に申告された土地の99%以上は地主の申告通りに所有権が認められたが、申告がなされなかった土地や、国有地と認定された土地(主に隠田などの所有者不明の土地とされるが、旧朝鮮王朝の土地を含むともいう)は接収され、東洋拓殖株式会社法(明治41年法律第63号)によって設立され、朝鮮最大の地主となった東洋拓殖や、その他の日本人農業者に払い下げられた。これを機に朝鮮では旧来の零細自作農民が小作農と化し大量に離村した。朝鮮総督府は東洋拓殖会社の一部の資金で朝鮮半島で日本窒素などの財閥に各種の投資を行った。日本の統治下で、李朝時代の特権商人が時代に対処できず没落する一方、旧来の地主勢力の一部が乱高下する土地の売買などによって資金を貯め、新興資本家として台頭してきた。これらの新興資本家の多くは総督府と良好な関係を保ち発展した。
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【新聞記事】満州日日新聞 1928.7.26(昭和3)
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朝鮮の大旱魃 水稲植付不能十八万町歩約二百万石の減収か 【京城特電】

 京□道の旱魃は二十七年振の大旱魃と称せられている七月二十日現在の本年度水稲植付成績は全鮮を通じ八割七分二厘に過ぎず遂に十八万一千町歩の植付不能を示した、之れを大正十三年の大旱害に比すると十一万八千五百町歩多く、この結果今年の鮮米収穫高は二百万石減収を予想される、最も甚だしきは京幾、慶北黄海の三道にて何れも三割の植付不能である

*この年には餓死者が出ておらず、最低でもその一点において李氏朝鮮時代より生活が改善していた筈だが、その事を朝鮮・人が日本人に感謝した形跡がない。おそらく「過去に比べてそれ程向上を実感出来ない状況にあった」か「昔から公式の場で発言するのは両班層の特権とされており、その両班層が当時もなお地主層として存続しており、彼らが昔同様小作人が死のうと生きようと何とも思ってなかった」かのいずれかであろう。
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【日韓併合当時の証言】 「歴史民俗朝鮮漫談(今村鞆/南山吟社)」昭和三年 1928年) 
*韓国併合以前から統監府官吏だった今村鞆による二十年前の回顧
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 良民は新政を喜んだが、両班儒生の大多数は、新政に反対した。時勢を解した両班は、従前の行動を改めたが、中には民衆の無知に乗じ、依然として昔ながらの、横暴振を逞(たくまし)ふして居る者も多かつた。下民の身分を省みず、両班の前で喫煙したとか、馬で乗打をしたとか、いふ様な、良民が時勢に目醒めてする、従来の習俗に反する行為を咎め立てて、罵倒殴打する、等の事により、債務のカタに人や馬や財産を強収拉去する、なほ甚だしきは、土地の境界不明に乗じ、良民の土地を侵犯するといふ、慣行手段の悪事を公行して居たが、被害人民は、なほ十分に官庁を信頼せずして、申告しなかつた。この土地侵略の悪風は、土地調査事業完成の為根絶し、良民は該事業を、心から良制なりとして謳歌した。一体に悪両班は、自己の悪事が出来なくなりし為め、新政を呪詛して居た。

*これは間違いなく今日の「民族的反日感情」の起源の一つです。もしそれが全てだったら「殆どは庶民である」韓国人はとっくの昔に自発的に「何かおかしい」と気付いていたかもしれません。
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【関連概説書における見解】「歪められた朝鮮総督府(黄文雄/光文社)」1998年
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 (東拓の)土地調査事業によって役人や地主の懐にしかはいらないような「隠田」がたくさん発見された。この登記に関する不法地主からの抗議は1920年までに2万148件が高等土地調査委員会が受理したが、農民が不法に追い出されたという事実はない。また、「日本人が小高い丘に登ってあたりを見渡し、土地を指さして手当たり次第に良田を奪って「った」という事実もない、この話は李氏朝鮮時代の両班(当時の特権階級のようなもの)のしたことを日本に擦り付けているだけである。

*国の歴史教科書はこの「東拓が押収した宅地の大半は地主の隠田だった」の部分を「奪われたのは自作農の耕地であり、その結果自作農の大半が小作人に転落した」としている訳である。ヘソクリを盗まれて「会社の公金に手を付けた」と告訴する様なものだ。詳細は不明だが今日の「親日派(チルンパ)」財産押収も同様のロジックでないかと思う。
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【新聞記事】京城日報 1934.11.21(昭和9)
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高利に喘ぐ朝鮮-内地比較実に六厘七分の高率
貸借平均利 内地人一割六分 朝鮮・人一割八分

 殖銀調査-昭和九年四月現在における朝鮮の不動産個人間普通金利は元金一千円に対し実に全銭平均内地人間一割六分六厘、朝鮮・人間一割八分五厘、内鮮一割八分二厘、定期預金利率四分五厘水準、貸付七分五厘の水準にあり金融機関に比し驚くべき高率にあるが、前年同期に比すれば、これでも低利深化傾向を示し、内地人間二分朝鮮・人間一分三厘、平均六厘の各低落に当っている。

 しかしてこれを道別にみるときは、最高は内地人忠北の一割八分四厘、最低は平南の一割四分で前年に比し最高一分三厘、最低一分八厘を各低下、鮮・人側では咸南の二割三分を最高に最低平南の一割三分六厘で最高一分最低一分七厘の各低下となって居り平均金利は咸南を最高を最高として平南北が最低である
 上記鮮内々地人金利を昭和九年四月の内地における勧銀調査に比較するに内地の最高は青森県の一割二分九厘九毛、最低は香川県八分一厘九毛、平均九分八厘九毛になるをもって、朝鮮は内地に比し最高率で五分四厘一毛、最低において五分八厘一毛、平均六分七厘一毛の高率にあたり鮮・人個人貸借の著しき高率なるを示している

*先に挙げた歴史教科書中に「穀物を買い人れるために朝鮮農民に金を貸しその代わりに農地を差し押さえたり、農地を抵当にとる高利貸金業によって農地を奪い取ったりして、次第に土地所有を拡大していった」との記述があるが、「小作人に対する高利貸し」は実は昔から両班層の副業とされてきた(これについては近世までの日本の中小地主層も同様)。以降日本はこれら高利貸付の弾圧に踏み切っていくが、それに対して頑固に反対し続けたのは地主業より脱却を遂げたばかりの新興朝鮮・人資本家層だったという。

*ちなみに上で「農民に対し貸付を行ない、その元利の返済がないことを理由に担保の土地を奪ってきた」と弾劾されている東拓の金利は1933年の段階で8%、その後の低金利指導により1935年には6%となっている。
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【新聞記事】京城日報 1934.12.12(昭和9)
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 没落過程の開城市辺 低金利、人蔘不況の圧迫で

 市辺金融は李朝圧制下に生れた開城独特の金融組織でその古き伝統と信用を擁して牢固たる城郭を形成し大正六、七年の全盛期には運転資金一千万円突破の好況を示していたが、最近に至っては低金利の波に乗じた殖銀漢銀支店金組の圧迫及び此処数年来の人蔘不況の大打撃を受けて急速度の衰微を辿り運転資金は現在漸く三百万円程度に減少しさしもの開場市辺は没落の非運に逢着している
 即ち市辺の対象は商業其他の金融が約五割人蔘金融が約五割を占めているが商業其他の貸付率は往年の一ケ月金利一分七厘五毛から最近に於ては月一分乃至一分一厘程度に顛落しており、年二回の仲買人組合の利率決定に於ても昨年から商工会議所が立会って公平に定めることになっている状況で一方人蔘金融も紅蔘の対支輸出不振から甚だしく不振に陥っている、さらに市辺の一部門をなし黄海南部京畿北部の庶民金融として活躍した差人制度も低金利の浸潤金組の活躍に押されいる状態である
 このようにローカル・カラーを多分に有する市辺の没落は要するに時勢の然らしめるところではあるが鮮内金融機関の健全な発達を示す一証左と見られている 。

*江戸時代に武士の財布を牛耳っていた差札業者も明治の到来で全滅しているが日本ではそれに同情する声は起こっていない。しかし韓国人の考え方は違う様でこれも歴史教科書中で「日帝の悪行」の一つに挙げられている。
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【新聞記事】 京城日報 1928.7.3(昭和3)
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地主と小作農

 小作争議の対策としての、自作農の奨励維持は、たしかに争議を減少せしめるためには有効である田中内閣は、社会政策的立場から山本農相のいわゆる自作農法案を来議会に提出せんとしていると聞く。これは財源が許すならば誠に、結構なことであり、農民党としての政友会の提唱しそうな題目である。しかし。わが輩は今これについて彼これいわんとするのではない、かくの如き内閣の方針を聞くにつけても、朝鮮の小作農問題を如何に解決すべきかということを考えたのである。

 従来内地の小作問題の中心は、他の総ての経済問題とひとしく分配の不公平からおこっている。七三にせよ四分六にせよ、地主と小作農との収穫の分け前の問題である。であるから内地の小作法もこの点に注意されているのは当然である。分け前さえ公平であれば問題はないのだ、しかし朝鮮の小作問題は果してこの内地の論法で解決出来るかどうかということに吾輩は一個の大なる疑問を抱いている。諸外国乃至内地の小作法や小作争議を参照して、果してよく朝鮮の小作問題が解決可能であるかどうか、吾輩はここに一個の問題を提供したいのである。聞く処によれば、朝鮮の小作問題解決について論ずる人々は、余りに外国の事例や内地の法文などを参照し過ぎているように思われる。親く地方の実情を視察し、地方の官民有志の声を聞けば、いよいよこの感を深くせざる得ない。地主の多数を中央に有している朝鮮では地方の事情に暗くして、兎もすれば地方からの実際的経験的意見に耳をふさぐ傾きがありはせぬか、若しありとせばこは小作問題の前途の為に遺憾に堪えない次第である。

 われ等の卑見を以てせば、朝鮮の小作問題は、地主対小作人の分前の問題を論ずる他に、小作人をして安んじて耕作しうる在る期間を与うることが緊急事ではあるまいかと思う。詰めり端的にいえば小作権の確立である。内地の小作争議も、この小作権の確立が重要視されている、否寧ろ小作問題の中心となっている、しかしそれは、分配問題を一たび通過して後に来る小作権の確立であって、いはば小作問題の中心でありかつ最後的の重要問題である。しかし朝鮮における地主対小作人関係を見るにこれは内地と余程おもむきをことにしているようだそれは従来の慣例にもよるであろうが、舎音即ち土地管理人に一切を委任して地主はただその収穫の多きを望んでいる昔風の殿様生活をしている結果、小作人の耕作権を徹底的に左右しうる権能を有し、その間種々悪辣なる行為に出でていることは、一たび地方に行けば耳も□する許りに聞かされるのである。その実例の一つとして、地主の当然負担すべき公課を小作人から徴収し、或は地主の負担すべき運搬費を小作人に課し、甚だしきは封建時代の悪風たる無償の労力提供強制が、しかも一年の農繁期に三回も行われているということである。一ヶ年の収入僅に百円乃至二百円内外の小作人に対するこの強制は、実に時代を無視した暴圧行為といわざるを得ない。

 わが輩の眼から見れば、朝鮮の地主はあまり暴虐である、小作人に対する同情よりも寧ろ義憤を発せざるを得ない。しかも地主舎音は、小作人にしてこの命令を肯かない場合は遠慮なく田畑を取上げてしまう。前年肥料を入れておいた水田を何等の顧慮もなく取上げてしまう。だから小作人の耕作人の耕作期間は僅かに二年乃至三年、□々として同一地主の小作人は変ってゆく。そして取上げられた小作人は、明日から生活のアテがないから更に暴虐なる地主にも叩頭して耕作せざるを得なくなる、かくして小作人は常に虐げられてゆく、これは実に由々しき社会問題であるのみならず、産業開発を阻止する大問題であらねばならぬ。本府の大方針たる細農救済資金もかくした哀れな小作農を救うて更に大いに働きうる力を与え、かつその生活の安定向上の為になされた施設であることは今更いうまでもないことだ。然らば朝鮮の小作問題を考察するに当たっては、まずこの悪地主や悪舎音の弊風を除去して、小作農をして少くとも相当長い間意を安んじて耕作しうる期待を与うることが緊急ではあるまいか。舎音の弊を矯め、小作人の耕作権確立こそ緊急欠くべからざる問題であろうとわが輩は思うのである。

*「朝鮮半島における小作人の待遇改善問題」を要求したのはむしろ一般の日本人であり、それに反対したのは「朝鮮半島を無用に刺激してはならない」と考える政府筋『穏便派』と「内政干渉」を言い立てる朝鮮・人地主達であった事の傍証。ちなみにこれは単なる人道主義に基づく感情論ではなく、同時期の日本において農政関連法規が改善された結果、自作農が増加してそれが国内農業の活性化につながった事を踏まえての経済提案だった。
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論点3の結論:
 日韓併合後、朝鮮・人地主の一部はその本質を維持したまま資本家への脱皮を遂げたがそこには民族主義が資本主義の原則に優先する韓国型資本主義の萌芽が既に見られる。
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by 699yabuhebi | 2006-12-23 13:06 | 近現代史

韓国歴史教科書の検証-日本人地主による収奪(1)

 中国の「東北工程」問題が浮上し、韓国人の間でも「いかに捏造を見破り論破するか」が話題になっている事と思います。せっかくの機会なので、「こういう具合日本人はこう考えていく」という一例を挙げておきます。
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例題:韓国の国定歴史教科書中の記述】 日本の土地略奪について
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 開港直後に日本商人は開港場内の一部の土地を惜りて使うことに留まっていた。しかし、彼らは活動範囲が開港場の外に拡大するにつれて、穀物を買い人れるために朝鮮農民に金を貸しその代わりに農地を差し押さえたり、農地を抵当にとる高利貸金業によって農地を奪い取ったりして、次第に土地所有を拡大していった。清日戦争(1894年)以後、日本が朝鮮に強力な影響力を持つようになると、日本の大資本家が大挙浸透し全州、群山、羅州一帯で大規模な農場を経営するようになった。

 日本人による大規模な土地略奪は露日戦争(1904年)を契機に本格化した。日本は鉄道敷地と軍用地の確保を口実に土地略奪を勝手に行なった。日本は京仁線と京釜線を敷設し、鉄道敷地中の国有地は略奪し、私有地は朝鮮政府が所有者から買い入れて提供するように強要した。そして彼らは軍用地に必要な地域はほとんど制限なく占有し、軍用地を口実に駐屯地付近の土地を大量に略奪したりした。また、日本は朝鮮の荒蕪地の開墾と駅屯土の収容による土地略奪を企てた。国権を奪われたころに日本人が朝鮮で所有した土地は実に1億5000万坪に達した。このように日本が莫大な土地を略奪したのは、朝鮮の植民地化のための基礎作業であった。

 朝鮮総督府は奪取した土地を東洋拓殖株式会社をはじめとする日本人の土地会社や個人に安値で払い下げた。突如、土地を略奪された農民は日帝当局にその不当性を抗議したが、日帝当局は正当な事由がないとして無視した。こうして不法に奪取された耕作地は全国土の約40%にもなった。

 いわゆる土地調査事業の実施は韓国農民の生活基盤を徹底的に崩した。従来の農民は土地の所有権とともに耕作権も保有していたが、土地調査事業以後、多くの農民は期限付き契約による小作農へと転落してしまった。そうして生活基盤を喪失した農民は日本人の高利貸に苦しめられ、生計維持のために火田民になったり、満州、沿海州、日本などへの移住を余儀なくされた。
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まず最初に専門家の意見を照会してください。可能なら相手国の研究者が望ましいです。
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【学術的本論文】「日帝下・朝鮮経済の発展と朝鮮・人経済」許粹烈
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半島全体の耕地面積と生産高

朝鮮半島の耕作地面積は、土地調査事業が完了した1918年よりほぼ一定のまま推移する。畑が田の倍の面積を占めるが、1942年以降は両方微減となり、特に畑の面積減少が目立つ。この時代には土地改良事業により畑の田へと転用が進められたが、転換済の土地でも畑作が併用され続けたり、品種改良、施肥量の増大、灌漑設備の拡大等により耕作面積が減少しても生産例が維持される事も多かった。生産高については米穀で52%、それ以外の作物で31-35%の増産となっている(1911-15年間の5年平均と1935-44年間の10年平均の比較からの算出費)。
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日本人所有耕地の推移

日本人所有耕地面積は一律に増加したものでなく、1910-15年、1928-35年の2度にわたり急増している。1910-15年の間の増加は、東洋拓殖会社の社有地の増加によるもの(*1)で、1928年以後の増加は農業恐慌で朝鮮・人土地所有者が大量に土地を売り渡し日本人がそれを購入した為であった(*2)。日本人所有耕地面積は1935年にピークに達し、1932年以降には大体40万町をやや上回る水準に達する事となった。

(*1) 1910-15年間に日本人所有耕地面積は69.312町歩から99.696町歩に増加したが、同じ期間、東拓社有地は10.994町歩から57,730町歩に増加している。これは全体の58%に当たる数字である。

(*2) 朝鮮の耕地構成は、畑が田の2倍程度だが、日本人の場合は逆に田が畑の2倍以上になっている。例えば1935年における日本人所有耕地の割合は10.2%だが、田に限って見ると18.3%と高い値を示す。道別に分析するなら日本人大地主の保有地は田作の中核地帯である全羅南道と全羅北道、そして畑作中核時代の黄海道に集中していた。全羅道地域の中でも平野部、平野部の中でも生産性が高い水利組合地域が多く一反部辺りの収穫量が平均値の三倍以上という良田が多い。土地肥沃度も計算に入れた朝鮮銀行と京城商工会議所の計算方法によれば田全体の生産力のうち1931年の44%、1941年の54%を占めていたという考え方も出来る。農業生産物の民族的配分に注目すると1941年の場合で全人口の0.2%を占めるに過ぎない日本人が全体の15%を占めていた。
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【参考】朝鮮半島人口の推移と関連事項
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年度  朝鮮・人数 日本人数 備考
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1864年 802万2千 開国前 旱魃 
1876年  803万7千  百未満 旱魃/日朝修好条規 ←その割に減ってない
1885年  896万9千  百未満 
1891年  788万3千  0万9千 甲申政変/甲午農民戦争/日清戦争
1904年  709万9千  3万1千 旱魃(1901)/日露戦争 ←戦争の犠牲者含む(ごめんなさい)
1907年 1166万5千  8万3千 ハーグ密使事件/第三次日韓協約
1910年 1312万8千 17万1千 日韓併合条約/土地調査事業開始
1911年 1383万2千 21万0千 第一次日本人地主増加期
1912年 1412万8千 24万3千 第一次日本人地主増加期
1913年 1516万9千 27万1千 第一次日本人地主増加期
1914年 1562万0千 29万1千 第一次日本人地主増加期
1915年 1595万7千 30万3千 第一次日本人地主増加期
1916年 1630万9千 32万0千
1917年 1661万7千 33万2千
1918年 1669万7千 33万6千
1919年 1678万3千 34万6千 土地調査事業完了
1920年 1691万6千 34万7千
1921年 1705万9千 36万7千
1922年 1720万8千 38万6千
1923年 1744万6千 40万3千
1924年 1761万9千 41万1千
1925年 1854万3千 42万4千
1926年 1861万5千 44万2千
1927年 1863万1千 45万4千
1928年 1866万7千 46万9千 旱魃/第二次日本人地主増加期 ←全然減ってない

1929年 18784万千 48万8千 旱魃/第二次日本人地主増加期 ←全然減ってない
1930年 1968万5千 50万1千 第二次日本人地主増加期
1931年 1971万0千 51万4千 第二次日本人地主増加期
1932年 2003万7千 52万3千 第二次日本人地主増加期
1933年 2020万5千 54万3千 第二次日本人地主増加期(ピーク)
1934年 2051万3千 56万1千 第二次日本人地主増加期
1935年 2124万8千 58万3千 第二次日本人地主増加期
1936年 2137万3千 60万8千
1937年 2168万2千 62万9千
1938年 2195万0千 63万3千
1939年 2209万8千 65万0千 旱魃 ←全然減ってない
1940年 2295万4千 68万9千 旱魃 ←全然減ってない
1941年 2391万3千 71万7千
1942年 2552万5千 75万2千
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本論文の対象は「当時の朝鮮半島農業史」だけですが、それでもこれだけは言えます。

「(少なくとも耕作地に関して)本文中にある時期での本文中にある規模での土地接収はなかった」
.「当時の半島住民の大半が農民であった」事を勘案し「もし軍部が鉄道建設用地や軍需設備用地を接収したとしても、当時の朝鮮半島農業に与えた影響はほとんどなかった」とはいえる。
ところで本論文は以下について綿密な検証を行っています。

「日本人地主の保有する田畑は圧倒的に収穫が良かった」
「日本人地主はそれなりに高い収穫物配分を受けていた」
「なので日帝の地主が良田を独占し収奪していた事実に変わりはない」
ところが、よく読むと「この時代『品種改良、施肥量の増大、灌漑設備の拡大等により』収穫高の向上が図られた」という言及があり、これに関して以下が証明できれば前提が崩れます。

土地改良等を行ったのは主に日本人地主であり、
配分比率の高さがその投資分回収と技術提供の代価と解釈出来て、
その結果現地小作人の生計を朝鮮・人地主より圧迫した訳ではない。
この線に沿って関連資料/史料の検証を進めていきます。
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by 699yabuhebi | 2006-12-23 13:04 | 近現代史

日本統治時代の石窟庵

日本人旅行客
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by 699yabuhebi | 2006-12-18 00:06 | 古代史

エッカート教授『帝国の申し子』

ハーバード大学の教授が考えた韓国発展の理由
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 Carter J Eckert「OFFSPRING OF EMPIRE」

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「漢江(ハンガン)の奇跡」――韓国が解放後30年間に果した驚異的な経済成長を、世界の学者たちはこう表現した。この奇跡をもたらしたものは何であったか?  本書は、1970年代に「驚嘆する劇的な変化」を目の当りにしたアメリカ人研究者が「その現象の歴史的背景」を、一切の予断と偏見を排して解明した「韓国社会経済史」である。

韓国の一般的学説は資本主義の「萌芽(メンガ)」を李朝時代に求める。17世紀に芽生えた朝鮮の資本主義は、十分に成長する前に外国の圧力にさらされ、そのため日本の経済進出に耐えきれず、1910年の日韓併合による植民地化によって、1945年まで大きく抑制されていた、というのが、朝鮮半島の南北を問わず、堅固に定着した学説である。この説は「戦後史観」に立つ日本の歴史学者にも堅く信じられている。しかし、本書は「彼らの研究においては、論理より日本の行為を弾劾することで得られる感情的満足のほうが重要視されているようだ」と直言してはばからない。

1969年に平和部隊の一員として韓国に来た著者は、朴政権下で絶頂期を迎えた近代化推進の姿に驚嘆し、その歴史的背景に興味を抱く。そして東アジアと朝鮮半島の歴史研究に没入していくのだが、その結果知ったのは「資本主義の萌芽が李朝にあったという事実が重要となるのは、偏狭なナショナリズムを正当化するときだけである」ということだった。

いわゆる「萌芽派」の歴史家たちが用いている証拠はむしろ、彼らが無視する「空白期」、すなわち1867年の「江華条約(日朝修好条約)」による開国から1945年の解放にいたる期間こそ、社会経済史家が本格的に論じるべき時代であることを教えていた。そこで、著者が研究の焦点を向けたのは、韓国資本主義の象徴的存在である「京城(キョンソン)紡織株式会社=京紡(キョンバン)」とその創業一族「高敞(コチャン)の金一族」の歴史である。それは、「京紡は朝鮮史上初の朝鮮資本(かつ朝鮮系住民経営)による大規模な企業」であり、そこに「人間的なレベルでの韓国資本主義の起源と初期の発展を探ることができる」と考えたからに他ならない。そして著者は、同社に残された豊富な記録文書を精査し、日本が「圧政者であると同時に社会経済の変化の推進者」だったことを立証していくのである。(伊藤延司)

内容(「BOOK」データベースより)
 日本統治の経験は朝鮮の工業化にいかなる影響をおよぼしたのか。それは戦後韓国・朴正煕政権時代の驚異的な経済成長とどのようにつながっているのか。朝鮮史研究の第一人者、ハーバード大学のエッカート教授が、史上初の朝鮮資本による大規模企業「京城紡織株式会社」の発展と拡大、そしてこれを経営した高敞(全羅北道)の金一族が産業資本家として成功をおさめるにいたったプロセスを精緻に検証。日韓近現代史における最重要のテーマである日本の植民地統治の「遺産」を初めて公正に評価し、欧米で高く評価された労作。日韓近現代史に根本的な書き換えを迫る、真に革新的な研究。

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 世界的な韓国学の権威エッカート教授による本。

 欧米で高く評価され、日本でも出版されて話題になった本ですが、なぜか韓国では抄録しか出版されていないようです。
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by 699yabuhebi | 2006-12-17 04:58 | 近現代史

韓国経済の急成長時代

韓国の黄金時代=それは日本統治の35年間(1910ー1945)

データでみる日本統治時代=韓国経済発展の時代

          1909年      1942年         倍率
人口       1331万人     3064万人       2.3倍
中学生数     2468人      80841人      32.7倍
電灯普及率    4456戸     795849戸     178.6倍 
造林面積       527ha     28825ha     54.2倍
林業生産    5400万円    13900万円      2.57倍
米生産高   27773万円    71521万円      2.58倍
工業生産  131712万円   865663万円
        (1914年)      (1937年)       6.57倍
鉄道里程     100キロ余    6000キロ余       60倍

 上の表をみてもわかるように、併合前の大韓帝国と日本統治時代を比較すると、わずか35年で猛スピードで経済が発展しているようすがわかるだろう。特に中学校生徒の数は30倍以上に達し、大韓帝国とくらべ、朝鮮総督府がいかに教育に力を入れたかがわかる。まさに「京城総督府の奇跡」と言える。

 そのことは、朝鮮日報でも報道された。以下にその記事があるから読んでみよう。

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「1920~30年代の成長率4.1%」(朝鮮日報)

  日帝時代、朝鮮は1937年の中日戦争勃発前まで国内生産及び支出が年間約4%の高い成長率を記録していたことがわかった。朝鮮の経済状況についての精密かつ総合的な統計が出たのは今回が初めてだ。
 落星垈(ナクソンデ)経済研究所(所長:李榮薫(イ・ヨンフン)ソウル大教授)主催で先月27日、ソウル大で開かれた「韓国の長期経済統計(2)-植民地期のGDPとGDE」において結論部分を発表した車明洙(チャ・ミョンス)嶺南(ヨンナム)大教授(経済学)は、「朝鮮総督府統計年譜」をはじめとする日帝時代の各種資料を利用し、1912~1937年までの国内総生産(GDP)、国内総支出(GDE)、経済構造変化などに対する推計を提示した。

 今回の調査結果は日帝時代の経済的性格を巡って学会で起こった論争を再燃させるものと予想される。日帝時代に高度成長がなされたという分析は日帝が韓国の近代化を主導したという主張を裏付けることになるからだ。

 車明洙教授は「今回の統計は資料を手に入れることのできない日中戦争以降の部分は抜け落ちているため、日帝時代全体に対する評価ではないが、1920~30年代の経済成長は明らかだ」と話した。これまで日帝時代の経済統計は広島経済大学の溝口敏行教授が1988年に作成したのが唯一のものだった。

 車教授によると、この期間に年平均実質GDPは4.10%、実質GDEは4.24%の成長を示した。こうした数値は溝口教授が推定した年平均実質GDP成長率3.81%、GDE成長率4.01%よりも若干高い。

 こうした成長率は同じ期間、欧州(1%台)や日本・米国(3%台)に比べ、より高いものだ。この期間、人口成長率が年平均1.61%だった点を考慮すれば1人当りの生産成長率は約2.4%を記録した。

 植民地朝鮮の経済構造はこの期間、農業を中心とする第1次産業が1911年の75%から1930年代末には45%水準に下がった一方で、第2次産業(鉱工業)と第3次産業(サービス業)はそれぞれ7%から22%、18%から33%に増加した。

 鉱工業とサービス業は1920年代はもちろん、世界的に大恐慌の打撃を受けた1930年代前半にも絶えず成長していたことがわかった。

李先敏(イ・ソンミン)記者



http://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2004/03/03/20040303000075.html


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 先進国がマイナス成長にあえいでいるときも、朝鮮は日本本土以上の成長率を誇っていた! そのスピードは、当時、国力伸展の著しいアメリカをもしのぐ。その理由は何だったのだろう?
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 すばらしい政策「産米増殖計画」と韓国国定歴史教科書の捏造

 日本は朝鮮における米の増産に全力をあげ、1942年には、併合開始時(1912~16年)の2倍の生産に成功している。たった30年で2倍である。1230万石が2489万石になった。
 水田は1920年の155万町歩が1942年には177万町歩と22万町歩も増えた。
 面積あたりの収穫量は1910年の1反あたり0.796石が1937年には1.635石へと2倍以上増えた。

 つまり、朝鮮は日本の統治によって水田を増やしてもらい、加えて品種改良や灌漑施設の整備その他により総収穫量を2倍にしてもらったのである。
 しかし、韓国国定教科書は次のように書いている。埠頭に山と積まれた籾俵の写真を掲載して「略奪米」であるかのような宣伝をしているのである。
  「日帝は彼らの食糧不足を解決するため、韓国から米を略奪することに力を注いだ。そのため韓国の農民は彼らが生産した多くの米を日本に奪われ、飢えを免れなかった」

 これが、まったくの出鱈目であり、悪質な歪曲であることは、賢明なNAVERの韓国の兄上たちなら、すぐにおわかりであろう。もし、それが略奪米だったら、韓国全土で暴動が起きており、たった5600名の警察官(うち日本系2200人、朝鮮系3400人)では到底抑えきれなかっただろう。
 事実は全く異なっており、朝鮮農家が日本への米の移出を望んだのである。日本では朝鮮よりも高く売れるからである。これは、要するに、それまで自給自足的な朝鮮半島で急速に貨幣経済が進んだことを意味している。すなわち、貨幣の安定と商品の流入、そして朝鮮農民が購買力を持ってきた証拠なのだ。

 日本では奈良時代から溜め池をつくったり、鎌倉時代には水車の利用や灌漑池の利用がさかんにおこなわれてきたり、特に江戸時代には用水路と排水路の整備が河川の流路変更などをおこなってきた歴史がある。
 しかし、併合前の朝鮮には灌漑施設が全くないという農地が全体の9割を占めた。

 日本人には驚きだが、朝鮮の農地は日本でいえば7世紀以前の水準で、ほとんどすべてが天水に依存する原始的な農業だったのである。だからこそ、朝鮮では「測雨器」が画期的ですばらしい発明のように思われてきたのだ。
 朝鮮は農業の未発達な土地柄だったから、併合以前には今の北朝鮮同様餓死者が毎年のように出る貧しい国だった。日本は当時日本にもない東洋一のダムをつくったり、農業用水路の整備をおこなったのである。そのため、併合後は餓死者が1人も出なかった。
 朝鮮北部で貧しい農民が1930年代に「火田民」となったというのは、この地に、日本が鉄道その他の交通を開発したためである。それ以前には決して入ることのできなかった深山幽谷に火田の適地が大量に発見されたためなのである。

 英国植民地だったアイルランドでは1841年の820万人が1911年には444万人と半分になった。この間、餓死者も多く、約500万人のアイルランド人が国外逃亡したという。

 しかし、朝鮮は1910年の1313万人が1942年には2553万人と人口が激増し、しかも、1人あたりの国内総支出も1910年の58円が1938年には119円と2倍になっている。人口が増えた上に所得がさらに増えているのである。日本が韓国経済の発展に尽くした力は予想以上に大きい。

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 その理由のひとつが朝鮮総督府のすばらしい政策=「産米増殖計画」だったのだ。韓国人は、みずからの選択で選んだみずからの政府=朝鮮総督府をほこるべきであろう。

 さらに、韓国人が日本との併合を選んだことは、すばらしい福音となったこともわかる。
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 韓国人は無税=まるで天国のようだった日本統治時代
 大韓帝国はもともと予算編成能力もなければ、徴税能力もなかった。朝鮮が始めて予算を組んだのは、驚くべきことに1895年のことであった。
 1906年度の大韓帝国の予算の歳入額は、たったの748万円しかなかったのである。韓国が近代国家として運営するのに必要な年3000万円以上の予算を組むには、圧倒的に税が足りなかった。
 1907年には不足分の2700万円を直接日本が負担している。
 1908年には3100万円。
 1909年には2100万円。
 1910年には2500万円。
 日本が朝鮮を搾取したなどというのは大嘘で、日本政府が朝鮮のために日本国民の税を持ち出していたのである。
 特に併合後の10年間、驚くべきことに韓国では所得税を徴収しなかった。免税措置がとられたのである。これは欧米植民地とはまったく逆であり、韓国人は1銭も支払わず、すべて日本人ひとりひとりの血税によって韓国の近代化がなされたのである。
 そもそも、搾取できるほど朝鮮は豊かではなかった。併合前の朝鮮は「春窮」といい毎年餓死者が出るようなありさまだったが、併合後は餓死者がいなくなった。
 韓国併合後も1945年まで歳入不足の補充金は続いた。朝鮮にとって問題は、日本敗戦によってこれらの資金が入ってこなくなったことである。

 日帝植民地統治の実態とは、統治能力も財政力もない李王家に代わって大金を投じながら統治してあげたというだけのことである。
 韓国併合とは、朝鮮の被支配階級の民衆にとって、李朝時代の圧政からの解放だった。日本は朝鮮を植民地としてではなく、日本国の一部としてインフラ整備や教育制度の充実を図った。
 そして、収奪でなく福祉をもたらした。

 だから、日本を恨むのは筋違いといえる。

 無税で所得が倍増・・・・まるで夢のようだった日本統治時代!
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by 699yabuhebi | 2006-12-17 04:49 | 近現代史