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韓国歴史教科書の検証-日本人地主による収奪(1)
中国の「東北工程」問題が浮上し、韓国人の間でも「いかに捏造を見破り論破するか」が話題になっている事と思います。せっかくの機会なので、「こういう具合日本人はこう考えていく」という一例を挙げておきます。
------------------------------------ 例題:韓国の国定歴史教科書中の記述】 日本の土地略奪について ------------------------------------ 開港直後に日本商人は開港場内の一部の土地を惜りて使うことに留まっていた。しかし、彼らは活動範囲が開港場の外に拡大するにつれて、穀物を買い人れるために朝鮮農民に金を貸しその代わりに農地を差し押さえたり、農地を抵当にとる高利貸金業によって農地を奪い取ったりして、次第に土地所有を拡大していった。清日戦争(1894年)以後、日本が朝鮮に強力な影響力を持つようになると、日本の大資本家が大挙浸透し全州、群山、羅州一帯で大規模な農場を経営するようになった。 日本人による大規模な土地略奪は露日戦争(1904年)を契機に本格化した。日本は鉄道敷地と軍用地の確保を口実に土地略奪を勝手に行なった。日本は京仁線と京釜線を敷設し、鉄道敷地中の国有地は略奪し、私有地は朝鮮政府が所有者から買い入れて提供するように強要した。そして彼らは軍用地に必要な地域はほとんど制限なく占有し、軍用地を口実に駐屯地付近の土地を大量に略奪したりした。また、日本は朝鮮の荒蕪地の開墾と駅屯土の収容による土地略奪を企てた。国権を奪われたころに日本人が朝鮮で所有した土地は実に1億5000万坪に達した。このように日本が莫大な土地を略奪したのは、朝鮮の植民地化のための基礎作業であった。 朝鮮総督府は奪取した土地を東洋拓殖株式会社をはじめとする日本人の土地会社や個人に安値で払い下げた。突如、土地を略奪された農民は日帝当局にその不当性を抗議したが、日帝当局は正当な事由がないとして無視した。こうして不法に奪取された耕作地は全国土の約40%にもなった。 いわゆる土地調査事業の実施は韓国農民の生活基盤を徹底的に崩した。従来の農民は土地の所有権とともに耕作権も保有していたが、土地調査事業以後、多くの農民は期限付き契約による小作農へと転落してしまった。そうして生活基盤を喪失した農民は日本人の高利貸に苦しめられ、生計維持のために火田民になったり、満州、沿海州、日本などへの移住を余儀なくされた。 -------------------------------------- まず最初に専門家の意見を照会してください。可能なら相手国の研究者が望ましいです。 -------------------------------------- 【学術的本論文】「日帝下・朝鮮経済の発展と朝鮮・人経済」許粹烈 -------------------------------------- 半島全体の耕地面積と生産高 朝鮮半島の耕作地面積は、土地調査事業が完了した1918年よりほぼ一定のまま推移する。畑が田の倍の面積を占めるが、1942年以降は両方微減となり、特に畑の面積減少が目立つ。この時代には土地改良事業により畑の田へと転用が進められたが、転換済の土地でも畑作が併用され続けたり、品種改良、施肥量の増大、灌漑設備の拡大等により耕作面積が減少しても生産例が維持される事も多かった。生産高については米穀で52%、それ以外の作物で31-35%の増産となっている(1911-15年間の5年平均と1935-44年間の10年平均の比較からの算出費)。 -------------------------------------- 日本人所有耕地の推移 日本人所有耕地面積は一律に増加したものでなく、1910-15年、1928-35年の2度にわたり急増している。1910-15年の間の増加は、東洋拓殖会社の社有地の増加によるもの(*1)で、1928年以後の増加は農業恐慌で朝鮮・人土地所有者が大量に土地を売り渡し日本人がそれを購入した為であった(*2)。日本人所有耕地面積は1935年にピークに達し、1932年以降には大体40万町をやや上回る水準に達する事となった。 (*1) 1910-15年間に日本人所有耕地面積は69.312町歩から99.696町歩に増加したが、同じ期間、東拓社有地は10.994町歩から57,730町歩に増加している。これは全体の58%に当たる数字である。 (*2) 朝鮮の耕地構成は、畑が田の2倍程度だが、日本人の場合は逆に田が畑の2倍以上になっている。例えば1935年における日本人所有耕地の割合は10.2%だが、田に限って見ると18.3%と高い値を示す。道別に分析するなら日本人大地主の保有地は田作の中核地帯である全羅南道と全羅北道、そして畑作中核時代の黄海道に集中していた。全羅道地域の中でも平野部、平野部の中でも生産性が高い水利組合地域が多く一反部辺りの収穫量が平均値の三倍以上という良田が多い。土地肥沃度も計算に入れた朝鮮銀行と京城商工会議所の計算方法によれば田全体の生産力のうち1931年の44%、1941年の54%を占めていたという考え方も出来る。農業生産物の民族的配分に注目すると1941年の場合で全人口の0.2%を占めるに過ぎない日本人が全体の15%を占めていた。 --------------------------------------------- 【参考】朝鮮半島人口の推移と関連事項 --------------------------------------------- 年度 朝鮮・人数 日本人数 備考 -------------------------------------- 1864年 802万2千 開国前 旱魃 1876年 803万7千 百未満 旱魃/日朝修好条規 ←その割に減ってない 1885年 896万9千 百未満 1891年 788万3千 0万9千 甲申政変/甲午農民戦争/日清戦争 1904年 709万9千 3万1千 旱魃(1901)/日露戦争 ←戦争の犠牲者含む(ごめんなさい) 1907年 1166万5千 8万3千 ハーグ密使事件/第三次日韓協約 1910年 1312万8千 17万1千 日韓併合条約/土地調査事業開始 1911年 1383万2千 21万0千 第一次日本人地主増加期 1912年 1412万8千 24万3千 第一次日本人地主増加期 1913年 1516万9千 27万1千 第一次日本人地主増加期 1914年 1562万0千 29万1千 第一次日本人地主増加期 1915年 1595万7千 30万3千 第一次日本人地主増加期 1916年 1630万9千 32万0千 1917年 1661万7千 33万2千 1918年 1669万7千 33万6千 1919年 1678万3千 34万6千 土地調査事業完了 1920年 1691万6千 34万7千 1921年 1705万9千 36万7千 1922年 1720万8千 38万6千 1923年 1744万6千 40万3千 1924年 1761万9千 41万1千 1925年 1854万3千 42万4千 1926年 1861万5千 44万2千 1927年 1863万1千 45万4千 1928年 1866万7千 46万9千 旱魃/第二次日本人地主増加期 ←全然減ってない 1929年 18784万千 48万8千 旱魃/第二次日本人地主増加期 ←全然減ってない 1930年 1968万5千 50万1千 第二次日本人地主増加期 1931年 1971万0千 51万4千 第二次日本人地主増加期 1932年 2003万7千 52万3千 第二次日本人地主増加期 1933年 2020万5千 54万3千 第二次日本人地主増加期(ピーク) 1934年 2051万3千 56万1千 第二次日本人地主増加期 1935年 2124万8千 58万3千 第二次日本人地主増加期 1936年 2137万3千 60万8千 1937年 2168万2千 62万9千 1938年 2195万0千 63万3千 1939年 2209万8千 65万0千 旱魃 ←全然減ってない 1940年 2295万4千 68万9千 旱魃 ←全然減ってない 1941年 2391万3千 71万7千 1942年 2552万5千 75万2千 ----------------------------------------- 本論文の対象は「当時の朝鮮半島農業史」だけですが、それでもこれだけは言えます。 「(少なくとも耕作地に関して)本文中にある時期での本文中にある規模での土地接収はなかった」 .「当時の半島住民の大半が農民であった」事を勘案し「もし軍部が鉄道建設用地や軍需設備用地を接収したとしても、当時の朝鮮半島農業に与えた影響はほとんどなかった」とはいえる。 ところで本論文は以下について綿密な検証を行っています。 「日本人地主の保有する田畑は圧倒的に収穫が良かった」 「日本人地主はそれなりに高い収穫物配分を受けていた」 「なので日帝の地主が良田を独占し収奪していた事実に変わりはない」 ところが、よく読むと「この時代『品種改良、施肥量の増大、灌漑設備の拡大等により』収穫高の向上が図られた」という言及があり、これに関して以下が証明できれば前提が崩れます。 土地改良等を行ったのは主に日本人地主であり、 配分比率の高さがその投資分回収と技術提供の代価と解釈出来て、 その結果現地小作人の生計を朝鮮・人地主より圧迫した訳ではない。 この線に沿って関連資料/史料の検証を進めていきます。
by 699yabuhebi
| 2006-12-23 13:04
| 近現代史
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