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韓国歴史教科書の検証-日本人地主による収奪(2)
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論点1:日韓併合前の朝鮮半島農業はどういう境遇にあったか -------------------------------------- 【統計的研究】「日本による朝鮮支配の40年(姜在彦/朝日文庫)」1992年 -------------------------------------- 1918年、つまり土地調査事業の終わった年の統計によれば、 全農家の3.3%(9万386戸)が全耕地面積の50.4%を所有(地主) 全農家の37.6%(100万戸余り)が土地のない小作農 全農家の39.3%(104万戸余り)が自作兼小作農 全農家の19.6%(50万戸)が自作農 というような農家構成があらわれています。 全農家の3.3%、戸数からすると約9万戸が全農地面積の半分以上を所有しているのです。これは農家というよりも地主です。農業経営にタッチせず、じっと座って小作料を得て生活する地主層なのです。もちろんこの3.3パーセントには朝鮮・人、日本人を含みます。(中略)小作料は建前としては5割ですが、実際には7割ぐらいになっていたのです。ですから、朝鮮の全耕地面積の半分から生産される穀物の5割ないし7割が、全農家の3.3パーセントにすぎない地主に集中するということなのです。なぜ小作料が七割ぐらいにまでなったかというと、労働市場においても、労働力を売る側に比べて買う側が少ない場合、売る側は安売りします。それと同じで、農村でも他に転業できるような近代産業が少ないため、土地にしがみつくしかない農家がたくさんいる。おのずから小作権をめぐって小作農民間の競争が起こり、常に地主が有利な立場に立つ。ですから地主の無理難題も通るわけです。 ---------------------------------------- 農家全体の37.6%、戸数にして100万戸余りがまったく土地のない小作農です。100万戸となると、1家族を5人とみて500万人になります。当時、朝鮮の総人口は2000万人といわれていましたが、そのなかの500万人がまったく土地を持たず、地主の土地を借りて5割ないし7割の小作料を納めなくてはならなかったわけです。そのつぎは自作兼小作農です。つまり若干は自分の土地があるけれど、それでは足りないので、やはり地主の土地を借りなくてはならない。これが39.3パーセント戸数にして104万戸余りです。小作農と自作兼小作農を合わせると、全農家の77パーセントになります。 ---------------------------------------- 当時朝鮮にはまだ近代産業が発展していませんから、ほぼ8割ないし9割の人口が農村の土地にしがみついて生活していました。そしてそのなかの77パーセントが自分の土地を持たないか、もっていても少ないために地主の土地を耕しながら、収穫の半分ないし7割を収めていたのです。1920年の1戸あたりの平均耕地面積は1.61町歩(水田0.57町歩、畑1.04町歩)となっていますが、1町歩未満の農家が、実に全農家の66.97パーセント(うち0.5町歩未満が47.38パーセント)を占めています。つまり大多数の農家が零細農であるうえに小作農である、これでは人間が生きていること事態が奇蹟に近いのです。こういうところでは、地主はだいたい高利貸しを兼ねているわけです。ですから小作料プラス高利で二重に縛られた、そういう層が77パーセントいたというのが現実です。 ---------------------------------------- 結局77パーセントの小作農および自作兼小作農というのは過剰人口なのです。本当なら土地から離れて労働者になるべき人たちですが、朝鮮では農村の過剰人口を吸収するような近代産業の発展が遅かったから、いろいろな形でだぶついたのです。こういう過剰人口の存在は、まず第一に小作条件を非常に悪くします。小作農の立場は常に不利ですから、何とか土地を借りようと、地主のあらゆる要求をそのまま聞き入れなくてはならなかった。一つ例をあげましょう。日本の場合でも中国の場合でも、小作争議というのは、小作料があんまり高いから低くしろとか、借金を免除しろ、こういうのが普通です。ところが朝鮮の場合、小作争議の理由の部分は、これは想像もつかないことですが、地主による小作権移動に反対するということなのです。つまり、地主は小作農家が気にくわなければいつでも小作権を取り上げてほかにやってしまう。だから小作料が高いとか安いとかの問題以前に、小作権を確保するために血眼になったのです。土地にしがみつくしかほかに生活の方法がないものですから。これが朝鮮農民の小作争議の特徴です。 ---------------------------------------- 農業以外に産業がないと農民になるしかないため、人口増加によって小作人が増え小作人の割合が増加していきます。また朝鮮・人地主が日本人自作農に土地を売ったため、小作農が土地を追い出されてしまったという事もあったかもしれません。そして日韓併合期はまた工業化の推進期間であり、そういった余剰人口の多くが労働者に転換されていったのです。 ---------------------------------------- 【李朝時代末当時の証言】韓国誌(ロシア大蔵省調査資料の日本農商務省山林局による抄訳) ---------------------------------------- 『住民は古来これらの谷地に小社会を形成し、舟楫を通すべき河川の不足と、僅かに駄獣の通行を許すのみなる断崖多き経路の外、殆ど便利なる道路の皆無なるとにより、相互の交通甚だ疎にして、惟り農耕に従事し、産物の販路を見いだすに由なく、その事業は幼稚の域を脱することなく、只一局部の住民の需要を目的として労働せり。然れども漢江、大同江、及び洛東江等の如く、僅少なる河川の舟行に堪ふるものありて、その沿岸地方に住居する人民は、山地の単調子なる生活状態とややその趣を異にして、河川の便を利用して生産の剰余を比較的大なる市場、特に開港場に輸出し得べき処は凡て耕地の面積迅速に増加し、商業も又盛んなり。然れどもこの如き土地は甚だ少なし』 ---------------------------------------- 『天然の地勢既に商業に適せざるのみならず、古来人為の障害ありて亦之に加わり、その一部分は今も尚行わるるものあり。その尤も大なるものは官吏の暴貪に制限なき制度にして、為に労働の安全に保証なく、各人貧困に陥らざるもの殆ど之なきに至る。その外官吏が交通の便利を無視すること、盗賊公行して危険多きこと、貨幣制度の紊乱したること、金融機関の殆ど皆無なること、階級上の迷誤及びその他の事情によりて上級の人民に商業を禁じ、且つある種の実業を疎滞せしむること、工業の発達せざること、商人の階級夥多にして専売権の濫用行わるること、、是皆内外商業の発達の妨害ならざるはなし』 *ちなみに1904年、併合前の朝鮮半島に財政顧問として赴任した目賀田種太郎は朝鮮総領府は貨幣制度統一を強行して関連利権に群がっていた朝鮮・人両替商の没落を招いた。これも韓国の歴史教科書では『日帝の犯罪行為』として弾劾対象となっている。 ---------------------------------------- 【関連概説書における見解】「歪められた朝鮮総督府(黄文雄/光文社)」1998年 ---------------------------------------- そもそも朝鮮半島は三南(忠清、慶尚、全羅)地方以外、飢饉の多いところで、最近の北朝鮮のような食糧危機は、決して特異な現象ではない。 ---------------------------------------- 朝鮮農民の間には、古来から「春窮、麦嶺越え難し」という古諺があるほどだが、農民は収穫の5割以上が年貢として取り立てられてしまうし、収穫した米も翌年3月の初めごろには全部、食いつくしてしまう。そこで、じやがいもや麦のできる6月までの3ヵ月は、春窮期といわれるのだ。李朝以来、数百年にわたって朝鮮農民の背負う歴史的な宿痾(長い間治らない病気)と言える。それは人ロの9割を占める農民のうちの8割の小作人が、保存食糧を冬季に食いつくし、麦の収穫期までの間、草の根、干し草、どん栗、とちの実などで食いつないでいくことである。極端な場合には、松の木の表皮と木質との間にある柔らかい白い部分をはぎとって食用にする。あるいは五月になると麦の成熟するのを待ちきれず、穂がまだ青く乳状であるものを、穂先だけ摘み取って粥にして食べたり、せっぱつまれば種子籾まで食べつくしてしまう場合もある。 -------------------------------------- 【李朝時代末当時の証言】「朝鮮事情(仏人宣教師シャルル・ダレ神父/平凡社東洋文庫)」1874年 -------------------------------------- 『1871年から、1872年にかけて、驚くべき飢餓が朝鮮半島を襲 い、国土は荒廃した。あまりの酷さに、西海岸の人々のなかには、娘を中国人の密航業者に1人当たり米1升で売るものもい た。北方の国境の森林を越えて遼東半島にたどり着いた何人かの朝鮮・人は、惨たらしい国状を絵に描いて宣教師達に示し「どこの道にも死体が転がっている」と訴えた。しかし、そんなときでさえ、朝鮮国王は、中国や日本からの 食料買入れを許すよりも、むしろ国民の半数が死んでいくのを放置しておく道を選んだ』 *この『国民の半数が死んでいくのを 放置しておく道を選んだ』の引用をさまざまな所で見掛けますが、人口推移表を見るとそこまで朝鮮半島全体で同時に餓死者が出た訳ではなかったのかもしれない。中世社会は今日の様に流通も情報伝達も発展してなかったので、一部地域が壊滅的飢餓状態にあってもそのまま放置される場合が多かった。この側面から日本の過去の飢餓の被害程度についても大分見直しが入っている。 --------------------------------------- 【傍証】「大成建設社史(史料性は皆無に等しいが『捏造』もまた歴史なり)」 --------------------------------------- 大倉(大成建設の母体となった大倉財閥の創始者)は、明治九年(一八七六年)諸雑貨を汽船に満載して釜山に赴いてみると、同地には日本人にして在留する者わずか九十人に過ぎない。それも対馬の島人のみである(略)。 *日清戦争前夜釜山に上陸したイザベラ・バードも「朝鮮紀行」の中で対馬や博多から来ている日本人が多かった事を指摘している。朝鮮半島からの攻撃で歴史的に最も多大な被害を受けてきた人々は、歴史的に最も日朝貿易に依存してきた人達でもあった事を忘れてはならないのである。現実世界の問題は「断交すれば平和が訪れる」というような単純な思い込みだけでは解決出来ない。 韓国との間をたびたび往復し、朝鮮貿易の進展をはかっているうちに、明治十年(一八七七年)二月、西南の役が勃発した。ちょうど天皇関西行幸中で、太政大臣三条実美をはじめ、大久保利通、伊藤博文ら輔弼の大官はすべてこれに扈従していた。大倉組商会は賊軍北上の報が入ると、ただちに陸軍から御用達を命ぜられた。大倉は部下を率い、王師に従って豊肥の野に赴き、軍隊輜重の用を弁じて日夜奮闘していたが、この戦乱のさなかに、朝鮮に大飢饉が発生したのである。それは五穀まったく稔らず、求むるに食なく、行路病者となって道に斃れ餓死する者、八道に数知れずという惨憺たる有様であった。 朝鮮政府は救援をわが国に求め、しきりに米穀の輸送を要請してきたが、日本は国内戦乱の最中であり、隣邦の切なる依頼に応ずることができない状態であった。たとえこれを救助するとしても、船腹が欠乏しているため、米を運ぶことができない。しかし時の内務卿大久保利通は「九州の内乱はつまり一揆である。内乱があるからといって、隣邦の危難を救わないのは善隣の誼でない」と極力救援を力説したので、廟議も朝鮮へ米を輸送することに一決した。この大任が大倉に命ぜられたのである。その時、大倉は、陸軍輜重の用で肥後の高瀬にあったが、大久保からの急電に接し、急遽長崎へ出てそこから神戸行きの便船に身を托した。たまたま、この船に渋沢栄一が乗っていた。彼は当時第一国立銀行頭取で、その年の一月、三井物産社長益田孝とともに清国貸付金談判のため上海に赴き、その帰途であった(略)。 彼は役人時代、長州出身の五代友厚から大倉の名を聞いていたが、初めて船中で会った大倉から、 「大久保内務卿の要請に応えて、朝鮮の飢饉の救難に行くつもりだ。国家のために身を捨てて行くのです」 と聞き、少からず感動した。この時から、大倉と渋沢は協力提携して、わが国産業経済の興隆に尽すこととなる(略)。 大倉は神戸で下船し、京都に赴いて大久保に面会した。車駕京都に御駐輦中で、大久保も、この地に滞在していたのである。 大久保は大倉の顔を見ると、 「この際、朝鮮へ米を輸送できる者は、貴下をおいてほかにない。国家のためぜひ奮発せられたい」 としきりに懇請したので、大倉は大いに感激し、襟をただして答えた。 「微力ながら閣下の期待に背かぬよう努力致します。しかし船は皆御用船として徴発され、民間には一隻もありません。その点はどう致しましょうか」 「そのことは心配しなくてもよろしい。こちらで都合する」 大久保は陸軍御用船瓊浦(たまうら)丸を、特にこの輸送にあてるよう措置を講じてくれた。大倉はただちに米を買い入れ、神戸港でこれを瓊浦丸に積み込むと、釜山目ざして出発した。時に十年八月、玄海洋上かすかな秋気がただよい始めるころであった。 釜山へ到着して、米を朝鮮官憲に引渡すと、任務は一応 終了した。朝鮮の官民に大いに感謝されたことはいうまでもない。瓊浦丸は御用船なので、すぐ日本へ帰航した。大倉は次の便船を待って帰国することとし、そのまましばらく釜山に滞留した。 *読み飛ばしても何の差し支えもない程度の資料価値しかないが、もし船名や日付を辿って追証に成功し、半島側の誰が要請したのか、釜山港に届けられた米がその後どうなったかまで明らかに出来たら歴史が書き換わる。日本人が歴史の教科書に書いてある事を鵜呑みにしないのは、そういう「書き換え」を幾度も経験しているからである。 ------------------------------------- 論点1の結論: 日韓併合以前から朝鮮半島の主産業たる農業の担い手は地主に酷使される小作人で、定期的に襲来する飢饉に怯えながら生きるか死ぬかの生活を送っていた。
by 699yabuhebi
| 2006-12-23 13:05
| 近現代史
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