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韓国歴史教科書の検証-日本人地主による収奪(5)~ochimusyaさんのスレッド
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論点4:日韓併合後の日本人地主はどういう状態であったか ---------------------------------------- 【日韓併合期当事の証言】 「醜い韓国人(朴泰赫/光文社)」 1993年 ---------------------------------------- 日本人は、(1933年から)農村振興運動を進めた。日本統治時代以前の韓国の農村には、河川に堤防もなかったし、水利組合も存在しなかったが、水利組合が結成されたために、河川地域が整備されて堤防が建設され、それまで恒常的だった水害から、農地や農作可能な土地を守ることができるようになって、新しい農地がつくられ、多くのところで稲作が可能になった。この結果、日本人地主も増えた。また畜産が奨励され、日本人がつくった金融組合が、希望する農家ごとに子牛一頭を無料で与えてくれた。与えたというよりは、貸したものだった。牛が成長して子牛が生まれたら、一頭を組合に返すと、成長した親牛は、無償で農民のものとなるという制度だった。 日本人は植林と治水に力を注いだ。山を管理し、植林を進めるために、総督府は山監(サンカン)という監督官を村に置いた。また村人が、植林した山に入ることを禁じた。 日韓併合以前の韓国の山々といえぱ、乱伐したり、燃料にしたりしたために、ほとんどがはげ山だった。日本統治時代には植林が進んだので、多くの山々が緑に覆われるようになっていた。私の村の山にも草木が繁り、兎を追うことができた。しかし、独立後にまたかって気ままに木を切るようになったので、はげ山に戻ってしまった。 ------------------------------------------- 日本人地主は、韓国人の小作人の間で、きわめて評判が良かった。日本人がやってきてから、改良された堆肥を奨励したし、化学肥料が配給されるかたわら、改良品種や、進んだ農業技術を導入したので、収穫が増えたし、農地開拓と河川整備を進めたので、村人の生活水準が大きく向上したからだ。 それに日本人地主は、昔の両班たちよりもはるかに寛容だった。両班のように小作人(ソチクイン)である常人を理不尽に苛めるようなことがなかったし、不作のときには、小作料を安くしてくれた。日本人地主のほうが、物わかりがよかった。だから、日本人の地主は人気があった。みんなは、韓国人の地主の小作人となるよりは、日本人地主の小作人になりたがったのは、当然のことだった。日本人のもとで働いていた常人たちは、羨望の自で見られていた。 日本人が所有していた農地は、独立後に、「敵産」(チョクサン)としてすべて没収された。しかし、日本人が今日の韓国農業の発展の基礎をつくったことは、否定できない。 ----------------------------------------------- 私たちの村は、李朝時代にはいつも水害で悩まされていた。そこで農作が思うようにできなかった水田地域を、「べべーミ」(船が浮かぶような水田)と呼んでいた。しかし、1911年 明治四十四年)、川に堤防が築かれたために、水害から逃れることができた。それからは「ベベーミ」という悪名のあった水田が一等級の水田に変わって、多収穫地として生まれ変わった。この話は、私の父親がしてくれた話である。 母はいつも韓服を着ていた。しばしば李朝時代のころの生活がいかに苦しいものだったのかを、話してくれた。村には五つの農業用水池があった。日本人が京釜線を敷くのにあたって、池を掘って線路の盛り土をしたということを教えてくれたのも、母だった。 日本統治時代になってから、村の人々はまともな生活を営むことがでぎるようになったのだった。私の村では、独立運動系の人々を除けぱ、ほとんどの村民が日本人を尊敬していたし、敬愛していたといってよかった。村の人々のあいだで「イルボンサラムン・キョンウカタルダ」(日本人は、事理に明るい〈すべて正しい〉)という言葉がよく交わされた。 それでも村の人々が、外国人である日本人に対して屈折した感情をいだいていたことも事実だった。何といっても、韓国は外国の支配下にあったのだ。日本人のもとで働いたり、日本人と結ぶことによって成功している者は、陰で「アブチェビ」(ゴマスリ)と呼ばれた。これにはたぶんに嫉妬心理も手伝っていただろう。 ----------------------------------------------- 論点4の結論 この項に挙げた資料だけでも「日本人地主は『品種改良、施肥量の増大、灌漑設備の拡大等により』収穫高の向上が図る事により現地小作人の生活の質をそれ以前より落とす事無く高い収穫物配分を得ていた。また朝鮮・人地主より横暴が少なかった為評判も悪くなかった」事を証明するには十分であろう。ところで「敵産(チョクサン)」として奪還された耕地は、それ以降も同様の生産性を維持したのであろうか? もし出来なかったとしたら「日帝の遺産なんて戦後韓国で何の役にも立たなかった」という常套句は「金の鵞鳥」顔負けの負け惜しみだったと理解せざるを得なくなる。 ------------------------------------------- 総論 「日本人地主は朝鮮半島で(それ程酷い)収奪は働いてなかった」という命題の証明はこれで終わるが問題は「朝鮮惣領府はどうやら半島併合と同時に旧体制を一掃した訳ではなく、農政面だけ見ても朝鮮・人地主の下でそれ以前と対して変わらない生活を強いられ続けた小作人の方が圧倒的多数を占めていた」という新たな「日帝の罪」が同時に明らかにされたという事である。『日本帝国主義の植民地政策と植民地近代化論批判』の著者である慎饁廈教授は『日本は植民統治下で半封建的地主制度を強化する事により韓国の近代化に障害をもたらした』と主張しているが、確かに『日本は李氏朝鮮時代から続く地主階層を駆逐する事無く温存し、資本家に脱皮するのを容認した。その弊害に今日なお韓国が苦しめられ続けている』事は認めざるを得ないだろう。戦前より既に左翼活動家はそれを指摘し続けており、『日帝がベストの選択ではない』実例として1928年から開始したスターリンの5ヶ年計画を賞賛し続けてきた(日本もそれは意識していたらしく満州において1936年より同様のコンセプトに基づく「5ケ年計画」を実施している)。実際にはそれは農政面から見る限り懐柔に失敗した自作農百万人の一斉粛清に他ならず、今日ではむしろ亡国の原因の一つとなったと解釈されているのだが、北朝鮮は今日なおその解釈を否定し、『出身成分浄化』の名目により族譜を辿っての両班/地主血統の撲滅活動を続けている。「日帝の罪」とは果たして「李氏朝鮮時代から続く地主層を起源とする民族主義資本家を規制で縛り続けた事」なのか、それとも「李氏朝鮮時代から続く地主層を思い切って粛清しなかった事」なのか。本稿は判断を下そうとは思わないが、もしこれについて朝鮮民族全体の総意がまとめられる事があれば日本及び国際社会はそれを厳粛な気持ちで受け止める事になろう。少なくとも両方同時に反省する事だけは現実的に不可能である。 ------------------------------------------ 韓国の歴史教育に込められた「反日感情」を分析しているうちに、それを接着剤として利用する事で「民族主義資本家の行動を全面肯定する極右思想」と「資本家階層を血縁レベルで否定する極左思想」が本来有り得ない形で共存している事に気付きました。その継目を突いて欧米型ディペード理論に従って「チェックメイト状況(幾つか選択肢が与えられ、回答者はそのどれを選んでも良いがどれを選んでも質問者にとって有利となる状況)」を生み出しつつ「『当然、日帝が本当に犯した罪については幾らでも謝罪の準備がある』と『建前=本音』の部分で認めながら論を進める」いう「東洋的糖衣(孫子の兵法に言う『百戦百勝する奴は却って危うし』)」を被せるのも忘れない。それが日本人の追求してきた「和魂洋才」の精神です。 書きながらふと、底知らずの不況の中で喘いでいた1920年代後半の日本に想いを馳せてしまいました。歴史に「もしも」はありませんが、万が一浜口首相の代に彼の構想通り「政府の意向を無視した満州事変で得た満州領土を国民党に譲渡し、日本の経済援助で支える」という構想が実現していたらどうなってた事か? もしかしたら朝鮮半島は(『国民党』に貧乏籤を引かせる事で)『日中戦争/太平洋戦争遂行の為の軍需工場』でなく『対中貿易を支える製造工場』として大躍進を遂げていたかもしれません(やはり『アジアの軍需工場』になってた確率の方が遥かに高いけど、その時恨むべき相手は『国民党』)。関東大震災直後に立案された様に、日本の首都が東京からソウルに遷都され『アジアの中心』と呼ばれさらなる繁栄を遂げていたかもしれません(戦争になったら絨毯爆撃の対象になってた可能性が高いけど、その時恨むべき相手も『国民党』)。これは韓国人にとって『あって欲しかった未来』ですか? それとも『あってはならなかった未来』ですか? ちなみに知り合いの台湾人に同じ質問をしたら『あって欲しかった未来』だと即座されました。ただし当然『アジアの中心』として栄えるのは台北でなければいけません。「考えてみれば日本は下克上の国である。京都の公卿が関東の武士団に圧倒され、その関東の武士団が長州藩や薩摩藩や土佐藩といった西国雄藩に圧倒されて大日本帝国となった。ならば最終的勝者が外地の台湾人となるのが歴史的必然だった筈である。本当に惜しい事をした」それを聞いて以来、私にとってこの仮説は『あってはならなかった未来』に変わりました(台湾人なら本当にやりかねない)。韓国人も同様に考えてもよいと私は考えています。 ----------------------------------------------
by 699yabuhebi
| 2006-12-23 13:07
| 近現代史
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