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【日韓歴史比較1727-1910】明治維新と朝鮮半島の産業革命(1)
内容が内容なのでながくなってしまいます。
(「全文精読した上での反駁しか許さない」これが日本式「声討」です。中国人も使うテクニックですから『東北工程』を論破する上で避けて通れません)。まずは以下の引用から。 ---------------------------------------------- 「韓国の歴史教科書」における「東洋の近代 」 ---------------------------------------------- 西洋の近代化は、相対的に東洋の社会への脅威を与えた。産業革命が広がり資本主義が発達するとすぐに、国力を増強させた西洋列強は、後進地域への進出をはかった。 これに対して、当時反映を誇っていた清をはじめとするアジアの伝統王朝は、内部の財弱せいによって次第に衰弱して、新しい状況に能動的に対処することができなかった。 西洋列強のアジア侵略は、前例のない脅威的なもので、アジアの大部分の地域を植民地または半植民地にして、原料の供給地と商品の市場として確保しようとするものであった。このような列強の挑戦に直面したアジアの国ぐには、自らの国を守るための民族運動とともに、改革をとおして自強を達成しようとする開化運動を推進した。中国での太平天国運動と洋務運動、日本での明治維新、インドでのセポイ抗争とスワラージ運動などはそのような動きであった。 アジアの国ぐには、自ら国を守るための民族運動を粘り強く展開したにもかかわらず、協力な武力をもった西洋列強についに服属させられ、大部分植民地に転落した。ただし、日本だけは西洋列強といちはやく妥協し積極的な近代化政策を推し進めた結果、帝国主義列強の列に並ぶようになった。アジアの国々は植民地に転落しながらも、近代的制度の導入と産業化を進めていった。しかしそれは真の近代化の道ではなく、植民地体制への編入過程であったために、東洋の近代化は様々な面において問題をかかえることになった。 ----------------------------------------- この調子では、歴史をもう一度生き直す機会を与えられても再び「悲しいアジア人」として人生を送る事になりそうです。もっとも、ここで言う「悲しいアジア人」とは独立運動で多量の血を流す事もなく工業立国化に成功した「日本」「韓国」「台湾」は仲間に入れていません。かように突っ込み所満載ですが、とりあえず、 日本での明治維新を中国での太平天国運動や洋務運動、インドのセポイ抗争とスワラージ運動と一緒にしてはいけない。比べる単位が違う。 「アジアの国々は植民地に転落しながらも、近代的制度の導入と産業化を進めていった。しかしそれは真の近代化の道ではなく、植民地体制への編入過程であったために、東洋の近代化は様々な面において問題をかかえることになった。」もしかして、韓国もその仲間といいたいの? そもそも「真の近代化」とは何なのか未だに気付いてないんじゃないの? 教育の目標の一つに「勤労意識の育成」があると思うけど、こんな歴史観で勤労意識が湧くと思う? よく考えてみて欲しい。韓国が最も成功しつつあった『漢江の奇跡』の時代、どうして国民が皆あんなにも一生懸命働けたのか。 この3点だけ指摘して先に進む事にします。 --------------------------------------------- 【日本列島1770-1885】では、『明治維新』とは何だったか? (参考:『ウィキペディア(Wikipedia)』他) --------------------------------------------- 元々江戸幕府は全住民の戸籍を寺が管理し、農民と町人の自治を大幅に認めて上意は全て文書で下達するシステムであったので大幅に識字率が向上し、武士町人を問わず広い範囲で有識者の文化ネットワークが構築されていた。またそれとは別に江戸城を舞台とする宮廷政治は大名間の巨大な裏情報網を成立させていた。そして貿易利益の独占を図らんとする江戸幕府に対して西国諸国は密かに密輸を通じて国力を蓄えつつあった。 だから開国(*1)と同時に「以降も貿易利益独占を図ろうとする幕府」と「これを契機に貿易自由化を図りたい西国雄藩」の利権が鋭く対立する事になる一方で、唯一の交易先であるオランダからかねてより英国によるアジア侵食の過程について情報を仕入れていた(*2)水戸藩徳川烈公辺りが提唱を始めた「尊王攘夷」運動(*3)が「唐心は空心」を標榜する国学普及の影響もあって世論にバックドラフト効果を引き起こす事になったのである。 *1 開国 浦賀に渡航してきて開国を迫ったペリー提督の売り文句は「間もなくやってくる英国に対して初めて股を開くと大変な目に遭います。今のうちに処女を捨てておいてはどうですか。悪い様にはしません」。しかしいざ列強の脅威が間近に迫った時、南北戦争が始まった米国の庇護は全く得られず、次に現れた時には内戦終結により余った火器を売るに来る武器商人と化していた。日本人が「日本はアメリカの属国ではない」と主張する時、それはそういうアメリカの不実な側面を承知済みであり、それを責めないだけの分別と逃がさない様にする手管を有しており、万一距離を置かれた場合の備えも十分出来ている事を意味している。本当はアメリカの五十何番目かの州にしてくれた方が楽かもしれないが、頼んでもそうしてくれないのがアメリカという国なのである。しかし良く考えてみれば既にオランダと交易関係があり、その衰退を別ルートで確認済みであった江戸幕府は、本当の意味でアメリカに「処女を捧げた」訳ではない。しかしその辺りは別に「ケナンチヨ」でいいのだ。アジアの乙女は強くあらねばならぬ。とはいえ乙女同士の関係は案外赤裸々なので「朝鮮半島は日本に処女を捧げた」「だから扶養義務がある」と主張しても通用しない。 *2 アジア侵食の過程:これはあくまで推測だが「オランダより仕入れた情報により攘夷運動の高まりが外夷に対する政治カードとして通用する」とする水戸烈公や佐久間象の発言の背景には第一次アフガニスタン戦争における英国の敗北があったのかもしれない。少なくとも「幕藩体制間における内戦や徴税権の行使に外夷の介入を許さば確実に国政を乗っ取られる」という発言の背景に当時のインド情勢に関する情報があった事までは定説になりつつある。ただしもちろん、そこまでの情報に触れられたのはごく一部の情報通に過なかった。その証拠に井伊直弼や小栗忠順等は「アメリカに出し抜かれて日本領有の機会を逃したイギリス」をさらに出し抜いて「ナポレオン時代の栄光の復活」を夢見ていたフランスと提携して反駁勢力を駆逐する計画を立ている(どちらも惨殺される羽目に陥ったには本当に偶然?)。もし計画通りいっていたら「日清戦争」が「清仏戦争」と同時期に遂行されて朝鮮半島も日本列島と同様にフランスの属国となり、「日露戦争」が実質「仏露戦争」となって巨大な「フランス属領府」が形成されていたであろう。フランス植民地では住民にそれなりの教育が施されるのが常だから結構歴史に名前を残す様な人物が輩出されていたかもしれない。フランス人の食生活の中にアフリカ人の常食「クスクス」が定着した様に「エスカルゴのキムチ漬」が家庭料理として受容されていたかもしれない。 余談だが日本における渡来人の定義は以外と幅広く、7-9世紀においてはインド・ペルシャ系民族まで含んでいる。それどころか弥生時代の遺跡からトルコ産ラピスラズリが発見されたり、古代ユダヤ様式を思わせる遺跡をイスラエル政府が秘密裏に調査していたり(どちらかというと日本人はそれを古代シュメル文明の伝播痕跡と考える方が好きなのだが、国際親善は愛国心に優先する)、日本の神社に欠かせない狛犬のペルシャ起源説を唱える学説があったりと、それ以前からの交流の証拠まで発見されている位だから、これは何の不思議もない事である(実際に交流があったのは古代新羅であり、それを日本に齎したのは古代新羅人であるとする説もあるが証明までは至ってない。頑張れ韓国)。例えば記紀の孝徳・斉明紀には都貨羅人と舎衛人の行動記載が4回連続で掲載され、『続紀』や『新撰姓氏録』にも多くの記載がある。都貨羅人はアフガニスタンの都貨羅国(もしくはタイメコン川流域吐火羅国)出身者、舎衛人はガンジス川流域の舎衛国出身者を指すもの推測され、仏教や西域文化を日本にもたらしたものと考えられる日本史上も重要な存在なのである。そう考えてみれば、工事現場で働いたり駅前で『麻薬モドキ』を売っているイラン人もまた十分に『現代の渡来人』を名乗る資格を有している。 *3 「尊王攘夷」運動 実際には幕末期に日本人の襲撃によって死亡した外国人の人数は全部で20人にも満たず、しかもその大半が「横暴な外国人の仕打ちへの町人の止むを得ない反撃」であって、反撃した町人の多くがその場で責任を取って自害している。扇動によって庶民が虐殺を動く事がないのが大陸の攘夷運動と違う所である。 --------------------------------------------- 1867年、欧米列強が間近に迫る国難は全国3000万石のうち800万石を掌握するに過ぎない幕府主導では乗り切れないと悟った15代将軍徳川慶喜は「大政奉還」を受理して朝廷に政権を返還する。これを受けて朝廷は同年「王政復古の大号令」を発布し、これにより「明治政府(太政官制)」が成立する。この瞬間の財源はゼロだった。 まず国家規模の約1/4を占める徳川家領を接収(*1)した明治政府だが、それに続く旧幕臣との戦いである戊辰戦争の戦費が嵩み発足直後から財政難に苦しんだ。軍事的見地から言っても諸藩を敵に回す事は不可能で、旧大名による地方統治をそのまま残さざる得なかった。もしその中から旧幕勢力と手を結ぶ者が現れたり、列強諸国と勝手に取引して領土を割譲する者が現れたら大変な事になっていた筈である。明治政府は諸藩に対する改革の指令を布告し、財政状態の報告と役職や制度の統一を行い、四民平等の大義名分に従って大名、武士階級を廃止して華族、士族を創設した。江戸時代の幕藩体制において諸藩の家臣は藩主が家臣に対して俸禄を世襲で与える事で養われていたが、この段階で俸禄は「家禄」に名称を統一される。 *1 徳川家領の接収:徳川家は同様の措置を前政権を降りた豊臣家に対して遂行しており、今日なお同情の声は比較的少ない。日本人の「和の精神」の裏側にはそういう「情けは人のためならず」という現実感が潜んでいる。 --------------------------------------------- 1869年には大久保利通、木戸孝允(桂小五郎)らの主導で全国266人の藩主(*1)が明治政府に公式に移籍する版籍奉還が遂行され、禄制は大蔵省の管轄下に入り家禄は政府から支給される形となった。そして1870年には公家に対する禄制改革が実施され、1871年には藩主の封土全てを明治政府直轄地とする「廃藩置県(*2)」が強行された。同年には禄高人別帳が作成されて多元的であった家禄の支給体系の一律化が進んでいくが、問題はまだ山積みのままであった(*3)。 *1 全国266人の藩主:ちなみに総大名家266家のうち65パーセントは5万石以下だった。外様大名は全体の36.84%に過ぎなかったものの大領の持ち主が多かったが、上位3大名(前田家102万石、島津家72万石、伊達家62万石)を合計しても230万石強にしかならず、徳川家がいかに強大な存在だったかが偲ばれる。その徳川宗家は約300万石を旗本に知行地として与え、残りを直轄領として勘定奉行直下の40人から50人の代官で運営していた。これ以外に貿易収入や全国鉱山からの収益があったので諸大名から拠出米金を取らずとも自活出来ていた次第である。 *2 廃藩置県:諸外国より「確実に諸藩の反乱を誘発する」と懸念されていたが、全くそれらしい動きが起こらず「世界史上の奇跡」といわれている(ちなみに倒幕の主軸を担った薩摩藩の藩主島津久光は「してやられたわ」と悔しがり急遽大花火大会を開催して愛さを晴らしたという。さらに「じゃ県令にして」と駄々をこねるので明治天皇自らが薩摩まで説得に向かっている。『抵抗』といってもその程度のものであった)。この理由としては西洋と違い財産権を貴族の生得権と考える習慣がなく、戦国時代より始まった徴税権と税収権を分離する考え方が全国に徹底していた事、当時既に多くの藩が破産状態にあり、再建の見通しも立っていなかった為、概ね「人道的措置」と解釈された事などが挙げられているが、西洋からの知識が流入するにつれ「非常識であった」とする意見が国内でも広がった結果、結局日韓併合後の朝鮮半島においての実施は見送られる事になる。 *3 問題はまだ山積み:この段階では維新功労者に対する賞典禄の支給が74万5750石、20万3376両に達し、華士族に対する家禄支給が歳出の30パーセント以上に及んでいた。さらに各藩より継承した借金の累計が膨大な額に及び、財政を圧迫した。また武士階級の身分的特権意識が軍制改革における弊害として急速に浮上しつつあった。 --------------------------------------------- 1871年10月からは幕末に諸外国と結ばれた不平等条約改正を目的とする岩倉使節団が海外に派遣され、国内行政は留守政府に一任された。禄制改革は大蔵卿大久保利通に代わり次官大輔の井上馨が担当し、租税の金納化を骨子とする地租改正と平行して急進的な改革の提言に至ったが使節団の岩倉具視や木戸孝允らは難色を示して審議は打ち切られた。禄制改革をはじめとする留守政府の政策に対しては国内にも反対意見が存在して農民一揆などが頻発していたし、朝鮮出兵を骨子とする征韓論(*1)を掲げる西郷隆盛参議を筆頭とする旧薩摩藩士の暴発に対する懐柔策としても家禄制度維持は必須との見方が強かった。その一方では1873年1月より徴兵制が施行され家禄支給の根拠が消失してしまう。 *1 征韓論:明治政府は対馬藩主宋義達を介して明治元年(1868年)12月に王政復古の通告を送ったが釜山の倭学訓導安東鑭らは『天皇』を主体とする国体と近代的交友関係を拒絶したばかりかあくまで「洋夷」と化した日本国に対する朝鮮王朝の優位を説き「日本国王(伝統的に幕府将軍がが用いてきた称号)の復活」と「従来の中華秩序に基づく冊封関係の維持」を希望して日本国内の世論を激昂させた。この時点においては革命経験者として「朝鮮半島にも革命が必要である」という発想があるばかりで朝鮮隷属化の意図は見られない。政府としても半島問題より北方蝦夷地における対ロシア問題と不平等条約改正の方が国策として重要課題であった。 --------------------------------------------- 同年使節団が帰国すると参議西郷隆盛、司法卿江藤新平らが下野して大久保利通政権が確立した(明治六年の政変)。11月には禄制改革の協議が再開され過渡的措置として、家禄に対する税を賦課する家禄税の創設や、大隈重信提案による家禄奉還制が討議される。岩倉や伊藤博文が慎重論を唱え、木戸らが反対する中、12月の再討議を経て太政官布告が発布された。士族の理解を得る為に家禄の等級に応じて家禄税を付し軍事資金として利用する事とし、さらに任意で家禄を返上したものに対しては事業や帰農などの就業資金を与える事で士族を実業に就かせ様とした事に特徴があるが、禄税使途の不透明化、地域格差を無視しての一律施行による悪弊の出現、就業に失敗した士族の不満鬱積等の問題が新たに出現してくる。そんな中で行われた1974年の台湾出兵(*1)は明らかに特に激昂の度合いを強めつつあった薩摩士族の憤懣のガス抜きという色合いを明らかに有していた。 *1:台湾出兵:明治4年11月に琉球民69名が台湾南端地方に漂着し、そのうち54名が生蕃(土民)が虐殺される事件が起こる。生存者のうち3名は逃走中に溺死し、辛うじて生還を果たしたのは僅か12名であった。また明治6年3月には備中・岡山の民4名が台湾東南岸に漂着して略奪される事件も起こった。これに関して政府が外務卿副島種臣を清国に派遣し談判させた所、清国は「台湾は清国領ではない。従ってその住民も化外の民であり関知するところではない、。自国民の仇は自国で打てば良かろう」と抗議に応じなかったので琉球国が昔から日本の版図であった事が外交的に確定し、明治7年4月4日日には台湾蕃地事務都督に任じられた陸軍中将西郷従道が陸軍少将谷干城、海軍少将赤松則良以下3,658名の出征軍を率いて台湾に向かった。酷熱と病魔と戦いつつ生蕃の本拠を衝いて敵を降し、戦死者12名、戦傷17名、病死者531名という微小の損害で台湾全島を平定すると清国は日本の出兵への非難を開始したが、英仏の調停によって清国は日本の出兵を義挙と認め、日本は台湾領有の意図が存在しない証として12月下旬には全軍を撤収して帝都東京に凱旋した。 --------------------------------------------- 地租改正による農民の納税が金納化され、それに伴い家禄支給を石代として金禄で支給する府県が出現すると米価の変動による混乱もあって不満に拍車が掛かった。1873年に家禄整理の為に秩禄奉還の制を定めた明治政府は秩禄を奉還するものに対して金禄公債を発行して禄高に対して公債を付与する政策を行い、第15国立銀行の資本金とした。秩禄は段階的に廃止されていき、1875年9月の金禄化に引き続き1876年の金禄公債証書発行条例により遂に全面的廃止となった。後世の歴史家の間ではこれを「士族反乱(*1)の主要要因」と考える向きがあるが士族反乱に参加した士族の大半は既に金禄公債証書発行以前から政府を批判しており、また決起の趣旨に秩禄処分が挙げられているケースが少ない事は見逃せない事実である。その一方では士族の救済政策として士族授産が行われ、屯田兵制度による北海道開発が実施されたり、没落士族が1676年における江華島条約(*2)を契機に始まった日朝貿易に大挙して参加していく様な事態も起こっていった。 *1 士族反乱:1874年には「佐賀の乱(江藤が故郷の佐賀県で擁立された反乱)」、1876年には「神風連の乱((明治9に熊本県で発生))」「秋月の乱(神風連の乱に呼応して福岡県で秋月藩士が蜂起)」「萩の乱(山口県で前原一誠らによるなどが10月に蜂起)」して、それぞれ鎮圧されている。1877年には鹿児島県で私学校生徒ら薩摩士族が西郷を擁立して西南戦争を起こしたがこれも士族側の敗戦に終わった。以降、不平士族の反対運動は国会開設や憲法制定を要求する自由民権運動に移行していく。 *2 江華島条約(日朝修好条規):明治8年(1876年)5月20日、軍艦「雲揚」(艦長井上良馨少佐)が朝鮮近海の水路を測量中、江華島砲台の朝鮮兵より砲撃を受ける。「雲揚」は断固応戦して砲台を占領し、永宗城を焼いて朝鮮兵30余名を倒して火砲38門他を鹵獲して帰投した(日本軍側は水兵1名が戦死し2名が負傷)。翌明治9年(1877年)1月には参議陸軍中将黒田清隆が特命全権として朝鮮に派遣され、交渉を重ねた結果2月27日に朝鮮政府は罪を謝し、日本の要求を容れて65年前の文化8年(1811)以来断絶していた修好の復活を宣言した江華島条約12条を結んだのである。この条約の骨子は、朝鮮が独立自主の国家であることを確認した事にあったが清国は朝鮮は属国であると主張し、日本・朝鮮両国間の条約を破棄する様に要求してきた。日本はこれを拒否したが、何らの解決を見ないで時間が経過していき、その事が日清戦争の遠因の一つとなる。 --------------------------------------------- 最後の内戦であった西南戦争(*1)の軍事費は4100万円にのぼり、明治政府は当時の税収4800万円のほとんどを使い果たす羽目に陥った。政府が戦費調達のため不換紙幣を乱発した為インフレが発生し、消費者の生計を圧迫した。その後松方デフレ(*2)の影響で当時の国民のほとんどを占めた農民の小作人化が進む(小作農率の全国平均がこの時期より38%から47%に増大)。この結果、手放された土地を買収する事により大地主が出現する一方で供給過剰となった小作人手当ての引き下げが発生し、あまりの境遇に耐え切れなくなった困窮の一部は都市に流入して財閥層(官営企業の払い下げにより発生)が経営する工場で低賃金労働に従事する様になった。 *1 西南戦争:これまで見てきた経緯から推察される通り史上初の「士族」対「鎮台兵(徴募兵)」の戦いだった。ハリウッド映画「ラストサムライ」の題材とされた戦争だが、現実の「サムライ」の強さはあんなものではなかった。なにしろ旧薩摩藩士が身に着けていた薬丸自顕流は斬り付ける相手の肉体を確実に両断する威力を有しており、肉弾戦の可能な圏内に入ると農民上がりの徴募兵は大根の様に撫斬(なでぎり、皆殺し)にされない為、素早く逃げ散るしかなかったという。それに対抗し得たのは戊辰戦争で明治政府を敵に回した旧会津藩士らを中心とする警視抜刀隊の活躍があったからであった。 *2 松方デフレ:欧米列強に並ぶ近代国家樹立の為、大蔵卿松方正義が行った増税・官営企業の払い下げ・通貨整理、兌換紙幣の発行の結果発生したデフレの事。 --------------------------------------------- そういう流れを踏まえ、明治14年(1881年)、福沢諭吉が金玉均との交友等の経験に基づき以下の内容の「アジア改造論」を発表する。 欧米列強の東アジア進出は何としても阻止すべきである。 それには日本と清国と朝鮮の提携が必須である。 その実現の為、日本が先頭に立って清国・朝鮮の近代化を図ろう。 ところが明治15年(1882年)の壬午事変と明治17年(1884年)の甲申事変により、朝鮮は清国との提携を進め親日派を一掃してしまった。その為、以降は親日派政権樹立など望むべくもなくなり、以降「軍事力で清国を圧倒した上で朝鮮半島を日本の影響下に置く以外朝鮮開放の道はない」とする声の方が多数を占めていく事になる。その変化を受けて福沢諭吉は明治18年(1885年)3月、以下の内容の『脱亜論』を『時事新報』の社説に掲載する。 日本の進出を妨害しているのは、欧米ではなく清国であると判明した。 従って「日本と清国と朝鮮は提携すべき」とした前説を撤回する。 アジア開放は欧米列強と同じく領土切り取りをもって達成するしかない。 この前提に従って福沢諭吉は、日清戦争を「文明国日本対野蛮国清国」の図式に見たて、日本の戦争を「義戦」と評価した。そして日清戦争勝利以降、日本人にアジア蔑視感情を定着させていく。 -----------------------------------------
by 699yabuhebi
| 2006-12-23 13:10
| 近現代史
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