カテゴリ
全体定型詩名作編 川柳・俳句 都々逸・謎かけ 漢詩 韓国人論 韓国史のはじまり 通史 古代史 中世・近世史 近現代史 盧武鉉語録 韓国文化 ウリナラ起源 おふざけ 韓国の政治経済 竹島問題 韓国における反日 その他 未分類 以前の記事
2006年 12月お気に入りブログ
メモ帳
最新のトラックバック
ライフログ
検索
タグ
575
定型詩
川柳
川柳・俳句
日本統治時代
土地収奪
檀君
ウリナラ起源
ハングル
韓国併合
属国
文芸
国号
朝鮮日報
総督府
都々逸
俳句
7775
勤労意欲
盧武鉉
その他のジャンル
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧
|
【日韓歴史比較1727-1910】明治維新と朝鮮半島の産業革命(2)
----------------------------------------
【韓半島1727-1945】では、『朝鮮半島』の近代化はいかに達成されたのか? (参考:『ウィキペディア(Wikipedia)』、金両基『物語韓国史』、金台俊『朝鮮小説史』他) ---------------------------------------- 宣祖の代に士林勢力が西人派と東人派に分離して朋党内紛が始まった(1575年)。それ以来、日本軍に蹂躙されても清軍に制圧されても(*1)踊りを踊るばかりでちっとも前に進まずにいた朝鮮半島がやっと我に返るのは18世紀中頃になってからだった。 (*1)清軍の制圧 「丁卯胡乱(まだ後金と名乗っていた1627年、3万の兵力で朝鮮に侵入して明の援軍を蹴散らし、一時は仁祖を江華島に追い込んだ。戦局が硬直化し、補給に難を抱える後金は講和を結んで撤収した)」と「丙子胡乱(清と国号を変更した金が、服従、朝貢、征明軍3万の編成を要求してきたのを拒んだ所、太宗(ホンタイジ)自ら率いる12万の軍勢に1636年制圧された事件。同年の和議で属国化され、1895年の下関条約締結締結まで服属状態が続く)」の2回に渡った。どの国も最初の攻撃の際は「予想を超えた国土の貧弱さ」故に攻めあぐねるものらしい。 ----------------------------------------- 英祖(ヨンジャ)王・正祖(ジウォンジャ)王時代(1727-1800)は「朝鮮王朝のルネサンス」と呼ばれる重要な時期である。壬辰倭乱に際し奴婢階層が一斉に日本側に走った反省から奴婢制改革(*1)が断行され、『実学(シラク)求是』の掛け声の下、非両班人士(ソンビ)層が育成された。彼らが漢文を嫌いハングルを好んだ為、漢文学の翻訳(『烈女伝』が翻訳され『忠君は二君に事(つか)えず、烈女は二夫に見(まみ)えず』という成句が定着する。考えてみれば『事大主義』を『長い物には巻かれろ』と翻案するには『大に事(つか)える』という読み方が出来なければならないのだが日本人でそれが自然に出来る層は限られている)を皮切に「軍記物(壬辰倭乱の記録として日本でも高く評価されている『壬辰録(イムジンノク)』は純然たるハングルで書かれた)」「パンソリ(朝鮮半島の伝統謡曲で『古本春香(チュンヒャン)伝』『沈青(シムチョォン)伝』が代表作)」「ペゴワン(高麗時代より継承された『稗官文学』。徐居正の『太平広記』が代表作)」等が文学化され、『洪吉童(ホングギルトング)伝(*2)』の様に最初ハングル文学(*3)として書かれ、それが漢文に翻訳されるという逆転現象まで起こった。一方両班階層も負けてはおらず朴趾源(『熱河日記』『燕厳外伝』等に多数の短編小説を寄稿しているが、不幸にも後世の腐儒層の介入により大半が削除されてしまった)等が出現している(*4)。こうした流れから生まれて来たのが後に甲申事変を起こした実学派官僚や東学党の乱(甲牛農民戦争)を指導した農村の非両班有識者層である。 *1 奴婢制改革 日本側歴史家の統一見解は「史料不足により、この段階で奴婢階層が撲滅されたかどうかは断言できない」。そのまま放置しておいて良いのか、韓国人? *2 『洪吉童(ホングギルトング)伝』 後に日韓併合期に大流行する白丁出身の盗賊団の冒険を描いた傑作『林巨正』の原作として名高い。北ちんぽ朝鮮においては今日なお英雄詩視されている様だが、韓国においてはどうか? *3 ハングル文学 私はこれくらいスラスラと挙げられない韓国人が「ハングルは世界に誇る優秀文字」と主張しても屁とも思わない。忘れちゃいけないのは「天皇制は日本の柱」「それが軍国主義と重ねられたのは僅か100年に過ぎない」とする日本人の『極右勢力(韓国人に言わせるとそうなるらしい)』が実はこういう話題が大好きだという事である。特に『古今和歌集』編纂により『漢字仮名混じり文』を普及させた宇多天皇は阿部次期首相も絶賛しているし、庶民の間に流行していた今様に凝って『不良天皇』の烙印を押された後白河法皇にもそれに準じる地位が与えられている。その上であえて言うが『春香伝』で暗行御史(アメンオサ)が正体を現すと悪徳両班が糞小便を漏らすのはあまりに下品過ぎやしないか? 日本においても遊女が操を守りぬく『助六』という歌舞伎があるが、その中の悪役(大名に擬せられているが、その扮装は何故か悪徳公家に近い)は饂飩を頭から被せられたり、顔面を下駄で踏んづけれれたりする程度で勘弁されている。 *4 朴趾源 朝鮮半島の将来を本気で憂い、晩年『課農小抄』の上申により正祖から認められ、中国人知識層にまで高い評価を得ていたこの人物の著作の大半を、自らが領議政の高官の立場にあった為に抹殺した孫の珪寿を韓国人は愛国者の立場から本気で弾劾すべきである。朴趾源の人柄については、不遇の半生の末に44歳にしてやっと母衣の学者として北京に赴任する事を許された折に読んだ「熱河途中詩」の中にも現れている。 書生白首入皇京 白髪の書生が王都に入場したとさ。 服着依然一老兵 着衣ときたら古びた軍服が一張羅。 又向熱河騎馬去 騎乗したままその足で熱河に向かったとさ。 真如貧士就功名 『貧士の大出世』なんて所詮そんなもの。 ----------------------------------------- しかし実際に天下を支配していたのはまさに腐儒の類であり、腐儒に相応しい因循姑息な手段で反体制派を粛清していった(*1)。英祖・正祖時代に確立した「世道(セド)政治(士林派が唱えた政治理念「政治は広く社会を教化し、世の中を正しく治める道理である」に基づく。形態としては国王より信任を得た人物が中心となって人材を登用し、政治を行う形態)」(*1)は既に次代の重純祖(スンジョ)王の代には案東(アントン)金氏の手により、王の縁戚者が官職を独占する「勢道(セド)政治」へと堕し、閔妃(ミンピ:高宗李煕皇帝の皇后。1851-1895)の代に頂点を極める事になる(*3)。書院(*4)を起点として朋党政争が復活した事も混乱に拍車を掛けた。 *1 反体制派粛清:日本においても「寛政の改革」「天保の改革」といった同様の意図があったが、幸い両方とも挫折している。ちなみに最近の研究で寛政の改革の最終目的は「北海道の直轄領化」だった事が判明しているが、もし成功していたら無用にロシア帝国を刺激し日本が属国化されていた可能性が高いと言う。その場合には「日清戦争」は事実上「露清戦争」となり、「日露戦争」の代わりに実質上「露英戦争」と呼ばれる戦いが繰り広げられていたに違いない。その場合には日本やロシアの家庭に洪濁(ホンタク。韓国国内でも全羅南道の港町木浦の住民しか食べない郷土料理)が普及していた可能性も捨てきれない。 *2 世道政治:良く考えてみるとこれは太政官制明治政府そのものである。そう考えると朝鮮半島の政体も馬鹿にしたものではない。ただし「韓民族の方が先」と主張する事は許されない。日本においては10世紀において既に菅原道真を大抜擢し後に紀貫之を重用した宇多天皇が施行し大成果を挙げているからである。 *3 閔妃 縁戚者だけで国家要職のうち千人を占めていたといわれ、1895年、日本人大陸浪人らの襲撃により惨殺された後も我欲に任せた影響力を発揮し続け、日韓併合までその影響力が排除される事はなかった。ちなみ日本人として一応念を押しておくが、関妃暗殺事件への三浦梧楼公使の関与は証明されてない。赴任時期から見ても何らかの形で関与していた可能性が高く、国際世論もそう見たが状況証拠はあくまで状況証拠である。このあたりの表現に気をつけないと「捏造国家韓国」の汚名を挽回するばかりなので気を付ける様に。 *4 書院:朱子学の先賢を祀り地方士族の子弟教育と経書収集と文集出版を担う拠点だが、安東金氏の残党や地方反政府勢力が両班儒生を巻き込んで朋党化し、政争の原因となっていく。 ------------------------------------------ そういう状況であった事に加え、僅か12歳で即位した高宗李煕大王に代わって当時摂政として権力を握っていた大院君(*1)がガチガチの保守主義者で攘夷論者であった為、明治維新を迎えた日本が対馬藩主宋義達を介して明治元年(1868年)12月に王政復古の通告を送った折に書状の受け取りさえ拒絶し、釜山の倭学訓導安東鑭らにより『天皇』を主体とする国体と近代的交友関係を拒絶したばかりかあくまで「洋夷」と化した日本国に対する朝鮮王朝の優位を説き「日本国王(伝統的に幕府将軍がが用いてきた称号)の復活」と「従来の中華秩序に基づく冊封関係の維持」を希望する返信がなされたのも無理のない話であった。実際、朝鮮王朝はそれまでに現れた外国船の全てを打ち払う事に成功しており、それによって自身を強めてもいたのである(*2)。 *1 大院君:国内政治においては安東金氏の要人を追放して勢道政治を打破し、党派門閥を問わず人材を登用し、汚職官僚を厳しく処罰するなどして政治改革に努めた。また税制を改革し、両班にも税を課す事とし、平民の税負担を軽くするなどして大いに評価された(しかし両班階層からは恨まれた事だと思う)。ただし対外的には「丙寅洋擾事件(「天主教(キリスト教)教徒は『夷狄』以下の『禽獣(とり・けもの)』という信念に基づき外国人宣教師10名を処刑した事件(丙寅教獄)への報復を口実に1866年10月にフランス軍艦7隻1500名が来航して江華府を40日間占領し、宝物・史庫図書などを略奪した上で宣教師殺害に対する賠償、責任者処罰、通商条約締結など要求した事件。大院君は要求を拒絶し、江華府は結局義兵の活躍により奪還された)」「辛未洋擾事件(1866年、大砲2門を装備した米武装商船ゼネラル=シャーマン号が、交易を求めて大同江に侵入。退去要求を無視して発砲により人民を殺傷し、略奪と暴行を繰り返したしながら平壌をめざして遡行していった.結局浅瀬で座礁し、平安監司朴珪寿らに焼き討ちされて乗組員20余名が全員死亡したが、その件への謝罪と通商を求めて1867年アメリカ軍艦5隻が江華島海域に出現した事件。アメリカ海軍は無理押しせず撤退したが、朝鮮王朝側はそれを『圧倒的勝利』と判断した)」等で世界史上で悪名を残す。 ところで『ゼネラル=シャーマン号撃退記念祭』なんぞを執り行うと世界中がその事を思い出すのを韓国人は忘れるべきではない。『過去を繰り返さない事を戦没者に誓う行為』とも解釈可能な靖国神社参拝とはリスクの比が違うのである。 *2 外航船打ち払い 日本に開国を決意させたペリー艦隊は後に太平洋艦隊旗艦に就任する最新鋭巨大戦艦サスケハナ号を中心とする大艦隊であったが、朝鮮半島に派遣されたのはそれより陣容の劣る巡洋艦以下の小艦隊ばかりであった。また、列強諸国全体に本気で挙国一致での反撃が開始される事を恐れる空気があり、「薩英戦争」や「下関戦争」等の限定的状況以外では武力行使が極力慎まれた。呉善花女史は『日韓併合の真実』の中で「朝鮮半島は最初から戦略的拠点として重視されていなかったので開国に向けての列強の努力も御座なりだった。その『御座なりな開国努力』を撃退し『朝鮮王朝の軍隊は日本軍の百倍以上強い』と悦に入っていたのである」という様な内容を歯軋りが聞こえてくる様な文体で憎悪を込めて書き綴っている。確かに以下に述べる江華島事件が起こる前の段階で列強のどれかに対して開国していれば、朝鮮半島の未来は大幅に変わっていただろう。ただし「良い方向に」変わったかどうかは保障の限りではない。 --------------------------------------------- さらに攘夷政策を強化しようとする大院君に対して王宮に入った閔妃の一族や大臣達が1866年頃から下野運動を開始し、1873年には宮中クーデターを起こして成功を治めた。大院君は追放され、高宗の親政が宣言されるが政体としては閔妃の一族である閔氏が政治の要職を占める勢道政治へと逆戻りしていった。これ以後、大院君は政治復帰のためにあらゆる運動を行う事になり、朝廷を混乱させ続けた(*1)。 *1 朝廷の混乱:実はかつて中央日報自由掲示板日本語版(2006年9月段階で閉鎖中)においてある人物(雰囲気からいって北の回し者と推測される)よりこんな指摘をされた事がある「日本の天皇制に正義はない。なぜなら明治天皇を傀儡として立てる為に前代の孝明天皇を岩倉具視が暗殺しているからである。それに比べて朝鮮王朝は(この人は絶対に『韓半島』とか『韓民族』という表現は使わなかった)大院君さえ暗殺しなかった。この差は大きい」。確かに「状況的に見て稀代の攘夷主義者だった孝明天皇の死んだタイミングは倒幕勢力にとって都合が良すぎる」と考える日本人も決して少なくはないのだが、暗殺が遂行された証拠がない限りそれを暗殺とは公式には認めないのが日本人の思考様式である。また例えそれが事実であったとしても「状況から見てそれは止むを得ない事だった」と考える日本人もいないではない(だからこの方面から攻撃するのだけは止してね。本気の喧嘩に発展するから)。それよりここで問題としたいのは「大院君が然るべきタイミングで暗殺されなかった事こそ朝鮮王朝の美徳だった」とも取り得る彼の主張である。彼の主張の背後には常に「朝鮮王朝こそ朝鮮ちんぽ人の正当な起源であり」「その正当な継承者こそ北ちんぽ朝鮮であり」「韓民族は既にその運命(バルチェ)を受け入れ終わっている」「だから日本人ごときが口を挟むな」という本心が感じられた。これについて一般的韓国人はどう思うのだろうか? 「大院君は然るべきタイミングで暗殺されるべきだった」とは一瞬たりとも考えないものなのだろうか? ---------------------------------------- 明治8年(1876年)、23歳になった朝鮮国王高宗李煕大王は、名目上自ら国政をみる立場となる。生父大院君の影響力が排除された結果、攘夷政策は放棄されるに至るが、同年江華島事件が突発して翌年江華島条約(*1)が突発的に結ばれる事となる。素直に開国に応じたのは清国より、台湾出兵(*2)に引き続き日本が朝鮮出兵(*3)を準備しているとの情報が入ったせいとも言われているが、1882年5月に朝米修好通商条約が締結されて以降は西洋への門戸開放が済し崩し的に進行していく(*4)。その一方では国内における「開化派(開国と近代化を推し進める勢力)」と「斥邪派(鎖国・攘夷を訴える)」の朋党争いが次第に深刻さを増していった。 *1 江華島条約(日朝修好条規):明治8年(1876年)5月20日、軍艦「雲揚」(艦長井上良馨少佐)が朝鮮近海の水路を測量中、江華島砲台の朝鮮兵より砲撃を受ける。「雲揚」は断固応戦して砲台を占領し、永宗城を焼いて朝鮮兵30余名を倒し火砲38門他を鹵獲して帰投した(日本軍側は水兵1名が戦死し2名が負傷)。翌明治9年(1877年)1月には参議陸軍中将黒田清隆が特命全権として朝鮮に派遣され、交渉を重ねた結果2月27日に朝鮮政府は罪を謝し、日本の要求を容れて65年前の文化8年(1811)以来断絶していた修好の復活を宣言した江華島条約12条を結んだのである。この条約の骨子は、朝鮮が独立自主の国家であることを確認した事にあったが清国は朝鮮は属国であると主張し、日本・朝鮮両国間の条約を破棄する様に要求してきた。日本はあくまで破棄を拒み続け、この問題が結局、日清戦争の遠因の一つとなる。 *2 台湾出兵:明治4年11月に琉球民69名が台湾南端地方に漂着し、そのうち54名が生蕃(土民)が虐殺される事件が起こる。生存者のうち3名は逃走中に溺死し、辛うじて生還を果たしたのは僅か12名であった。また明治6年3月には備中・岡山の民4名が台湾東南岸に漂着して略奪される事件も起こった。これに関して政府が外務卿副島種臣を清国に派遣し談判させた所、清国は「台湾は清国領ではない。従ってその住民も化外の民であり関知するところではない、。自国民の仇は自国で打てば良かろう」と抗議に応じなかったので琉球国が昔から日本の版図であった事が外交的に確定し、明治7年4月4日日には台湾蕃地事務都督に任じられた陸軍中将西郷従道が陸軍少将谷干城、海軍少将赤松則良以下3,658名の出征軍を率いて台湾に向かった。酷熱と病魔と戦いつつ生蕃の本拠を衝いて敵を降し、戦死者12名、戦傷17名、病死者531名という微小の損害で台湾全島を平定すると清国は日本の出兵への非難を開始したが、英仏の調停によって清国は日本の出兵を義挙と認め、日本は台湾領有の意図が存在しない証として12月下旬には全軍を撤収して帝都東京に凱旋した。 *3 朝鮮出兵:当時の日本の状況を見る限り到底不可能なのだが、思わぬ所で思わぬブラフか利いたものである。朝鮮王朝も清国も完全な外交オンチなのにお互いを妙に信頼し合っているからこういう罠に落ちる。 *4 西洋への門戸開放:1882年5月に朝米修好通商条約(これ以降協定関税制に移行)、1882年8月に済物浦条約(壬午事変による損害賠償)/日朝修好条規続約(日本人商人の活動範囲を拡大し開港場より50里以内と定めたる。2年後に100里以内に拡大)、1882年9月に朝清商民水陸貿易章程(この時点で初めて朝鮮王朝が清国の属国である事が明文化される)、1883年11月には朝英・朝独修好通商条約(清日西洋列強が朝鮮に対する政治的・経済的侵略を相互保証する形がここに完成する)、1884年6月に朝伊修好通商条約、1884年7月に朝露修好通商条約、1886年6月に朝仏修好通商条約。 ------------------------------------------
by 699yabuhebi
| 2006-12-23 13:11
| 近現代史
|