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【日韓歴史比較1727-1910】明治維新と朝鮮半島の産業革命(3)
ところで朝鮮王朝は、1881年に旧式軍隊を旧来の五営より武衛営と壮禦営の2組に改組したが、それだけでは飽き足らず日本より顧問を呼び寄せて近代式の新式軍隊の編成を試みていた(*1)。しかしその間、従来の旧式軍隊の扱いがなおざりになり、給与不払いや差別待遇などが行われていた(*2)。これらに不満を持った旧式軍隊が大院君や斥邪派朋党の煽動もあって閔妃暗殺を狙って蜂起する(1882年「壬午軍乱(イモクルラン)」(*3))。この軍乱で大院君は一時的に政権を掌握する事に成功したが、閔妃は清の袁世凱に依頼して反乱軍の排除を強行する。その結果、閔氏一族は再び政権の座に返り咲き、大院君は清に連行される事になった(*4)。
*1 朝鮮王朝の近大軍隊創設の試み:これが本気だった証拠に、当時の宮廷予算の実に3割近くが当てられている。しかし所詮それは蟷螂の斧に過ぎなかったのである。詳しくは下記を御覧あれ。 【韓半島1885-1904】経済学的側面から見た朝鮮王朝 日(http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1753506) 韓(http://bbs.enjoyjapan.naver.com/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1753506) *2 差別待遇:記録によれば、配給される米が腐っていたり砂を混ぜて大幅増量されたりしていたそうである。とてもではないが同朋にする事とは思えず「実は大院君や斥邪派朋党が流したデマだったのでは?」と考えてみたりする。インドにおける「セポイの反乱」も発端は「銃身の潤滑油に牛脂が使われているらしい」というデマだった。 *3 壬午軍乱:明治15年(1882年)7月20日に発生。蜂起した兵士は200余名だったが、これに暴民が加わり王宮への乱入時には2千名以上の勢力に膨れ上っていた。暴徒の群れは王と王子を生け捕りにし、閔氏一族を虐殺する。大院君はこの機を逃さず日本人の追放を図り、その結果派遣教官・堀本礼造工兵中尉をはじめ6人の日本人が殺害された。日本公使館も焼かれ、花房義質公使らは重囲を突破して仁川に逃れ、英国軍艦に収容されて辛うじて帰国した。花房公使からの報告を受けた日本政府は、黒田清隆の強硬論と山縣有朋の慎重論を拝聴した上で結局外交交渉を援護する為の少数派兵のみを許可する。それらの兵に護衛されて8月20日京城に戻った花房公使は、公式謝罪、損害賠償、犯人関係者の処罰など6か条を要求したが、再び実権を握った大院君はこれに対する回答を遅らせた。清国に求めた援兵の到着を待っていたからだが、一方、山中に逃れていた閔妃もまた密使を清国に送り救済保護を要請していた。当然、清国が選んだのは傀儡にするに相応しい程弱った閔妃の方であった。清国より陸兵と軍艦6隻が到着すると緊張が高まったが、清国軍が最初に着手したのは大院君の抑留と引退だった。8月30日日には「済物捕(さいもつほ)条約」が調印され、日本は謝罪賠償の他に公使館護衛の為の駐兵権も得たが、清国が朝鮮王朝体制を好きな様にいじくり回し、実質上の属国/傀儡国家に改変していくのは傍観せざるを得なかったのである。 *4 外国軍による内乱の鎮圧:インドがこれでやられた事を反面教師とし、日本列島では禁じ手とされて来た事を思い起こされたい。それにしても清国のやり方は壮絶である。イギリスはインド支配確立までに百年単位の時間を要したが、清国は政変の折を狙う事で僅か数日でそれを達成してしまった。その後の清国の支配体制がどういうものだったかについては「お願いですから気に入らないからといって身分を問わず人前で棒で叩くのだけはお止め下さい。配下に示しが付きません」という上告文が残されているという一事を挙げるだけで事足りるであろう。 ------------------------------------------ 壬午事変後も京城内では日本兵と清国兵の対峙は継続した。今や日本政府にとっての希望は開化党(*1)しか残っていなかったが、手を携えて大院君一派を追放して以降は『親清派』閔妃一族との溝は深まるばかりだった。1844年には甲申政変(*2)を仕掛けて失敗し、粛清の憂き目に会ってしまい、それ以降は清国の天下となる。日清両国が軍隊を引き上げた後、自国軍だけで治安を維持するのは到底不可能だった(*1)。飢饉の影響もあって国内で反乱が頻発する様になる(*2)。そんな最中に発生したのが1894年の甲午農民戦争(東学党の乱)であり、これが日清戦争に発展した。 *1 開化党:日本の明治維新の朝鮮への輸入を考える朋党派で、実学を学んだ中人層を主軸としていたが、そのままでは上申の手段がない為、金玉均や朴泳孝を擁立した。この図式は坂本竜馬が『大政奉還』を上申するに当たり元々所属した土佐藩の上士である後藤象二郎を取次役に仕立てていった過程と似ていて興味深いが、もしその通りだとしたら甲申政変に失敗して亡命し、単身になってからは殆ど政治的能力は喪失していた可能性が高い。 *2 甲申政変:開化党が国政改革を断行する為に、明治17年(1884年)12月4日 京城郵便局開設の祝宴に各国公使と政府高官が一堂に会した夜、開化党の洪英植、朴泳孝、徐広範、金玉均らが閔氏一族の高官閔泳翊を傷付けて王宮に迫り、翌12月5日に国王を擁して大政一新を布告し、王宮守備のため日本公使の竹添新一郎に援軍を要請した事件。竹添公使は100名余の兵を率いて王宮護衛に向かったが、閔氏一族は直ちに清国兵に救援を求め、これに呼応した袁世凱は清国兵2000をもって王宮に到着して攻撃を開始した。数が少なく非常な苦戦を強いられた上に国王にまで見限られた(密かに王宮を逃れ清国軍に投降)日本軍は在留邦人を含む40名を越す死者を出しながら京城を撤収し仁川に逃れた。日本政府は、朝鮮に対しては謝罪賠償を、清国に対しては国王を護衛していた日本兵を攻撃した罪を糾し、その結果明治18年1月9日には日朝間に「京城条約」が調印された。また伊藤博文らを天津におくって清国と談判し、4月18日には日清ともに朝鮮から撤兵すること、将来朝鮮に異変が起こり両国または一国が派兵を要するときは、相互事前通知を必要とする事を定めた「天津条約」を締結する。何とか海外への亡命に成功した金玉均であったが明治27年(1894年)3月27日、朝鮮政府の送り込んだ刺客洪鐘宇によって射殺され、遺体は朝清国軍艦咸靖号で本国朝鮮に運ばれ凌遅刑に処された(遺体はバラバラにされ、胴体は川に捨てられ、首は京畿道竹山、片手及片足は慶尚道、他の手足は咸鏡道に曝されている)。ちなみに犬養毅らの支援で東京の青山霊園の外人墓地に墓が建てられ、後に韓国政府の管理下に移されたが月額590円の管理料金を5年間滞納していたために撤去通告が東京都から出された事がある(中央日報 2005.05.23「改葬免じた東京の金玉均墓地」)。また2005年8月29日に韓国民族問題研究所、親日人名辞典編纂委員会によって「親日人名辞典に収録される予定者」に加えられ親日派(チニルパ)と認定された為、韓国人はもうこの人物が「愛国者」であった可能性を認めてはいけない事になっている。ところで、甲午農民戦争(東学党の乱)の蜂起が金玉均の遺体が凌遅刑に曝された翌月なのは果たして偶然なのだろうか? *3 朝鮮軍の有名無実化:清国軍と日本軍の干渉と跋扈が原因とされているが、元々の財政規模が最大の原因である事は先に述べた。江戸幕府でさえ非常時には旗本の棒給を半分に削る等の非常措置により財政規模を三倍に拡大しているが、朝鮮王朝は一貫してそうい非常措置を取った形跡が見られない。 *4 反乱の頻発:軍隊が有名無実化したからそうなったのかもしれない。この辺りは正直言って勉強不足。 *5 甲午農民戦争(東学党の乱):1871年3月26日~5月28日までパリを支配したパリ・コミューンを超える期間維持された世界史的偉業であるが、ここで詳しく述べ出すとそれだけで紙面が尽きてしまうので、とりあえず他スレに振る。 【韓半島1894-1895】甲午農民戦争(東学党の乱)とは何か? 日(http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1754088) 韓(http://bbs.enjoyjapan.naver.com/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1754088) 日本にも「加賀一向一揆(1488-1580年:その後もその所領は「治まらぬ地」と認定され、平定に参加した前田家が外様ながら100万石の単位のまま幕末まで統治を続けた)」という奇跡的に長く続いた農民一揆が歴史上存在しているが、それを支えたのは、高い知能を有し、かつ農民層と一体感を持った有識者層と綿密な連絡網であった。詳細はここでは述べないが、甲午農民戦争もまたそういう仕組みをもった反乱であった事は間違いない。この日清戦争の引金となった反乱は、日本軍と清軍に寄って集って叩かれ、40-50万人という莫大な人的被害を出して鎮圧される。しかし中核部はしっかりと生き延びて日本に留学生を送り(この1点だけ見ても愚鈍な貧民集団ではなかった事が知れる)、日本との対等併合を望む「一進会」を組織していく事になる(この流れは、当時朝鮮王朝側も日本側も完全には把握し切れてなかったと云う。組織的結束力が高くなければこうはいかない)。これはあくまで推測だが「一進会」の狙いは実は朝鮮半島における「廃藩置県」の断行だったのではなかろうか? ところが実際には1910年に韓国併合を達成した日本は「廃藩置県」どころか土地に対する重層的権利を排除しただけで原則として李氏朝鮮時代の土地制度をそのまま継承する道を選んだ。その結果、地方両班地主の多くがそのままの形で残される事になったのである。しかも武断統治を断行し「一進会」を解散に追い込むという暴挙に出た為、元会員の多くが心の底に鬱憤を溜め込む形となった。その鬱憤の少なくとも一部は1915年の5.1運動で発散されたものと考えられている。 ------------------------------------------ 以降も、政治的にはこの後も色々な事が起こっていきますが、経済問題はずっと放置されたままなので時間軸を日韓併合後期まで飛ばしましょう(「党派政治」が始まると韓国の政治は必ず踊ってばかりで前に進まなくなる)。ここから先は資料中心で進めます。
by 699yabuhebi
| 2006-12-23 13:12
| 近現代史
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