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韓国との歴史認識の共有は可能かを探る
by 699yabuhebi


島原の乱

島原の乱は、1637年に九州・島原でおこった農民反乱である。
 長崎県の一地方である島原で、
・藩主のキリスト教に対する対する弾圧
・過酷な納税
に対しておきた農民反乱である。

 旧藩主・有馬家や小西家の浪人も加わり大規模で組織化され、原城に立て篭もり
篭城戦を行う。農民軍の兵力17、000。

 鎮圧の為に動員されたのは、秀吉が朝鮮征伐に派遣した軍隊とほぼ同じ兵力の
126、000

 しかも
・朝鮮征伐と違い補給の心配の無い精鋭
・朝鮮には持ち込まなかった大量の大砲
・オランダ艦隊による艦砲射撃
・兵粮攻め

 農民たちは約4ヶ月の戦いの後、全滅した。

 この農民たちにくらべれば朝鮮軍は、その弱兵ぶりが目立つ。
# by 699yabuhebi | 2006-12-22 23:43 | 中世・近世史

独島問題SCAPIN677

最近 誤解してる人が多いので 竹島問題について 投稿♪

よく出てくる SCAPIN677ですが ここの第3項と 第5項を 根拠とする 韓国人が 調子に乗ってますw

都合の良い部分だけを読まず 最後まで読みましょうw

そんな訳で 第6項♪

6. Nothing in this directive shall be construed as an indication of Allied policy relating to the

ultimate determination of the minor islands referred to in Article 8 of the Potsdam Declaration.

翻訳♪

6.この指令中の 条項は 何れも ポツダム宣言 第8条にある 小島嶼の 最終の決定に関する 連合国側の

政策を示すものと 解釈してはならない。



SCAPIN677原文



資料は 最後まで読みましょうw

ちゃんと この指令は 最終決定ではないと 書いてありますがw

3項とか5項を根拠にする韓国人諸君♪ 読解力ないでしょうw



カイロ宣言や ポツダム宣言 サンフランシスコ講和条約 日韓基本条約の関係ですが



カイロ宣言

右の同盟国の目的は 日本国から 1914年の 第一次世界戦争の開始以後において 日本国が 奪取し 又は

占領した 太平洋における 一切の島嶼を剥奪すること 並びに満州 台湾 及び 澎湖島のような 日本国が

清国人から盗取した 一切の地域を 中華民国に返還することにある。

日本国は また 暴力 及び 貪欲により 日本国が略取した 他の一切の地域から 駆逐されなければならない。

前記の三大国は 朝鮮の人民の 奴隸状態に留意し 朝鮮を 自由 かつ 独立のものにする決意を有する。



カイロ宣言 原文(但し 署名無w)


ポツダム宣言

カイロ宣言の条項は 履行され また 日本国の 主権は 本州 北海道 九州 及び 四国 並びに

われらが決定する 諸小島に局限される。



サンフランシスコ講和条約

日本国は 朝鮮の独立を承認して 斉州島 巨文島 及び 欝陵島を含む 朝鮮に対する すべての権利 権原

及び 請求権を放棄する。



日韓基本条約

1951年9月8日に サンフランシスコ市で署名された 日本国との 平和条約の関係規定 および

1948年12月12日に 国際連合総会で 採択された 決議第一九五号(III)を想起し この基本関係に

関する条約を 締結することに決定し



全部リンクしてるんですよねw



カイロ宣言は よく誤解されますが 赤字で書いてる所を よく読みましょう。韓国のポータルサイトでは

この部分を 意図的に歪曲してますが 全文を読めば 理解できるはずです。

暴力 及び 貧欲により~の項目ですが

日韓併合は 正式な条約に則って 行なわれたものです。

無効論を唱える 脊髄反射反日の人は 先ず 無効を証明しましょう♪

売国奴が署名したから 無効とか言わないようにw

大韓帝国国制を 最後まで読んで 全権委任大使が 署名してるのを 確認しましょう♪

参考スレ(日本語)

http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=thistory&page=2&nid=1637364

参考スレ(韓国語)

http://bbs.enjoyjapan.naver.com/tbbs/read.php?board_id=thistory&page=2&nid=1637364



SF講和条約は 連合国と日本の間の条約なので 韓国は関係ない・・・この言い分ですが

日韓基本条約で 承認済み すなわち この論理は 成り立ちません。

最近公開されたのだから条約くらい読みましょう。



最終的に 竹島の件ですが

日本が 領土編入→放棄する領土に記載なし→日本の領土

こうなります。

当時 外交権がなかったとか 馬鹿な事を言う人もいますが 当時 外交権はありました。

年表くらい確認しましょう。

勅令41号を 根拠にする お馬鹿な人もいますが 竹島or独島 双方の記載はありません。

石島が 独島だと証明する必要があります。

尤も 緯度・経度が書いてない時点で 領有権主張なんて 出来ませんがw 方言なんて 論外ですw



都合の良い部分を 作為的に抽出して 願望で 脳内変換して

他人を誹謗するなんて 馬鹿じゃないの(冷笑

反論あるなら お好きにどうぞw

願望や 妄想ではなく 資料・根拠に基いた 反論なら 真摯に応対しますw



※ちなみに このスレでは カイロ宣言の無効論には触れてません♪
# by 699yabuhebi | 2006-12-19 23:24 | 竹島問題

安重根を国民的英雄に選ぶ民族心理

当時の記録を見る限り、伊藤博文暗殺が決行された時点における安重根は、意外にもそれ程英雄視はされてなかった。なにしろ大韓国帝国皇帝自らが10月18日にこう発言している。


「伊藤を失ったことは、わが国といわず、日本のみならず、東洋の不幸である。その凶漢が韓国人とあっては、赤面のほかない」


これで、なおこの人物を表立って賞賛し続けるなら義士としての大義名分が立たない。それに当時の「憂国の戦士」達は、この様な暗殺事件がこれから先も次々と起こり、それによって「日帝の野望」が挫折すると無邪気に考えていたのである。ところが現実は厳しかった。


「国家の命脈が寸刻の間に迫っているのに、国民の間には何が亡国たるかを知らない人が多かった」


と、後に大韓民国臨時政府の首相も勤めた事がある金九氏でさえ述べている。例えばハワイ遊学を打ち切って帰国した李在明なる人物は「愛国心に駆られて」妻の勤務する学校の教師の主演の席を襲って仲間に迷惑を掛けた上に、さらに一進会から提出された「日朝対等合併建議」の受理をあくまで拒絶し続けていた李完用を襲撃し、彼から「最後の抵抗」を続ける気力を奪ってしまった。さらに酷かったのが安重根の従兄弟に当たる安明根の例で「安重根を見習って」強盗の計画を立てるうちに逮捕され、多数の協力者名を白状してしまったのである。それで逮捕された人々も同様に多数の名前を白状した為、黄海道の抗日グループはその大半が摘発の憂き目を見る羽目に陥った。この時逮捕された金九は獄中でこう嘆かざるを得なかった。


「己の国の任務に忠実な奴ら(日帝の手先達)は、既に奪い取った人の国の命脈を絶とうとして夜を徹している。しかし私は、自分の国を取り返す事業の為に何日徹夜した事があっただろうか」


弾圧する側に真剣さと熱意と根気で負け続ける限り、弾圧される側の勝利など有り得ない。投獄された期間中、金九は日本側が「丁稚上げ」を行う現場を目撃したと主張している。まだ年端のいかない少年の証人に対して、朝鮮語の解る日本人がいない隙を見計らって、同族の通訳が「馬鹿だな、言われた通りを認めたら、俺が責任を持って家に帰してやる」と囁き、少年が素直に頷くのを見たというのである(年端も行かぬ丁稚奉公中の少年を無理矢理やり込めて偽証させるのが「丁稚上げ」の原義だから、これはまさに「丁稚上げ」である)。また、通常の拷問では埒が開かないと見定めた尋問官が、食事を断ち切った上でキムチや肉入御麺の匂いを嗅がせても金九が耐え抜いたのを見て「これで落ちない朝鮮ゆっけ人を初めて見た」と感嘆して態度を改めるのも目にした。逆を言えば、大半の同志がそんな試練さえ超えられなかったという事である。さらには楼内で一緒になった「活貧党(1900年以降に登場し、日本人商人を襲ったり、商品を掠奪したり、果ては日本との通商禁止を叫ながら匪賊化していった義兵団)」の幹部から「我々は仲間を選ぶ時には徹底的に相手の人間性を見極め、裏切る様なら何の躊躇いもなく処刑してきた。それが出来ないあんたらとは間違っても組めない」と申し渡されている。こうして「50人に秘密を打ち明けたら、50人の密告者を作ったのと同じである」という自民族の現実を思い知らされた愛国義士達は、次第に「誰にも計画を打ち明けず一人で計画を実施し」「逮捕後も仲間を一人も売らなかった」安重根と「鉄壁の掟を厳守する」秘密結社の存在の偉大さを否が応でも痛感させられる事になったのである。


このうち本当に危険なのは実は秘密結社への憧憬の方と言って良い。


元を正せばそれは、許﨏(名家の生まれながら水滸伝に感動して「活貧党」を創始し、壬辰の乱で荒廃した朝鮮半島再生の為にあらゆる既存秩序の破壊を試み、最初のハングル小説とされる「洪吉童伝」にその行状を自叙伝的に記し続けた末に、大北党に所属したのが仇となって反逆罪で磔にされた人物)や、林巨正(黄海道中心に荒らし回った白丁出身の盗賊団の親分で、日韓併合期に洪命憙(1888~1968)によって歴史小説化された)等を筆頭とするピカレスク・ロマンの系譜なのだが、現在その精神の継承者を自認するのはむしろ北ゆっけ朝鮮である。「軍事政権による執拗な弾圧に苦しめられた学生運動を主導した386世代が何故、北ゆっけ朝鮮の工作員達に、これ程までに容易く取り込まれていったか」を読み解く鍵がここにある。日韓併合後に愛国義士達が直面した様に、自分たちの弱さを散々思い知らされた後で彼らは「朝鮮民族の弱さを克服するには、裏切者を容赦なく処刑していく鉄壁の組織しかない」とする伝統的思考を工作員達に突きつけられ、それに屈したのであろう。北朝鮮による韓国の赤化統一が例え国民の半分の処刑と残り半分の奴隷化を意味すると事前に知っていたとしても彼らは動じる事はない。その時処刑される人物の筆頭に自分の名前も挙げられていると知ってもやはり同様であろう。「それさえも平然と受け止められてこそ民族的正義の実践者」と説かれ、その峻厳さを受容する事によって初めて自己不信からくる弱気を乗り切ったのが彼らなのである。そういう彼らを今の韓国人は果たして「愛国義士」として歓迎し得るのだろうか。今問われているのはそういう事である。


どうせならそれにさえも見切りを付け、「仁や孝より義を重んずる」日本の法治主義概念を受け入れ、祖国も日本もそれで裁く決意を固めた一部抗日運動家を見習って欲しかった。皮肉にも、彼らは同時に『安重根的処世術』の徹底した実践者だったので、その内心を同志に悟られずに済む場合が多かった。概ね北ゆっけ朝鮮の限界を予め見抜いて韓国に残り、南ゆっけ朝鮮労働党を結成した人々に多かったと考えられている。その精神は、同組織にスパイとして入り込んだ朴正煕大統領を通じてむしろ軍事政権に受け継がれたとする説もある。そういう彼らを今の韓国人は果たして「愛国義士」として歓迎し得るのだろうか。今問われているのはそういう事である。


そういう思考過程を経た後でのみ「安重根だけは間違いなく愛国義士であった」という韓国人の確信の意味が他民族にも理解可能となる。伊藤博文暗殺が、結果として日韓併合を推進してしまった事など、最初からどうでも良い事だったのだ。何故ならそもそも「愛国義士」そのものが「朝鮮民族の為に自分は何が出来るか」という真摯な問い掛けから生み出されたものではなかったからである。これについては日本の幕末の志士も同様で、中には「百姓出身の俺達でも、この機会に名前を挙げれば大名になれるかもしれない」としか理解してない不届者まで混ざっていた。しかし確かに明治維新を成功に導いたのは、そういった連中に混ざって『安重根的処世術』を実践していた坂本竜馬や大久保利通といった人物達だったのである。台湾の民主化を実現した李登輝元総統や中華人民共和国を資本主義経済受容路線に切り替えた登小平元総書記もまたそういう人物であった。「他はそれだけではなかった」事に思い至るまで、韓国という国は「義士」や「秘密結社」といった前時代的遺物による精神的束縛から逃れる事は出来ない。
# by 699yabuhebi | 2006-12-19 00:14 | 近現代史

「高句麗歴史復元法案」を国会に提出

「高句麗歴史復元法案」を国会に提出

中国の歴史わい曲に対応するための「高句麗(コグリョ、B.C.37~A.D.668)文化史跡地の保存と南北(韓国・北朝鮮)協力などに関する法律案」が、与野党議員ら85人の共同発議で、18日、国会に提出された。中国の東北工程に対応する論理的対策作りが骨子になっている。

▽史跡の発掘・復元などを通じた史料の確保▽高句麗委員会の設置を通じた文化史跡地の指定・保存▽南北協力事業への支援策--などが盛り込まれている。法案を代表発議した与党ウリ党の尹昊重(ユン・ホジュン)議員は「東北工程がさらに直接的かつ露骨的な様相を見せはじめている」とし「学術的研究を通じて、体系的な歴史わい曲に乗り出した中国に対抗するためには、感情ではなく法律に基づく理性的かつ論理的な対応が必要とされる」と述べた。

中国は04年、国連教育科学文化機関(ユネスコ)に高句麗の文化遺跡を世界文化遺産として登録して以降、高句麗時代の首都・吉林省付近に「高句麗文化観光城」のテーマパークを造成中だ。また、白頭山(ぺクドゥサン)観光団地を世界自然遺産に登録するために、朝鮮*族と韓国人が運営している付近の宿泊施設に強制撤去命令を下したりもした。

パク・ヨンミ記者

http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=82867&servcode=200§code=200
# by 699yabuhebi | 2006-12-18 21:12 | 古代史

「李氏朝鮮-大韓帝国期」における土地制度の真実

常に大規模災害に備え続ける必要のある日本では、かなり古くから

「有事の際には生き延びる為に住民が一致団結する」
「その時の為の準備も日頃から怠らない」

という考え方が伝統的に存在してきた。


それに対して韓国では、

「アメリカ軍が韓国国内に追加の練習場がつくれないと出て行くと言っている」
「アメリカ軍のその主張の妥当性は頭では充分理解している」
「だけど自分の住む地域には絶対にその建設は許さない」
「全ての韓国人がそう振舞うだろう事はあらかじめ予測がつく」
「だからアメリカ軍が韓国から出て行くのは仕方がない」

と考える独特の傾向が伝統に存続してきた。

以下に挙げるのは後者の最も顕著な出現例である。



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「李氏朝鮮-大韓帝国期」における土地制度の真実


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1.李氏朝鮮の行政制度は、原則として高麗時代のそれを継承したものだった。

李氏朝鮮は日本の律令制度同様、王を頂点とする中央集権国家だった。土地は一応全て公共資産とされていたが「功臣田(功績のあった臣下に下賜され、世襲を許される)」、「別臣田(本来は一代限りだが、国王より「子孫相伝」という御墨付がもらえれば世襲可能)」といった抜け穴が多かった上に農民が自分で開拓した土地についても私有の許可が下りた。

さらに「官房田(王宮と王族に与えられる所領)」と呼ばれる制度もあり、これには田税免除、耕作者の賦役免除、低率の小作料という特典がついていたので日本の荘園制度同様、開拓者から寄進を受ける事が多かった(これを「投託地」という)。それだけでなく「導掌(日本で言うと地頭に当たる現場管理者)」が勝手に周囲の私領を押収して管理下に組み込む事も多かった(これを『混奪地』と言う)。


2.最初の躓きは、「量田(日本で言う『検地』)」の打ち切りだった。

粛宗の時代の1717年から1720年にかけて行われた調査を最後に作地の実態把握が行われなくなる。それ以降は、例え誰かが提案しても必ず儒臣達の反対により握り潰されてきた。何故なら量田が行われると自らの所有する「隠田(徴税の対象未登録の耕作地)」が発覚してしまうからである。

こうしてこの国はこれ以降250年もの間、本当の歳入が幾らか不明のまま「丼勘定」で運用され続ける。その結果、「税金は踏み倒した方が勝ち」という考え方が一般化する一方で、国庫が空っぽになりかれる都度、抜き打ちの増税や種々の名目による加重課税で無理矢理辻褄を合わせるといった事が繰り返されてきた。

3.国名を大韓帝国に変更した時点では、収入が「日本政府の数百分の一」しかなかった。

これでは流石に何も出来ないので、とうとう数百年振りに量田が行われる事になった。しかし、あくまで隠田発覚を恐れ続ける儒臣達は、この起死回生の賭けさえも執拗に反対を重ねて挫折させてしまう。これが有名な『光武革命』で、その挫折をもって事実上、大韓帝国の寿命は尽きた。

計画が挫折しなければ未来があったとも限らない。
実は、後に東拓が行った土地調査には何と8年もの歳月と2040万円もの費用が必要だった。
この時点における大韓帝国に、それに耐え抜く余力があったかどうかは微妙である。


4.東拓の土地調査が「大韓帝国を殺した真犯人」を明かした。

東拓の土地調査これだけの費用と時間が掛かったのは、何もかもが原簿通りでなかったからである。
驚いた事に国の耕作地の総面積は250年の間に約275万町歩から487万町歩に倍増していた。『官房田』13万4千余町と『駅屯地』12万町歩(就耕小作人33万人)も再発見されたが、それを官用地として接収できたのは、10年掛けて前者への異議申し立3132件、後者への異議申し立て1254件を処理した後だった。

かくして大韓帝国は
滅びるべくして滅んだのである。



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この横領罪の重さを思えば、儒臣達が「後ろめたさ」から起こした「義兵蜂起」など何であろう?
下記についても同じ事が言える。


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『国定韓国国定高等学校歴史教科書(明石書房)』 1997年版



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「国債報償運動」


日帝の惜款捉供による経済的隷属化政策に抵抗して国債報償運動が起こった。日帝は統監府を設置し、彼らの植民地施設を整えるために施設改善などの名目を掲げてわが政府に日本から巨額の惜款を導人させたが、1907年まで導人させた惜款総額は大韓帝国の1年の予算とほぼ同じ1300万ウォンに達した。

そこで、国民の力で国債を返済し、国権を守ろうとする国債報償運動が大邸からはじめられ全国に広まった。国債報償期成会を中心に各種愛国啓蒙団体と言論機関が募金運動に参加した。募金のために禁煙運動が展開され・婦女子はかんざしと指輪まで出して呼応した。しかし、日帝統監府の悪賢い弾圧でこの挙族的な経済的救国運動は挫折させられてしまった。


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実際にあった事



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1.元々閔氏政権は容赦なく海外から無制限に借款を借り受け、その担保として国の権益を次々と売り渡すという事を平気で繰り返してきた。

2.そして都合が悪くなると国際法を無視して全て踏み倒すという事を繰り返して来た。
(御蔭で1905年に日本が外交権を接収しても、国際的に非難される事がなかった)


3.それ以降は日本への借款がどんどん増加していく。
(そして、これをまずい感じた人々が、この運動を開始する)

4.結局、内部の者による横領が激し過ぎて竜頭蛇尾に終わった。


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大きく宣伝しておきながら、裏で平然と約束額を踏み倒した「スマトラ義捐金」と基本は同じである。

「国を救うのに間に合わなかったけど、ケンチョナ!!」

そういう叫びが当時上がったかどうか、今となっては知る術もない。
# by 699yabuhebi | 2006-12-18 20:42 | 近現代史