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韓国との歴史認識の共有は可能かを探る
by 699yabuhebi


【韓半島1921】台湾官僚の目に映った戦前の朝鮮半島

昔の新聞でこんな記事を見つけました。
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台湾と朝鮮の農業 朝鮮農民の怠慢を惜む 京城日報 1921.6.27(大正10)
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 朝鮮に来て逸早く感じたのは一農民が元気を欠いでいる事、換言せば怠け者が多いと云う事である、之を台湾の農民と比見せば全くお話にならぬ位で併合後十年の朝鮮と施政後数十年を経過せる台湾とを同日に論ずるの不可なるは勿論であるが、それにしても余りに怠け者が多い、試みに台鮮両農民を照合すると彼は頗る元気であって智識欲の旺盛なる結果耕作の上に甚大の効果を齎す現に台湾の一部しか占めない水田のみによる米の収穫でも一年百万石の多量を算し自給自足して余りある結果ドンドン輸移出するの盛況を示している、猶此外に砂糖及び茶の産額の多量なる事既に世界的定評を博せる所であって其質逐年に改良され其量年と共に増しつつあるに見ても此間の消息を知る事が出来るであろう、然るに朝鮮の農民にありては殆ど智識欲に欠乏し引いて農事の改良を策せず所謂其の日かせぎに甘んずるの結果遂に幾百年来の農業国も空名無質にして忸怩たる有様ではないか、田制改革は固よりながら鮮ちんぽ人に智識欲の欠乏せる事殊に細民たる一般の小作人が金を得るの欲を欠ける事、此所に主張がなく要求がなく常に貧にして常に虐げられ消沈徒に膝を擁して甘んじるの腑甲斐なき結果が生れるのである、台湾人は更に金を欲する、金を欲するが故に決して怠けない、酷熱肌を焼く炎天下に笑を含んで労働を楽める様は一度朝鮮ちんぽ人に見せたい位である、然らば何故に台湾人は斯くの如く働くようになったのであろう、そして何故にかく進歩したかと……夫には大なる原因がある、即ち監督官庁と一般農民との中間に所謂中堅階級が出来た為である。精糖会社が出来る工場ができる、人物が渡する、資本が渡って来る、機械が移入される、茲に於て会社の能率を上げんとならば一般農民の知識を高めねばならぬ、彼等を安じて働かすには自ら収穫を増さしむる必要がある、そこで中堅階級が直接に彼等を助成し指導する、遂に今日の発達を来たせる所以で由来農業の進歩を期せんとならば堅実なる工業的中間階級の手によって徹底的に之を指導するの外はない、然るに朝鮮はどうであるか農業を助長すべき工業がない、監督官庁と農民との間は宛ら雲泥の隔たりがあって有利に然も直接に指導するに困難を生じている、従て朝鮮には誇るべき何等の名産すらないではないか、台湾とはまるで反対である(大島台湾試験場長談)。

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台湾人農民は「欲がある/知識欲がある→元気良く働く→大成功」
朝鮮ちんぽ人農民は「欲がない/知識欲がない→元気がなくて怠け者→ずっと貧乏」
何故、このままでなかったか、今の韓国人は良く考えて見ましょう。
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# by 699yabuhebi | 2006-12-23 13:25 | 近現代史

「ならず者」か「重税」か。「親日」か「因循」か。

【韓半島1894-1910】「ならず者か重税か」「親日か、因循か」当時他に選択肢なんてなかった。

 戦前の日韓併合期について振り返るとき、「日本人の罪」と「日帝の罪」を絶対に混同してはならない。本来なら歴史教科書の中でも書き分けが必要な筈である。

 「ソルジャー・ブルー」の様に「騎兵隊によるインディアン虐殺」を主題とした映画があるせいで「アメリカ政府がインディアンを滅ぼした」と思ってる人が多いが、それは誤解である。実際に不法行為と掠奪でそれを行うのは主に「開拓地の無法性に引き寄せられた破落戸(ごろつき)達」で、騎兵隊はそれに対する原住民の報復が酷くなり過ぎた段階で討伐に立ち上がるに過ぎない。日本開国の折も諸外国の破落戸達が大量来日し、外国人裁判権が日本側にないのを利用して悪事を散々働いた事が記録に残されている。とはいえ日本の破落戸達も負けず劣らず悪辣で、日清戦争決着後の朝鮮半島においても沢山の悪名を残している。

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日清戦争直後の895年、朝鮮駐在公使となった井上馨が見た『大陸浪人』達
(『朝鮮の悲劇(F.A.マッケンジー)』より)
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 「彼らは、粗野、無礼ななだけでなく、朝鮮ちんぽ人を侮辱する。応対において粗暴で、些細な揉め事でも拳骨に訴えて事を処理する事を躊躇わず、相手を川に投げ込んだり、武器に訴える事さえ珍しくない。商人さえもしばしば乱暴者に変貌するので同罪であるが、商人でない者の乱暴狼藉ぶりは輪を掛けてひどい。その上彼らは自分達が朝鮮を独立させ、東学党を鎮圧したのであって、自分達に抵抗や不服従をあえてする朝鮮ちんぽ人は忘恩の徒であると言い立てるから始末に終えない」

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ジョージ・ケナン氏による『ニューヨーク・アウトルック』誌上における弾劾文(1905年)
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 「韓国人は、遺伝と教育によって、その大部分がおおげさなもの言いをする人間か厚顔無恥の嘘吐きである。だから日本の非行に関する彼等の主張を受け入れる際にも独自調査や日本人自身の証言との照合が欠かせないが、それでもその証言の中に相当の真実が含まれている事は否定出来ない」

* この大前提を聞いた途端に以降の話の受容を完全に拒絶する頭脳しか持ち合わせてない韓国人は、自民族の尊厳を守る為に自らの手で抹殺すべきである。今この瞬間も韓国人は、その行為によって味方を急速に減らしつつあるという事を忘れてはいけない。
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 「最初の頃韓国に来た日本人は、たいがいが手っ取り早く富を得ようと考えており、その目的を達成する為には手段を選ばない様な連中だった様である。韓帝国の福祉やその政治への配慮など期待すべくもなく、監獄行きにさえならなければどんな行動でも許されると考えていたに違いない。彼等の多くは、まさに我々のうちあるものがインディアンの権利を扱ったのと同様の方法で彼等の権利を扱ったのである」
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 「次にやってきた日本人移民は、機会さえあれば原住民を騙しただけでなく、法的制裁のない事をいい事に個人的虐待を平気で行い力づくで彼等の財産を自分のものとした。もちろん日本当局はこういう事を認めず、それを防ぐために出来るだけの事をしたのだが、五、六万にものぼる多数の日本人移民が、アメリカのインディアナポリス州の2倍以上もあり、かつアラスカほどに交通機関の欠乏しているこの国の全土に散らばっているのに対し、それを取り締まる領事が半ダースもいない状況ではそれが取り締まりきれる筈など到底なかったのである。韓国人側虐待者は(通商条約により)彼ら自身の国の官吏による保護も彼ら自身の法廷で救済を受ける道もなかったのだから全く無防備と言って良かった」
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 「(さらに問題を複雑化しているのが)韓国人の態度で、こういう事を全て『日本当局の不正』と信じ、そうしか主張しないのである。例えば日本人鉄道工事請負人による土地の占有や韓国人労務者の雇用に関する紛争や苦情を見てみよう。これらの企業やその従業員は、土地代金や労賃の支払いを土地の所有者や労務者本人でなく韓国政府やその官僚に対して行い、それによって支払いを受ける資格のある人に支払額が公平に配分されたものと信じている。しかし実際には土地を収用された人物が弁償を受られず、労働の対価が支払われずに放置される場合が多数を占め、それで訴訟になるのであるが彼らは愚かにも『少なくとも話を聞いてくれる』日本当局を訴えようとし、敗訴して勝手に反日感情を募らせていくのである。この問題は結局、日本当局が支払った金が支払われるべき人に支払われるまで監督する事でしか解決されない筈である。」
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 「また日本はソウル近辺に純粋に軍事技術的見地より土地収用計画を立てて当該地に旗や杭を立てているが、それが本当にそのまま実行されるとしたら3ないし4平方マイルにも及ぶ、千百戸以上もの家屋を含むといわれている地域をも含む広大な土地が奪い取られる事になるだろう。もし軍当局が仮にもその計画を実行に移し、庶民にとって盗賊に過ぎない彼ら自身の政府に補償を得させようとするなら最高の不正義を託つ事になるであろう」
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 結局、こういった『(通商条約のせいで日本人にしか取り締まれない)不良日本人』の暗躍に歯止めが掛かったのは、日露戦争によって朝鮮半島における日本の覇権が確立した後だった。

 伊藤博文が初代総監として就任すると、新設されたばかりの統監府は捕盗庁を廃止し、文民警官で構成される地方警察へと置き換え始めた。彼らは概ね公平で融和的であり、しかもその数が増加するにつれて過酷で専横な振る舞いにより悪評を買っていた憲兵隊の駐留規模が縮小されていったのでそれなりに好評で迎えられた。

 問題はそれとバーターで引き受けさせられた税収の押収である。

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韓国統監府の土木事業 『朝鮮の悲劇(F.A.マッケンジー)』
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 「日本はその統治の最初の段階においては、軍隊を各地の要点から要点へ容易かつ迅速に移動させる事を念頭に置いていた。釜山からソウルまでの鉄道は既に敷設を終えていたが、さらにソウルから義州に至る鉄道の完成を急いでいた。これが完成すれば日本軍の大部隊を日本本国から満州国境地帯まで36時間で移動させられる様になる。1千万円の借款が韓国税関を担保として調達され、そのうち150万円が主要港湾もしくは主要鉄道中心点と主なる地方を連結する四大幹線(鎮南浦-平壌間、木浦-光州間、群山-全州間、大邸-慶州間)建設の為に当てられたが、それだけでは到底足りず残りは特別地方税でまかなわれた。さらにソウルから東海岸の元山に至る鉄道の建設が平行して進められ、完成間近となっていた」

* この幹線が存在しなければ後の時代における朝鮮半島の飛躍的発展もなかっただろう。しかし当時は日本人にも韓国人にも「国が豊かになる為に地域産業を振興させなければならない」という使命感は芽生えてなかった。当時の朝鮮半島では内陸旅行や荷物輸送の手段として馬に載ったり駄馬に積んだりする方法しか知られてなかったが、それは「車輪付の乗物の通行を一切拒絶する」古くて狭くて急勾配の道路しか存在してなかったからである。「これが産業育成を阻んでいる」と気づくには海外留学の必要があり、それを率先して唱えた人々は後になって悉く「親日派」等のレッテル貼りを受ける事になった。彼らを弾劾し続ける以上、「韓国の発展のために新たに現実的な国家計画が必要だ」という発想が再び生まれてくる事はない。

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 朝鮮半島住民にとっての課題が「親日派か、時代の流れに逆らう因循派か」に集約されてくるのはこの頃からで、その課題は韓国に引き続き継承される事になった。この問題の解決がいかに難しいかは、解放後「親日派も時代の流れに逆らう因循派も両方粛清する」という荒療治を試みた北朝鮮において「戦前うまくいっていたシステムが次々と機能しなくなっていく」という惨禍に遭遇した事を見ても明らかである。また「朝鮮総督府の支配に信じられない程長期間抵抗を続けた」という意味で以下の様な者達を英雄として崇拝しなければならなくなる。
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無謀な搾取をする不良舎音の大整理
全鮮約三万三千人中から 適当か否かを当局で調査を急ぐ

京城日報 1934.4.20(昭和9)
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 農村の癌的存在とされている舎音(徴税請負人)について本府では、届出を機会に不良舎音の大整理を行う方針のもとに各道に調査せしめ、不適当と認める者は廃業を命ずることとなった、農林局の調査によると全鮮の舎音は京鉄道の七千五百十九名を筆頭に三万三千百九十名に及び、その大部分は農村に於ける中間搾取者として小作人から無謀な搾取をなしているもので、この届出方針に対し戦々恟々としているが、現在の舎音は旧慣による不良が多いのでその大部分は更新されるものと見られている。
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韓国人はそろそろ「戦前の捉え方」全体の見直しに入った方が良いのではないか。
# by 699yabuhebi | 2006-12-23 13:23 | 近現代史

韓国併合における日韓双方の前提

日韓併合期について、日本人と韓国人が議論する前にまず思い浮かべて欲しい事がある。
「飢饉の最中の狼は、あえて貪らない」という事についてである。

 朝鮮半島経営の為、朝鮮総督府は併合から最後の年までずっと毎年1000万円以上の補給金を内地から支給され続けていた。頼みの綱である内地からの民間融資が「併合前の義兵運動の猛威」「日本人移民と現地住民の衝突」「31独立運動」などの印象もあって中々集まらなかったからである。現地では「(教会系活動家慰撫の為の)信仰と布教の自由の保障」「公務員の給与格差全廃」「ハングル教育」「(生産性向上の為「奉公/勤労の精神、共同の精神、自助の精神」の浸透から始めた)農村/労働指導」「交通インフラ整備(1919年以降は鉄道経営の満州鉄道委託を取り止め、国内の産物輸送を最重要課題として図們腺、恵山線、満裏線、東海線、慶全線を12年掛けて敷設する計画を立てる)」「(貧困農民救済の為の)貸付金の金利引下げ」等の地元住民懐柔策が次々と施行されていったが、その程度の事では、朝鮮半島住民の心の中に鬱屈した「国を奪われた悲しみ」「国政に参加出来ない怨嗟」「いくら働いても暮らしが楽にならない徒労感(日本の農民も、朝鮮半島の農民も、生活費入手と借金返済の為に米価暴落の最中に育てた米を一粒残さず売るしかなかった1930年代には餓死者も出た。また中の下のサラリーマン家庭の食卓は、子沢山のせいもあって「生きているのがやっと」という事が多かった)」は中々晴れなかったのである。


 1922年以降は朝鮮系官僚や父兄会の多くが反対したにも関わらず日本語教育を義務化した反感を和らげる為、日本人用学校においても朝鮮語教育が義務化され、日本人官僚に朝鮮語学習が強く推奨されるに至った(逆に戦争が激化した1937年以降朝鮮語が義務教育から外され、1942年以降は教育カリキュラムそのものから外されたが、日本語教育が既に浸透していた事もあって大きな騒ぎにはならなかった。当時としてはそれより遙かに「日本語を覚えないと出世できない」事の方が重要だったのである)。こうして見る様に当時の日本人が、いかに朝鮮半島住民の反日感情を刺激しない様に気を遣っていたかは明白で、だから「(朝鮮半島住民に反日蜂起の口実を与えて全てを台無しにする様な)あからさまな掠奪や横領は原則として避けただろう」と、考える訳である。


 当然、「黒字達成」後は話は変わってくる。

 もし万が一、土下座してでも日本政府から補援金を引き出し続けないといけない惨めさからも、資本誘致の為に本土企業の視線を絶えず意識し続ける緊張感からも解放されていたら、それまで耐え抜いてきた朝鮮半島はどうなっていただろう? 万歳を叫び交わし、お互い涙を流しながら抱き合った後でどうなっていただろう?


 韓国人側もその場面が想像出来る様になってやっと「第一ラウンド」が始まる。最近、そんな風に思えてならない。
# by 699yabuhebi | 2006-12-23 13:21 | 近現代史

斥倭偽日と斥胡偽清

 朝鮮半島の歴史は何処を切り出しても悲しい。
 繰り返してはならない愚行を何度でも繰り返すからだ。
 「斥倭偽日(倭夷を斥けつつ日本を真似尽くす)」にさえ原点がある。
 18世紀初頭の「斥胡偽清(胡夷を斥けつつ清を真似尽くす)」がそれである。
 後に「朝鮮ルネッサンス」と呼ばれる事になる時代だった。
 しかし、その後には何故か悲惨な歴史が待ち受けていた。
 「どうしてそんな事に?」
 例によって例の如く韓国人と北ちんぽ朝鮮ちんぽ人だけが真相を知らされてない。
 だけど日本人なら、この程度のことなどすぐに調べ上げてしまう。

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『朝鮮小説史(金台俊)』より
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 英祖(1724~1776年)から正祖(1776~1800年)にかけての時代は、その前後とは比較にならないくらい文化的実績が上がった時代だった。その原因として以下が挙げられる。

1. 英祖も正祖も学問と文芸の愛好者であった。
2. 壬辰、丙子両乱による傷跡がある程度回復してきて余力が生まれた。
3. 清朝考証学派の「実事求是」に影響されて経済復興が課題とされた。
4. 党派間の論議が鎮まり、綱紀が粛清されて文化制度の一新が望まれた。

こういった気風から新しい動きが次々と起こった。

1. 孝宗から顕宗の時代を振り返る『磻渓随録(柳馨遠:26巻)』上梓。その中でり経済改革の必要が訴えられる。
2. 北学派(朴趾源を師と仰ぐ李徳懋、柳得恭、朴斉家、李書九らが構成した実学派の一支流)の台頭。「朝鮮を救済するには経済振興が欠かせず、それには外国(この時代だと清国)の現実の生活から長所(この時代だと貿易と交通)を学び取らねばならぬ」と訴えた。
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 しかし問題が一つあった。この国には、当時なお『丙子の乱』で国土を蹂躪した清国への激しい怨念が渦巻いていたのである。
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 李朝の明国への慕化の念は極めて強かった。
 だから朱子学を信奉し、国教と定めてその埒外に出る事を決して許さなかった。
 愛親覚羅氏が清朝の王室として天下に君臨したのはそんな折りである。
 朝鮮半島と満州の関係はたちまち緊張したものになった。
 彼らは不倶戴天の敵であるだけでなく、北虜(北の蛮族)朝廷であったからである。
 しかし、後先顧みず抵抗を続けたせいで討伐を受け、属国として組み込まれてしまった。
 李朝はそれから後も秘かに清国を恨み、蔑み続けた。
 しかし康煕帝、乾隆帝の時代が生み出した高水準の文化と驚愕の学風には圧倒されるしかなかった。
 そして当時の李氏朝鮮はそれを秘かに、しかし夢中になって模倣し始めたのである。
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 その矛盾が文学、特に小説の分野で爆発する。
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 実学派はそれを表面上は攻撃しながら愛読し、翻訳し、また自らも創作も行っていった。
 『軟文学など、この高貴な社会に受け入れられる事はない』
 そう主張する儒者自身が裏ではこぞってそれに読み耽った。
 最新作が出れば必ず誰かが北京まで買い求めに走るのが習いとなった。
 国内にそれを紹介する時には『これは明代の作品です』と釈明するのが常だった。
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そして遂に、超えてはならない最後の一線を越えてしまう。
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1783年(正祖治世7年目)。
 李承薫が歳貢使として北京を訪れた際の事である。

 彼はポルトガル宣教師アレキサンダー・ド・クーペアから洗礼を受ける事になった。
 さらに天主教に関する書籍などを多数入手して帰国した。
 李徳祚、尹促魯、周文謨らが伝道活動を行う様になると、これも爆発的な流行を見る。

* オランダ人ハメル他15名が朝鮮半島に漂着し、幽閉された後でそのうち8名が日本に向けて脱出した。江戸幕府は、彼らが「カソリック」でない事を確認すると残り8名についても引き渡しを要求し、そのうち7名までの引き渡しを受けた。それ以前に、同じくオランダ人ペルテブレについても問い合わせを受けていたが「カソリック」でないという確証がなかったので引き取りを拒絶した。江戸幕府がそこまで「カソリック」を否定したのは、彼らが「カソリック以外の全ての宗教を拒絶し、カソリック教徒でない王に支配されそうになると徹底抗戦する事」を身をもって知っていたからである。しかし李氏朝鮮は結局、その教訓を自国の統治に生かす事はなかった。
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 治世15年目の1791年。
 正祖は遂に稗官雑書、唐本文集をも含む一切の書物の輸入を禁止する。
 しかし、その時には既に何もかも手遅れになってしまっていた。
 国内の小説家、読み手、カソリック信者はその後も破竹の勢いで増え続ける一方だったのである。
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 そして結局、カソリックは弾圧するしかなくなった。
 当然、それは列強を刺激した。
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1801年、辛酉迫害
「王化徹底」の名目に従ってカトリック教徒の弾圧を強化。清国人宣教師周文謨はじめ300余名を処刑し、信者と巻き込まれた者を合わせて数万人を犠牲に。カトリックへの弾圧はこの後も1815年、1827年、1838年など、断続的に行われる。
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1839年、己亥教獄
アンベールらフランス人宣教師三人をはじめ200余人を処刑。
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1846年、丙午教獄
金大建ら20余人を処刑。
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1845年 ついに列強が本気で介入を考え始める
イギリス軍艦が済州島の海域に侵入。「キリスト教徒弾圧への抗議」だったかは不明。
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1846年 まずはフランスが様子を見に行く
フランス海軍がカトリック弾圧に対する抗議の名目で軍事行動を起こす。
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1866年-1872年、丙寅邪獄 当てつけの様にフランス人神父虐殺
ブルマーはじめフランス人宣教師9人と南鐘三ら数千人のカソリック教徒を逮捕、処刑。さらに8000余人の信徒を殺害。
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同年、丙寅洋擾 フランスは、当然激怒
フランスが丙寅邪獄の報復として軍船7隻1500名を派遣して江華島を40日間占領し、宝物・史庫図書など略奪する。
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同年、ジェネラル・シャーマン号事件 ここでアメリカのならず者が乱入。
アメリカの武装商船(大砲2門設置)ゼネラル=シャーマン号が、交易を求めて大同江に侵入し撃滅される。国内カソリック教徒は湧き返ったが、その目的は密輸と掠奪だけだったとも言われている。
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1868年 勢いに任せて余計な相手まで侮辱
攘夷戦争勝利で強気になっていた朝鮮王朝執政大院君は、明治維新を迎えた日本からの使者を侮辱して追い返す。この為日本で後に『制韓論』が台頭する事になる。
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1871年、辛未洋擾 ヤクザの様な強引なやり方でアメリカが介入
軍船5隻を率いて交渉に赴いたアメリカ軍は朝鮮側の奇襲攻撃で撃退されると江華島を占領して通商を迫ったが、大院君の強硬な開国拒絶に遭って1ヶ月余で交渉を断念して撤退。
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1873年 ついに攘夷戦争を続ける国力がなくなる。
閔妃一派による宮中クーデター成功。国土を疲弊させた大院君が追放される。
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1876年(明治8年)、日朝修好条規(江華島条約) 強面が来たらいきなり事大
清国でも沿岸に拠点を置く事しか出来てなかった台湾を1874年の出兵で完全討伐した日本の到来に「追い返したら台湾の二の舞になる」と清国さえも腰が引けた結果。当然李氏王朝にそれを単体撃退する自信などなかった。
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1882年、壬午軍乱 
内乱を制圧する為、政権側とクーデター側が同時に清国の軍隊を呼び寄せる。「恐れるに足らず」と判断した清国軍は、全てを制圧下に置いて内政まで牛耳った。この時点で名実共に『清国の属国』にされ、1995年の下関条約締結までその状態が続く事になる。

*ここで一つ質問。「政権側とクーデター側が同時に同じ国に救援を求めた例」は世界史上にどれくらいあると思う? そんな大ボケさえかまさなければ、清国がここまで強気に出る事もなかったとは思わない?
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それでは、ここで起こった事をまとめてみましょう。
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1. 『手に入れてはいけない』と言われるとかえって欲しくなる。
そして『何故そう言われたのか』熟考する事なしに本当に手に入れてしまう。
2. 絶対挑発してはならない相手を、絶対挑発してはならないタイミングで次々と挑発。
どんどん取り返しのつかない事態になっていくのに、本人だけが一切気にしない。
3. そして対応を間違え続け、勝手に疲れ果て降伏する/蹂躙される/滅ぶ。



あらあら、いつも同じ事の繰り返しですね。
これ「自滅主義」と言ってよいのではないでしょうか。

「過去を正しく反省しない者は
未来においても同じ愚行を何度でも繰り返す」

毎回、本人だけが気づきません。
哀しい話ですが、それを本人に伝える術もありません。

ところで、韓国の歴史教科書では、この『歴史の転回期』は一体どう紹介されてるのでしょうか?


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韓国国定歴史教科書(1996年版)『世界の教科書シリーズ① 新版韓国の歴史
国定韓国高等学校歴史教科書』 明石書店 2000年
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Ⅵ.近代社会の胎動 2.4.対外関係の変化 清との関係

 胡乱以後、朝鮮の清に対する敵傭心は長い間残っていた。清から受けた恥辱を晴らそうとして北伐政策が推進されたこともあった。しかし表面的には使臣がしばしば往来し外交的関係は持続した。

 ところで、清は17世紀米から18世紀にいたる時期に国力が大きく伸長し、文物が栄えた。朝鮮の使臣一行は清を訪問した後に、紀行文や報告書をとおしてこのような事情を伝え、様々な新しい文物を紹介した。このとき千里鏡、自鳴鐘、火砲、万国地図などが伝えられた。こうして朝鮮の学者のなかには.清を排斥するだけでなく、わが国に役立つものは受け人れようという北学論を唱える学者もいた。
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これじゃ何の教訓も学べなくて当然ですね。
# by 699yabuhebi | 2006-12-23 13:20 | 中世・近世史

【日韓歴史比較1727-1910】明治維新と朝鮮半島の産業革命(4)

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韓国併合(Wikipedia )
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朝鮮総督府は1910年-1919年に土地調査事業に基づき測量を行ない、土地の所有権を確定した。この際に申告された土地の99%以上は地主の申告通りに所有権が認められたが、申告がなされなかった土地や、国有地と認定された土地(主に隠田などの所有者不明の土地とされるが、旧朝鮮王朝の土地を含むともいう)は接収され、東洋拓殖株式会社法(明治41年法律第63号)によって設立され、朝鮮最大の地主となった東洋拓殖や、その他の日本人農業者に払い下げられた。これを機に朝鮮では旧来の零細自作農民が小作農と化し大量に離村した。朝鮮総督府は東洋拓殖会社の一部の資金で朝鮮半島で日本窒素などの財閥に各種の投資を行った。日本の統治下で、李朝時代の特権商人が時代に対処できず没落する一方、旧来の地主勢力の一部が乱高下する土地の売買などによって資金を貯め、新興資本家として台頭してきた。これらの新興資本家の多くは総督府と良好な関係を保ち発展した。
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「日本による朝鮮支配の40年(姜在彦/朝日文庫)」1992年 
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1918年、つまり土地調査事業の終わった年の統計によれば、
 全農家の3.3%(9万386戸)が全耕地面積の50.4%を所有(地主)
 全農家の37.6%(100万戸余り)が土地のない小作農
 全農家の39.3%(104万戸余り)が自作兼小作農
 全農家の19.6%(50万戸)が自作農
というような農家構成があらわれています。

 全農家の3.3%、戸数からすると約9万戸が全農地面積の半分以上を所有しているのです。これは農家というよりも地主です。農業経営にタッチせず、じっと座って小作料を得て生活する地主層なのです。もちろんこの3.3パーセントには朝鮮・人、日本人を含みます。(中略)小作料は建前としては5割ですが、実際には7割ぐらいになっていたのです。ですから、朝鮮の全耕地面積の半分から生産される穀物の5割ないし7割が、全農家の3.3パーセントにすぎない地主に集中するということなのです。なぜ小作料が七割ぐらいにまでなったかというと、労働市場においても、労働力を売る側に比べて買う側が少ない場合、売る側は安売りします。それと同じで、農村でも他に転業できるような近代産業が少ないため、土地にしがみつくしかない農家がたくさんいる。おのずから小作権をめぐって小作農民間の競争が起こり、常に地主が有利な立場に立つ。ですから地主の無理難題も通るわけです。

* 「小作人過剰が小作料低下を招く悪循環」「積年の借金苦(1932年調べで全農家のうち52%)」に苦しめられていた朝鮮半島にとって、半島向けに出荷した場合の何倍もの現金収入を入手出来る日本への米輸出こそが唯一の頼みの綱だった。1926年から国内消費量を減少させてまでの輸出ブームが始まり、その結果1932年には1926年の価格の約4割にまで下落するという異常事態が発生した。その為とうとう全農家の約4割を占める最下層自作農(経済原理からいって本来とっくの昔に淘汰されていなければいけなかった層)はついに小作人化するか離農するか選ばざるを得なくなったのである(日本の農家が受けた打撃はそれ以上だったが、韓国人にとって『自分が加害者だった』話は興味の対象外と思われるので、ここでは割愛する)。当然、朝鮮総督府は事態を傍観してはおらず金利低下施策と農村振興運動を積極的に推進していった。しかしそれでもこれを契機に朝鮮半島の産業構造が起こる事は回避し得なかったのである。
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米価暴落により小作業に見切りを付けた貧農の多くが、工場や鉱山で働く労働者に転換していきました。
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1920年代における工業化の推進(朝鮮総督府「朝鮮総督府統計年表」)
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    工場数  従業員数
1920 2,078  55,279
1929 4,052  93,765
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溝口敏行・梅村又次編 『 旧日本植民地経済統計 -推計と分析-』
東洋 経済新報社、1988年。
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工業生産物/農業生産物の純生産物比 (単位:%)
     日本  台湾  朝鮮 
1904 30.7 22.8   日露戦争
1906 41.3 43.6  
1908 43.0 24.7  
1910 50.6 59.8     日韓併合
1912 52.2 51.3 5.8
1914 53.7 45.8 6.8 第一次世界大戦勃発/金輸出禁止
1916 66.9 67.8 12.6
1918 78.7 67.0 12.5 第一次世界大戦終結
1920 67.4 69.3 10.4
1922 86.0 55.2 10.6
1924 85.0 67.2 11.1 関東大震災(1923)
1926 95.0 58.4 15.0
1928 105.9 55.7 15.2 昭和恐慌(1927)
1930 114.6 60.4 14.6 金輸出解禁/浜口首相暗殺未遂
1932 123.7 49.6 16.7 満州事変(1931)/5.15事件(犬養首相暗殺)
1934 161.0 60.1 25.4
1936 165.0 67.2 37.2 2.26事件
1938 212.9 58.9 33.9 盧溝橋事件(1937)

*ふと、何かの本で読んだ一節を思い出した。「朝鮮半島の人は、3.1独立運動の時は確かに皆『マンセー』って叫んでたんですよ。ところが終戦のときは皆『バンザイ』って叫んでるんですよね。良く自分達が変わってしまった事に気付かないもんだと思いました」。果たして戦後の韓国とは何か。「日韓併合前は農業以外にめぼしい産業もない貧乏国家だったのに、解放後は従前の農業生産力を保持しながら工業資本主義化も成し遂げていた(統治体制も朝鮮総領府のそれを継承:すでに職員の半数が韓国人だったので、日本人が去った後残り半分を埋めるだけで良かった)」。その事実を知らないまま今日まで来てしまったのではないか? 工業化に成功した国は日本や台湾を含め全て『近代化の傷み』を自主的に味わって来て、そこで得た教訓をバネにして今日なお発展を続けている。「不愉快だった事は全て日本のせい」と思い込む事で韓国だけその機会を逸し「自主的な工業化が怖し過ぎて出来ないでいる国」の仲間入りを果たそうとしているのではないか。ある掲示板で見掛けた韓国人主婦の書き込みを思い出す。「新しい米軍基地が朝鮮半島のどこかに必要だって事は分かってるんです。でも、どの韓国人も自分の住んでる地域に設置するのには反対しますよね。だから多分朝鮮半島に基地が新設出来ないのは仕方ないですよね?」。韓国人よ、君達の代わりに計画を立てて、憎まれてまでそれを遂行してくれる庇護者はもういないのだ。良い加減気付いて欲しい。
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朝鮮総督府「朝鮮総督府統計年表」各年度 日本帝国主義下の朝鮮経済(金洛年)
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産業別生産価額  (単位:百万円)
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   1918年 1925年 1930年 1935年  1940年
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農業  984   1,178   686  1,105  1,970
水産業  33   54   52    69   191
林業  26    52   61   111   198
鉱業  15    15   19   74   357
工業  180   308 280   568  1,874
紡績  26    41   46   83   232
金属   24   20   12   27  130
機械器具  3    5   10    12    77
窯業   4    10   10    18    62
化学  14    42   42  147  669
木製品   3    6    6    8    35
印刷製本  3    8    9    13    19
食料品   45    98   82   169   373
その他   59    78   64    91   246
合計  1,238 1,608 1,099  1,927  4,591
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* 戦前日本に留学して労働運動について学んだ「本格抗日派」の方がこういう事態をどう考えるべきかについて精通していた。なぜならそれはまさしくマルクスの『資本論』に描かれた資本主義形成過程に他ならなかったからである。

イギリスにおける毛織物産業の成長の例

「牧草地の拡大→近隣農民の生業阻害(いわゆる『囲い込み』)
 →都会への貧民層流入→織物工場の労働者確保」

 この過程はまさに日本列島と朝鮮半島でも起こった事だ。マルクス主義哲学はその次の段階で『富の再配分に領主が応じる事はないので、労働者は暴力革命に走らねばならぬ』事を想定するのだが、日本はその不可能とされる『労働者への富の再配分』を歴史上幾度も繰り返してきた。タネを明かせば簡単で『労働者から勤労意欲を引き出すには一定以上の見返りがなければならぬ』と考える伝統が昔から存在し、労働者が勤労意欲を失い始める都度、微調整を入れるノウハウが昔から存在してきたのである。当時は「これに賭けて見よう」と思った人が「親日派」となり、「所詮は目くらましよ」としか感じられない人物が「本格抗日派」となった。戦後になってやっと「仕組みさえ分かれば、別に日本を意識するまでもない」と気付き、それの韓国版を実践して国民や社員の勤労意欲を引き出す人物が現れてくる。朴正煕(パク・チョォンヒ)大統領や三星社長李健熙(イ・ゴンヒ)がそうで、彼らなしに『漢江の奇跡』の達成は不可能だったのだが、戦前からパラダイムシフトを迎えてない新左翼(ニューレフト)層の目には彼らさえも『まやかし』に過ぎず憎むべき『親日派(チルンパ)』にしか見えてない。本当に韓国は既に『自分の運命(パルチェ)を選び終わって』おり『もはや誰にも邪魔されたくない』としか感じられない段階に入っているのか? 改めて韓国人に問いたい。「サムスンがニューヨークに本社を移転する手続きを黙々と進めている」という噂がある。韓国の皆さんはこれについてどう思いますか。自分達が何に加担してるのかが分かっていますか。

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ところで開発の資本はどこから調達して来たのでしょう?
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「財政・金融政策から見た朝鮮統治とその終局」 
財団法人友邦協会/朝鮮史料編纂会/朝鮮総督府元財務局長水田直昌
第6章朝鮮産業の資金形成
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朝鮮開発の財源
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朝鮮に於ける生産拡充、産業界に於ける資金形成の問題ということですが、自己による資本の蓄積というものは低調でありまして、昭和17年、昭和18年までは、常に預金が貸し出しに及ばないオーバー・ローン、今のオーバーローンは中央銀行から資金を借りてオーバーローンと言いますが、預金が貸し出しに及ばないということをもってオーバーローンということであれば常に朝鮮はオーバーローンであった。しからば預金が貸し出しに及ばないというギャップは何で埋めたのかと言いますと、大体殖産債権、東拓債権、金連債権というものによって取り入れた資本でギャップを埋めておったというのが、朝鮮の実情です。それから朝鮮銀行券の保証発行、これは例の資金をクリエートする。大部分は殖産債権、東拓債権、金連債権であったのです。具体的の数字を申し上げますと、昭和15年末でありますが、一括した銀行の預金が十一億四千九百万円、それに対する貸出が19億6300万円となります。金融組合はこれはトントンくらいです。信託預金が8200万円、貸出が6700万円、東拓預金が1600万円、貸出1億4700万円。それから郵便貯金が1億2700万円、これは全部預金部に入ってしまいますから、郵便貯金の貸出はないので、バランスに於いてはゼロということになります。預金を全部集めまして17億4800万円、貸出が25億4600万円ということになって、貸出は8億近くの貸出超過、その他に銀行で保有しておる有価証券投資というものがあるわけです。これが8億4800万円でございますから、貸出超過と保有有価証券の合計が16億くらいになるわけです。これを何でやるか、大体殖産債権が5億7700万円、東拓債権が4億2200万円、金連債権が3100万円、保証発行が2億9000万円、大体これで13億になるわけです。その他数字上の若干のギャップがありますが、大勢をにらんで見ますと、貸出超過が8億と有価証券を合わせてこれこれ、それの主なる財源は東拓債権その他が大部分である。これは殆んど全部内地の金融市場からとって来た。これが朝鮮の実情です。後進国としてあまりなかったわけです。それからまた野口さんあたりの日本窒素などが向こうの会社つくる。あるいは製糖会社とか、紡績会社とか、直接のルートで朝鮮に資金を持ってくるということで、相当な資金流入になっておった。金融機関だけでも広い意味のオーバー・ローンということでやってきた。それを内地の金融市場に求めるということなんです。

*日本人が良く口にする「朝鮮半島支配は、全然見合わないビジネスだった」の傍証。正直言ってあと50年支配が続けられたら、「初期投資を回収して収奪の段階に入ってた」かもしれない。でも何もなくったってその頃には世界中が「独立ブーム」で沸いてたんじゃないかと思う。現実は常にそんなに甘くない。
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朝鮮内の設備の拡張を伴う産業資金の調達法

1943年、18年度に於きまして、朝鮮内の設備の拡張を伴う産業資金の調達法という調べがあります。これが内地からどれくらい、朝鮮からどれくらいということを申し上げる一つの資料ですが、その数字を見ると、各会社の手持ち資金が1億2501万円、それからその年における利益をあげた社内留保、1億4085万円、株の払込が3億9874万円、社債が7000万円、金融機関からの借り入れが6億9960万円、金融界以外からの借入れが1億3175万円、合計しまして設備拡張のために投下されたのが15億6700万円となっております。 その中で鮮内で調達しましたのが、手持ち資金が1706万円、それから保留利益が1億8055万円、株の払込が1億4871万円、社債が1000万円、金融機関の借入れが3億3330万円、その他から4374万円、合計しまして7億6808万円、15億の中7億6000万円というものが鮮内調達、8億が内地の調達、こういうような数字が出ております。金融機関だけから見ますと、預金貸出のバランスが出ておりますが、朝鮮内の資源開発に投下した半分以上というものは、内地から取り入れておる。内地の会社は住友、三井、三菱、など18年度から非常に進出しておりますから、内地に於いて自分自らの力で随分資本を持っていっておるわけです。                  

*「朝鮮半島は日本の軍需基地として使われた」韓国人はよくそう主張するし歴史教科書でもそう紹介されている。ただし、そういう側面が全面に出てきたのは戦争が大分進行した後になってからの事で、この史料はそれが「1943年頃」からであった事を示す傍証である。確かにここで生産された成果物自体は朝鮮半島の為に何の役にも立たなかったかもしれないが、その製造を通じて熟練労働者を大勢養成した筈で、それ自体は戦後の再建の為に大いに役立った筈である。「儲かっただろ?」とは口が裂けても言わない。外地内地を問わず戦争が泥沼化するに従って「供出」という名前の庶民からの収奪が組織的に徹底的に行われた事は知ってるからだ。そして、その責任は全て「負ける戦争」を始めてしまった日本国にある。それについては、本当に申し訳ないとしか言い様がない。考えてみれば、そういう立場に立てば韓国人も靖国神社の戦犯を非難できるのだが、どうして気が付かないのだろう?
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両者を比較していてどうしても考えざるを得ない問題があります。それは「日本は朝鮮半島において『版籍奉還』に始まる一連の『旧特権階級追放』施策を完遂すべきだったかどうか」という事です。強行したらしたで大量の不満を抱えた『没落両班』が生まれ、日本の『大陸浪人』と結託して『大陸両班(武官と文官が揃う)』とか『両班棒子(押し寄せるとしたら中国大陸しかない)』とかになってたかもしれません。そして、それによって戦後の『反日色』は弱まってたでしょうか? それともかえって強まってたでしょうか?
# by 699yabuhebi | 2006-12-23 13:13 | 近現代史