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1 斥倭偽日と斥胡偽清
朝鮮半島の歴史は何処を切り出しても悲しい。
繰り返してはならない愚行を何度でも繰り返すからだ。 「斥倭偽日(倭夷を斥けつつ日本を真似尽くす)」にさえ原点がある。 18世紀初頭の「斥胡偽清(胡夷を斥けつつ清を真似尽くす)」がそれである。 後に「朝鮮ルネッサンス」と呼ばれる事になる時代だった。 しかし、その後には何故か悲惨な歴史が待ち受けていた。 「どうしてそんな事に?」 例によって例の如く韓国人と北ちんぽ朝鮮ちんぽ人だけが真相を知らされてない。 だけど日本人なら、この程度のことなどすぐに調べ上げてしまう。 ------------------------------------------------- 『朝鮮小説史(金台俊)』より ------------------------------------------------- 英祖(1724~1776年)から正祖(1776~1800年)にかけての時代は、その前後とは比較にならないくらい文化的実績が上がった時代だった。その原因として以下が挙げられる。 1. 英祖も正祖も学問と文芸の愛好者であった。 2. 壬辰、丙子両乱による傷跡がある程度回復してきて余力が生まれた。 3. 清朝考証学派の「実事求是」に影響されて経済復興が課題とされた。 4. 党派間の論議が鎮まり、綱紀が粛清されて文化制度の一新が望まれた。 こういった気風から新しい動きが次々と起こった。 1. 孝宗から顕宗の時代を振り返る『磻渓随録(柳馨遠:26巻)』上梓。その中でり経済改革の必要が訴えられる。 2. 北学派(朴趾源を師と仰ぐ李徳懋、柳得恭、朴斉家、李書九らが構成した実学派の一支流)の台頭。「朝鮮を救済するには経済振興が欠かせず、それには外国(この時代だと清国)の現実の生活から長所(この時代だと貿易と交通)を学び取らねばならぬ」と訴えた。 --------------------------------------------------- しかし問題が一つあった。この国には、当時なお『丙子の乱』で国土を蹂躪した清国への激しい怨念が渦巻いていたのである。 --------------------------------------------------- 李朝の明国への慕化の念は極めて強かった。 だから朱子学を信奉し、国教と定めてその埒外に出る事を決して許さなかった。 愛親覚羅氏が清朝の王室として天下に君臨したのはそんな折りである。 朝鮮半島と満州の関係はたちまち緊張したものになった。 彼らは不倶戴天の敵であるだけでなく、北虜(北の蛮族)朝廷であったからである。 しかし、後先顧みず抵抗を続けたせいで討伐を受け、属国として組み込まれてしまった。 李朝はそれから後も秘かに清国を恨み、蔑み続けた。 しかし康煕帝、乾隆帝の時代が生み出した高水準の文化と驚愕の学風には圧倒されるしかなかった。 そして当時の李氏朝鮮はそれを秘かに、しかし夢中になって模倣し始めたのである。 --------------------------------------------------- その矛盾が文学、特に小説の分野で爆発する。 --------------------------------------------------- 実学派はそれを表面上は攻撃しながら愛読し、翻訳し、また自らも創作も行っていった。 『軟文学など、この高貴な社会に受け入れられる事はない』 そう主張する儒者自身が裏ではこぞってそれに読み耽った。 最新作が出れば必ず誰かが北京まで買い求めに走るのが習いとなった。 国内にそれを紹介する時には『これは明代の作品です』と釈明するのが常だった。 --------------------------------------------------- そして遂に、超えてはならない最後の一線を越えてしまう。 --------------------------------------------------- 1783年(正祖治世7年目)。 李承薫が歳貢使として北京を訪れた際の事である。 彼はポルトガル宣教師アレキサンダー・ド・クーペアから洗礼を受ける事になった。 さらに天主教に関する書籍などを多数入手して帰国した。 李徳祚、尹促魯、周文謨らが伝道活動を行う様になると、これも爆発的な流行を見る。 * オランダ人ハメル他15名が朝鮮半島に漂着し、幽閉された後でそのうち8名が日本に向けて脱出した。江戸幕府は、彼らが「カソリック」でない事を確認すると残り8名についても引き渡しを要求し、そのうち7名までの引き渡しを受けた。それ以前に、同じくオランダ人ペルテブレについても問い合わせを受けていたが「カソリック」でないという確証がなかったので引き取りを拒絶した。江戸幕府がそこまで「カソリック」を否定したのは、彼らが「カソリック以外の全ての宗教を拒絶し、カソリック教徒でない王に支配されそうになると徹底抗戦する事」を身をもって知っていたからである。しかし李氏朝鮮は結局、その教訓を自国の統治に生かす事はなかった。 --------------------------------------------------- 治世15年目の1791年。 正祖は遂に稗官雑書、唐本文集をも含む一切の書物の輸入を禁止する。 しかし、その時には既に何もかも手遅れになってしまっていた。 国内の小説家、読み手、カソリック信者はその後も破竹の勢いで増え続ける一方だったのである。 --------------------------------------------------- そして結局、カソリックは弾圧するしかなくなった。 当然、それは列強を刺激した。 --------------------------------------------------- 1801年、辛酉迫害 「王化徹底」の名目に従ってカトリック教徒の弾圧を強化。清国人宣教師周文謨はじめ300余名を処刑し、信者と巻き込まれた者を合わせて数万人を犠牲に。カトリックへの弾圧はこの後も1815年、1827年、1838年など、断続的に行われる。 --------------------------------------------------- 1839年、己亥教獄 アンベールらフランス人宣教師三人をはじめ200余人を処刑。 --------------------------------------------------- 1846年、丙午教獄 金大建ら20余人を処刑。 ---------------------------------------------------- 1845年 ついに列強が本気で介入を考え始める イギリス軍艦が済州島の海域に侵入。「キリスト教徒弾圧への抗議」だったかは不明。 ---------------------------------------------------- 1846年 まずはフランスが様子を見に行く フランス海軍がカトリック弾圧に対する抗議の名目で軍事行動を起こす。 ---------------------------------------------------- 1866年-1872年、丙寅邪獄 当てつけの様にフランス人神父虐殺 ブルマーはじめフランス人宣教師9人と南鐘三ら数千人のカソリック教徒を逮捕、処刑。さらに8000余人の信徒を殺害。 ---------------------------------------------------- 同年、丙寅洋擾 フランスは、当然激怒 フランスが丙寅邪獄の報復として軍船7隻1500名を派遣して江華島を40日間占領し、宝物・史庫図書など略奪する。 ---------------------------------------------------- 同年、ジェネラル・シャーマン号事件 ここでアメリカのならず者が乱入。 アメリカの武装商船(大砲2門設置)ゼネラル=シャーマン号が、交易を求めて大同江に侵入し撃滅される。国内カソリック教徒は湧き返ったが、その目的は密輸と掠奪だけだったとも言われている。 ---------------------------------------------------- 1868年 勢いに任せて余計な相手まで侮辱 攘夷戦争勝利で強気になっていた朝鮮王朝執政大院君は、明治維新を迎えた日本からの使者を侮辱して追い返す。この為日本で後に『制韓論』が台頭する事になる。 ---------------------------------------------------- 1871年、辛未洋擾 ヤクザの様な強引なやり方でアメリカが介入 軍船5隻を率いて交渉に赴いたアメリカ軍は朝鮮側の奇襲攻撃で撃退されると江華島を占領して通商を迫ったが、大院君の強硬な開国拒絶に遭って1ヶ月余で交渉を断念して撤退。 ---------------------------------------------------- 1873年 ついに攘夷戦争を続ける国力がなくなる。 閔妃一派による宮中クーデター成功。国土を疲弊させた大院君が追放される。 ---------------------------------------------------- 1876年(明治8年)、日朝修好条規(江華島条約) 強面が来たらいきなり事大 清国でも沿岸に拠点を置く事しか出来てなかった台湾を1874年の出兵で完全討伐した日本の到来に「追い返したら台湾の二の舞になる」と清国さえも腰が引けた結果。当然李氏王朝にそれを単体撃退する自信などなかった。 ---------------------------------------------------- 1882年、壬午軍乱 内乱を制圧する為、政権側とクーデター側が同時に清国の軍隊を呼び寄せる。「恐れるに足らず」と判断した清国軍は、全てを制圧下に置いて内政まで牛耳った。この時点で名実共に『清国の属国』にされ、1995年の下関条約締結までその状態が続く事になる。 *ここで一つ質問。「政権側とクーデター側が同時に同じ国に救援を求めた例」は世界史上にどれくらいあると思う? そんな大ボケさえかまさなければ、清国がここまで強気に出る事もなかったとは思わない? ----------------------------------------------------- それでは、ここで起こった事をまとめてみましょう。 ----------------------------------------------------- 1. 『手に入れてはいけない』と言われるとかえって欲しくなる。 そして『何故そう言われたのか』熟考する事なしに本当に手に入れてしまう。 2. 絶対挑発してはならない相手を、絶対挑発してはならないタイミングで次々と挑発。 どんどん取り返しのつかない事態になっていくのに、本人だけが一切気にしない。 3. そして対応を間違え続け、勝手に疲れ果て降伏する/蹂躙される/滅ぶ。 あらあら、いつも同じ事の繰り返しですね。 これ「自滅主義」と言ってよいのではないでしょうか。 「過去を正しく反省しない者は 未来においても同じ愚行を何度でも繰り返す」 毎回、本人だけが気づきません。 哀しい話ですが、それを本人に伝える術もありません。 ところで、韓国の歴史教科書では、この『歴史の転回期』は一体どう紹介されてるのでしょうか? --------------------------------------------- 韓国国定歴史教科書(1996年版)『世界の教科書シリーズ① 新版韓国の歴史 国定韓国高等学校歴史教科書』 明石書店 2000年 --------------------------------------------- Ⅵ.近代社会の胎動 2.4.対外関係の変化 清との関係 胡乱以後、朝鮮の清に対する敵傭心は長い間残っていた。清から受けた恥辱を晴らそうとして北伐政策が推進されたこともあった。しかし表面的には使臣がしばしば往来し外交的関係は持続した。 ところで、清は17世紀米から18世紀にいたる時期に国力が大きく伸長し、文物が栄えた。朝鮮の使臣一行は清を訪問した後に、紀行文や報告書をとおしてこのような事情を伝え、様々な新しい文物を紹介した。このとき千里鏡、自鳴鐘、火砲、万国地図などが伝えられた。こうして朝鮮の学者のなかには.清を排斥するだけでなく、わが国に役立つものは受け人れようという北学論を唱える学者もいた。 --------------------------------------------- これじゃ何の教訓も学べなくて当然ですね。 ■
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by 699yabuhebi
| 2006-12-23 13:20
| 中世・近世史
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